第五章 その③
意識を失ってから、ジャックは夢を見た。
夢だとわかったのは、自分の体がひどく小さくなって、美しい場所にいたからだ。
背が低くなって、何かを見ようと思うと常に視線を上に向けていなくてはならない。これは子供の背の高さだ。子供になって、見たこともないような美しい場所にいる。
そこは、光射す庭だった。薔薇がたくさん植えられている。サジュマン家の屋敷の庭も多くの薔薇を植えているが、その比ではない。
その薔薇の園を、ジャックは小さな体で駆け回っている。
そういえば、誰かを探していたはずなのだ。それで、ずっとこの広い場所を走り回っていた。
これが夢であることも、自分が子供になってしまっていることもわかるのに、誰を探しているのかもここがどこなのかもわからない。
わからないから、ただひたすら走るしかなかった。
自分が子供になっていることを自覚すると、この小さな体はずいぶんと不便に思える。大きく一歩踏み出したつもりでも、あまり進んでいないのだ。
傍から見れば足をちょこまか動かしているようにしか見えないだろう。
そんなことを考えたら唐突に走るのが嫌になってしまって、ジャックはその場にごろんと寝そべった。
寝転がると、青空が見えた。金属の格子越しに見える青空だ。それでようやく、ここが温室であることがわかった。
「――――」
不意に、誰かの声が聞こえた。聞いた途端、それが自分の名前だとわかった。長らくその名で呼ばれていないのに、自分の名だとわかった。
呼ばれて、弾かれたように立ち上がって、ジャックは声のしたほうに駆け出した。そこには、二人の大人がいる。
「――――、どこに行っていたんだ?」
「走り回っていたら転んでしまうわよ」
大人は、男と女だった。どちらもピースの欠けたパズルのように、顔が見えなかった。
それでも、ジャックに優しく笑いかけてくれているのがわかる。大切にされているのが伝わってくる。
男のほうに抱きかかえられ、これは夢だ、と改めて悟った。
抱えられ、肩車をされ、ずいぶんと高いところから温室のガラスの天井越しに空を見たところで、ジャックの目は開いた。
「やっと起きたか」
目覚めると、黒髪黒目の見慣れない顔に覗き込まれていた。親しげに話しかけてくる様子と声から、それがペストマスクを外したピーだと気がつくのに時間がかかった。
「ピーか。ここは……飛空城?」
「そう。あれから僕ら、城に運ばれて手当てをされたんだ。お嬢さんと僕は一日寝てたら元気になったよ」
「俺は……どのくらい眠ってた?」
寝せられているのは簡素ではあるが物がいいことがわかる寝台の上。そしてその寝台が置かれているのは、ほどよく調えられた部屋だった。
客室なのかと思ったが、それにしては万事控えめだ。広さも、装飾も。王城内の客室がこんなに控えめであるわけがないから、何となく違和感を覚えた。
「五日ほどかな」
「そうか……五日もか」
「大怪我だったわけだし、冥界の庭も痛手を負ったんたから仕方ないよ。そのわりには、かなり早い回復だと思う。城の人間たちが尽力したから」
「……どうやら、すごい人たちがいるみたいだな」
時計塔での戦闘で、自分がかなりの怪我をした自覚はあった。それなのに目覚めた今は、体の目立った場所に傷はない。寝台の上に起き上がると怠さはあるが、傷が疼くことも骨が軋むこともなかった。
それはつまり、寝ている間に治癒されたということだ。飛空城は、女王は、すごいのだと思い知らされる。
「そうだそうだ。君が目覚めたら尋ねておくよう女王に言づかってたことがあるんだった。『何か思い出しましたか?』だってさ」
「……は?」
聞かれた内容があまりにも予想外だったため、思わず戸惑いの声がもれた。わざわざ言づけてまで尋ねることなのだろうかと、疑問しかわかない。
「思い出す? って何を? それは時計塔でのことを思い出せ、という問いなのか?」
「さあ。僕もこのまま伝えるように言われただけだから、陛下が何を知りたがっているかはわからないや。でも、何も思い出してないならいいんじゃない?」
戸惑うジャックをよそに、ピーは暢気な様子で言ってから怠そうに大きく伸びたり手首をぐるぐる回したりしていた。どうやら疲れているらしい。
「ピー、なんでそんなにきつそうなんだ? まだどこか悪いのか?」
心配して言うと、ピーは不満そうに唇を尖らせた。
「それがさ、城の連中に僕の能力をいろいろと調べられるというか試されてたんだ。〝緑の指〟が珍しいってさ」
植物を生えさせられたり伸ばさせられたり、とにかくいろいろさせられたらしい。それをくどくどと愚痴られたが、ジャックはピーのあの能力が〝緑の指〟と呼ばれるということしかわからなかった。
「とにかく、この城の人間たちは僕らの能力に興味津々だ。ジャックも今回の騒動のことを含めていろいろ聞かれると思う。ジャックの冥界の花、変わってるしね」
うんざりしつつも、心配そうにピーは言った。その言葉によって、ジャックは自分の冥界の花が青い薔薇だったことを思い出した。
ずっと得体の知れない植物だと思っていたが、ロランヌに接ぎ木の能力で救われたときに花開いて、薔薇だと判明した。
だが、王族にしか咲かない薔薇が咲いたということで、やはり自分の得体の知れなさが増しただけだった。
「それなら、俺も女王陛下に聞きたいことがある」
「そうか。まあ、気になることはあるよね。それならついていくよ。いきなり消されたりはしないと思うけど、僕らはやっぱりこの城では異物だと思うから」
ジャックが寝台から起き上がろうとすると、ピーが肩を貸してくれた。体には思いのほか力が入らず、介助してもらえるのは助かった。
それに、ずっと眠っていてこの城のことは知らない。知っている人の付き添いなしには歩き回ることは難しいだろう。
「ジャックのもともと着てた服はここね」
「……きれいになってる。暗器も……全部揃ってる」
戦いによってほつれたお仕着せが繕われていたことは想定内ではあったが、まさか懐に忍ばせていた暗器や倒れたときに両手に持っていたナイフまできちんと内側の収納に揃えてあったことには驚いた。
「……バローさん、怪我治ったかな」
最後に屋敷で別れたときの様子を思い出して、ジャックは不安になった。あの屈強な人が死ぬわけはないと思っているが、最後に見た姿は大怪我をしていたから。
「お嬢さんが陛下に言って、屋敷の様子は見に行ってもらったみたいだよ。それで大丈夫だったようだから、平気だろ」
「そっか。……でも、帰らないとな。このナイフ、返す約束だから」
着替えて廊下を歩きながら、ジャックは妙な感覚に襲われていた。
飛空城には初めて登ったはずなのに、先ほどの部屋を出てから見えてきたものは〝知っていた〟。空飛ぶ城なんてものは世界にほかにないはずだし、世の中のどんな建物とも構造が違うはずなのに、ジャックはこの廊下の景色を見たことがあった。
だから、女王の居場所を城の者に尋ねて温室だと教えられてからも、迷わずたどり着くことができた。
温室のドアを開けると、むせ返りそうなほどの芳香に迎えられた。そして視界に飛び込んでくるのは、咲き乱れるたくさんの薔薇。そこは温室というより、薔薇園だった。
「ジャック。目覚めたのですね」
足音は立てなかったはずなのに、ジャックに気がついた女王がすぐに振り返った。
今日も信じられないほどの若さと美貌だ。式典のときとは違い簡素なドレスと汚れないようにエプロンを身に着けているが、それでかすむような輝きではないのが不思議だ。
「……おかげさまで。手当てをしていただいた上、長らく療養させていただいたこと、感謝しております」
サジュマン家の従者として恥ずかしい振る舞いはできないと、ジャックは不慣れながら恭しく最大限の礼をしてみせた。バローに厳しく仕込まれて、ロランヌにもお墨付きをもらった礼だ。だが、なぜだか女王にはくすくす笑われてしまった。
「そんなに堅苦しくしていなくていいのよ。それに、もういってしまうみたいな口ぶりだけれど、ゆっくりしていて構わないのだから」
そう言って女王がちらりと視線を送る先には、籐製の座椅子にゆったり腰掛けて眠るロランヌがいた。それを見て、何だかジャックは嫌な気分になる。光射す薔薇園で眠るロランヌは、とても絵になるのに。
「報告も、すでにロザリーヌとそちらのピーから受けています。残党がいないか、ほかに関連した事件がないか、調べさせています。だからもう、心配はいらないわ」
落ち着かない気持ちになったのを悟られたのか、女王はジャックを安心させるように言う。だが、この居心地の悪さは不安から来るものではない。
「ピーから聞いたかもしれないけれど、我々はあなたたちを保護したいと思っているのよ。非常に珍しい、貴重な能力を持っているのだもの。ロザリーヌのこともずっと心配でしたし、あなたたちのことも知った以上、もう市井に置いて危険な目に遭わせたくはないわ。特にあなたは」
緊張を解かないジャックに、女王は今度は少し困った顔をしてみせた。美しい人にこの表情を浮かべられれば、大抵の者は心を動かされるのだろう。だが、ジャックは警戒心が増しただけだった。
〝特にあなたは〟の続きは何だろうかと考えて、ジャックは胸を押さえた。それはたぶん、ジャックの冥界の花のことを言っているのだろう。それなら、ジャックも女王に聞かなければならないことがある。
「あの、陛下。お聞きしたいことがあるのですが」
「なにかしら」
「陛下は……俺のお祖母様ですか?」
それは、素朴な疑問だったのだ。王族の冥界の庭にしか咲かない薔薇が咲いたとわかったときから、ずっと頭の片隅にあったことだった。
だがそれは誰も予想していなかったことらしく、女王は面食らった顔をして、隣でピーは吹き出し、そして少し離れた場所で眠っていたはずのロランヌはぱっちりと目を開けた。
「ジャック! あなたってば……もう、なんてことを言うの!」
「え、あ、お嬢様……」
日頃はぷんぷん怒ることはあったとしても基本は穏やかなロランヌが、目を釣り上げて本当に怒っているのがわかった。
「陛下、申し訳ありません。悪気はないのですが、大変失礼なことを申しました」
「良いのですよ。でも、残念。私はあなたの祖母ではありません」
ジャックの代わりに恐縮するロランヌに、女王は優しく微笑んだ。そして、ジャックに向き直る。
「ですが、あなたの両親はかつてここにいましたよ。あなたも。――何か思い出しましたか?」
あの問いはやはりそういうことだったのかと、ようやく合点がいった。
目覚める前に夢で見たのは、おそらくこの飛空城で過ごした日々のことだ。ガラスの天井越しに見上げる空は、見覚えがあるものだ。
そして先ほど目覚めた部屋も、父か母かが使っていたものなのだろう。だから妙な感覚があったのだ。
だが、ジャックは女王の問いに首を振った。
語るほどのことは何も思い出していないし、思い出したいという気持ちもない。その代わり、得体の知れない自分に対しての恐怖はなくなった。今は、ありのままの自分を受け入れられる。
「いいえ、何も。俺はこれからもずっと、サジュマン家のジャックです。主であるロランヌお嬢様と、親代わりのバローさんがいるだけの、ただのジャックです」
「そうですか。それでも、あなたがここにいたいというのなら、いつまでいてもいいのよ」
きっぱりと言い放つジャックに、女王は寂しそうにした。それを見て少しだけ胸が痛んだが、信用しきれないと思う気持ちもあった。
薔薇が咲いていたのは、ジャックの冥界の庭だけではない。キングと名乗っていたあの男の庭にだって、薔薇が咲いていた。
ジャックはその意味を女王に問うほど無謀でも向こう見ずでもないが、これからもずっと忘れずにいようと思っている。
「これから、どうするの? 何か必要なものがあれば言ってちょうだい。力を尽くします」
女王はなおもジャックを懐柔できないかと機会をうかがっているようだ。それを聞いて感激した様子のロランヌを見て、ここから出なくてはという意思をジャックは強くした。
「東方の国へ、行ってみたいと考えております。自身のルーツを探りに。願わくばピーと、お嬢様も一緒に行けたらいいのですが」
隣でピーがコクコクと頷き、ロランヌは目を輝かせた。ロランヌは何もわからず無邪気だが、ピーはジャックが考えていることを理解しているのだろう。
「薬売りたちもガーデナーも、もともとの能力は東方の国の宗教に従事する者たちのものだと聞いたことがあります。加えて僕らのこの容姿は、あきらかに東方由来のものですから。ルーツを知ることで、国に何かもたらせるかもしれませんし」
ジャックに口添えするように、ピーも口を開いた。打ち合わせをしていたわけではないが、うまいこと付け加えてくれて助かった。
「二人でいつの間にそんなことを考えていたの? でも、素敵だわ! 陛下、わたくしも彼らと一緒に遊学したいです。あちらにしかない美しい花を見つけて、陛下にお持ちしますわ!」
ここに残ると言われたらどうしようかと思ったが、ロランヌはジャックの提案に乗り気になった。
「遊学……そうね。東方の国とは友好関係にありますし、大切な子らには旅をさせて学ばせてやらねばならないと言うわね」
初めは渋っていたふうの女王だったが、無邪気に喜ぶロランヌを目の前にしたらほだされたのか、仕方ないというように頷いた。
「ガーデナーや薬売りなど、この国の力となってくれる者たちの育成や勧誘にも力を入れたいと考えていたの。あなたたちを外へ行かせることがその育成と考えれば……」
最後には、そう納得してくれた。
外へ行くことを許しても絶対に手綱を放すつもりはない――そんな女王の意図を感じたが、この城から出られるならそれでいいと、ジャックは自分を納得させた。
「いやぁ、楽園は追放されるのではなく出立するのがいいよね」
女王と温室で顔を合わせた日から数日後、飛空城を出て街まで降りてすぐピーは言った。
あの戦いの夜から十日ほどしか経っていないというのに、ずいぶんと長い時間が過ぎた気がする。
「ピーの言うことはよくわからないわね」
「わかりませんか。確かに僕の発言は掴みどころがないって言われます」
意味がわからず笑うロランヌに、ピーも説明することなくごまかしていた。だが、ジャックは彼が言いたかったことがわかる。
庇護下に入ってから捨てられたりいなかったものとされたりするよりも、庇護下に入らずにいることのほうが安全だと言いたいのだろう。
女王を敵にするつもりはさらさらないが、味方だと思うこともできそうになかった。
だから、ジャックたちはこれから旅に出る。
「さあ、これから忙しくなりますよ。まずは屋敷に戻って荷物をまとめて、そのあとは東方への船が出る港まで移動です」
「素敵ね。……わたくし、どこかへ行けるなんて考えたこともなかったのだわ」
ジャックの言葉に、ロランヌは目を輝かせて言った。
何の気ない発言だったのだろう。だがそれはロランヌのこれまでの人生を表しているようで、ジャックの胸は苦しくなった。
「どこへでも行けますし、何をしたっていいんですよ。ロール様は、自由なんですから」
これは誰かが言ってやらなければ成らないだろうと思い、ジャックは言った。
何にも怯えず何にも縛られず生きる権利があると、教えてやらなければならない。そうでなければロランヌは、そんなことを考えることなく生きてきたのだから。
「そうね……そうよね! じゃあわたくし、屋敷に戻る前に三番街へ行きたいわ。例のお菓子屋さんに、まだ行けていなかったんですもの」
ジャックの言葉にひらめいたのだろう。ロランヌは、嬉しそうに言う。
そういえばそうだったなと思い出し、ジャックも頷いた。この機を逃せばもしかしたら、一度も行く機会がないかもしれない。
「ええ、行きましょう。お嬢様が行きたい場所へならどこへでもお供します」
少し格好つけて言えば、ロランヌは満足そうに笑った。
どこへ行ったとしても、この笑顔を守るためだけに生きていくのだ――ジャックはそう、決意を新たにした。
〈END〉
青薔薇のジャック 猫屋ちゃき @neko_chaki
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