第3話

「今夜がとうげかと……」


 リチラトゥーラの眠る子供部屋に重い空気が漂った。


 ❅


 リチラトゥーラの母が患ったとされるその不治の病は、不治と云われているために現在のスニェークノーチ国の医療技術では助からない可能性が高かった。

 小児時に発症する確率は低かった。にも関わらずリチラトゥーラは発症してしまった。恐れていたことが現実に起こり、国王もロウもその場に立ち尽くすほかすることができなかった。


 体が熱を発している所為か、リチラトゥーラの頬は赤く染まり、吐く息は荒く熱い。こんなにも弱々しくなってしまったリチラトゥーラの姿を見るのが初めてで、ロウは思っていた以上に戸惑っていたことを自身の手の震えによって実感した。


 リチラトゥーラの意識は三日三晩高熱に魘され続けた。四日目にして意識を取り戻したリチラトゥーラは何故か哀しげな表情をしていた。そしてそばについていたロウを潤んだ目で見つめた。ロウはリチラトゥーラの小さな手を握っている。その小さな手は弱々しく、握り返す力は緩かった。


 彼女に死が近づいているのだと、


 ❅


 彼女が病に倒れてからというもの、使用人としてロウはリチラトゥーラの看病を率先しておこなった。そうして数日という長い時間を要したが、リチラトゥーラは起き上がれるほどに快復した。

 ある日リチラトゥーラはロウに「お前の故郷の話が聞きたいわ」と問うた。


「なんで」

「前から聞きたいと思っていたの。だめ?」


 微熱によって潤んだ瞳に見つめられると、ロウは思わず視線を手に持っていた水桶に逸らした。彼は現実を見つめることを拒絶したのだ。しかし、今の彼にとって絶対的存在となりつつあるリチラトゥーラの命令おねがいは拒絶することができなかった。渋々と彼女の側にあった椅子に腰を掛け、ロウは自身の故郷について語り始めた。


「……あんまり、この国に来る前のことは憶えていない。けれど、寒かったことは憶えている」

「寒い? この国よりも寒い場所があるの?」

「物理的な寒さではなかったと思う。きっと、心理的なものだ」


 心が寒かった。その記憶だけが鮮明に彼の魂に刻まれていた。

 不意にロウの視界が暗闇に染まる。一瞬体が強張こわばったロウであったが、その原因を理解すると、ふっと体から余計な力が抜けていった。

 リチラトゥーラがロウを抱き締めたのだ。彼女の温もりが彼に掛かった余計な力を溶かしていく。深呼吸が自然と零れた。


「とても辛かったのね。わたくしがお前にしてあげられることはほんの些細なことしかないけれど……。お前を助けることができて本当に良かった……」

「リチ……」


 ロウがリチラトゥーラに言葉を続けようとした瞬間、彼女の体がぐらりと横に倒れた。容態が急変したのである。「リチ‼」と声を荒げてロウが名を呼ぶが、彼女は苦しげな表情をしたままぐっと瞼に力を込め、その綺麗な瞳を開けようとしない。

 動揺したロウは何を思ったのか、ぐったりとしたリチラトゥーラのその小さく痩せた体躯を抱きかかえ、気づけば彼女の部屋の窓から外へと抜け出していた。


 ❅


 幸いにも雪は降ってはいなかったが、積雪量は例年に比べて多いように思えた。王宮庭園を駆け城下街へ繰り出す。どこかひとのいない場所はないのかと必死になり目を遠くに向けて凝らす。街を降りた先に小さな丘があることに気がついたロウは、その場所に向かって走り出した。


 丘には雪は積もっていなかった。雪の代わりにこの国を代表する寒色の草花が芝生一帯に咲き誇っていた。

 周辺にひとの気配がないことを確認すると、ロウはリチラトゥーラを優しく起こそうとする。リチラトゥーラは痛みがあるのか体躯を強張らせていたが、彼の声を聞くとゆっくりと瞼を開けその姿を認めた。


「意識はあるな、リチ」

「……ろ、ろう……?」


 舌足らずな言葉ではあるが、リチラトゥーラはしっかりと返事をした。

 意識はある。まだ、大丈夫。

 ロウはそう確認すると、いきなりリチラトゥーラに自身の唇を重ねた。


「――⁉」


 突然のことにリチラトゥーラは顔を赤面させた。熱によるものなのか羞恥心からくるものなのかもできないまま、彼女はロウによるを受け入れるほかなかった。不意に何かが口移しされる。こくん、とその何かを飲み込むと段々と体から痛みが抜けていくのが分かった。


「な、なにをするの……っん~!」


 息ぐ暇もなく再度口を塞がれ、同じように何かを飲み込まされる。甘くて甘くて、意識がとろけてしまいそうになるようなその何かは、リチラトゥーラの体内に優しく巡っていった。

 ぷはっ、とやっとのことで呼吸を得たリチラトゥーラは混乱の中でもロウを拒絶することをしなかった。

 拒絶などできるものか。ロウの表情は今にも泣き出しそうな少年のようだったのだから。


「……ロウ。何をわたくしに飲ませたの、答えなさい」

「…………。それは、ですか?」

「……ええ。命令よ」


 ロウは「分かりました」と頭を下げると、数歩彼女から離れた。一体何をする気なのだろうとリチラトゥーラは思わず息を呑む。

 温かい風が丘一帯を包み込む。ふわりと浮かび上がる芝生の草花がロウの周りに渦を巻き始めた。リチラトゥーラはこのまま彼がどこかに消えて行ってしまいそうで怖くなり「待って!」と声をかけようとしたが、風圧によってその声は遮られてしまった。


 風が止む。草花の踊りが治まった頃、目の前に現れたそれは――。


 ❅


 は、間違いなくだった。


「…………なの……?」


 薄紅の竜が、リチラトゥーラに視線を向ける。彼は「そうだ」と訴えているように思えた。

 リチラトゥーラはその体躯の美しさに見惚れる。薄紅の鱗は一枚一枚が太陽に負けず劣らず輝いており、雪融けの露に濡れたことによって輝きを増している。長細い体躯に、丘さえも覆えるような大きな翼、そして変わらない優しい瞳……。


「そう、お前、ロウなのね」


 グルルル……と喉を鳴らし顔をリチラトゥーラの頬に寄せる。彼女の体ほどもある顔であったが、触れる力は優しかった。


 ――リチ、あんたの病気は絶対に治る。

「え……」


 ふと彼女の脳に言葉が浮かび上がる。今この場にはリチラトゥーラとロウしかおらず、ほかの人間はいなかった。恐らくその言葉は、この目の前にいる竜の姿をしたロウが発したのであろう。


 ――さっき飲ませたのは薄紅の鱗だ。この間、陛下にも聞いただろう。春竜の鱗にはいかなる病も治してしまうほどの力があると。

「……ええ。でもあれは、おとぎ話でしょう?」

 ――ああ。そういうことになっている。けれどあれは本当の話だ。現におれがいる。

「うそ……」

 ――……おれが嘘を言っているように見えるか?

「……いいえ。見えないわ。お前は嘘を言わないもの」


 リチラトゥーラは半信半疑であったが、ロウの言葉により彼のすべてを信じることにした。今ここにいるのは、かの春竜であり、そして紛れもなくロウなのだ。


「……これからどうするの?」


 これからのことがなんとなく想像できてしまったリチラトゥーラは悲しそうな表情でロウの顔を撫でる。ロウはふっと微笑み彼女に答えた。


 ――故郷に、戻ろうと思う。

「憶えていないのではなかったの?」

 ――この姿に戻ったときに思い出したよ。おれの故郷は、西国の果てにある島国だ。

「西国の、果て……」


 ああ、とロウが言う。


 ――あんたに拾われたあの日、おれは仲間内で縄張り争いをした後だった。そのに負けたおれはどこに行く当てもなく空を飛び回って、気がついたらあの庭にいた。幸い、ひとの姿になることができたから結果として殺される可能性は無くなったけれど、ひとになった反動でそれまでの記憶を失ってしまったんだ。

「そう、だったのね」

 ――……喧嘩した理由は本当にどうでもいいことだったことを思い出したよ。だから、帰ろうと思う。

「……」

 ――助けてもらった恩があるのに、ごめん。


 リチラトゥーラは、俯き首をふるふると降った。表情はうかがえないが、きっと悲しんでくれているのだろう。ロウはそう解釈した。


「……別に、構わないわ。いつかはこうなると、思っていたもの」

 ――ああ。

「……元気で過ごすのよ」

 ――ああ。

「もう喧嘩はしてはだめよ」

 ――それは……時と場合によるかな。

「寂しいわ……お前がいなくなるのは」

 ――おれも寂しいよ。……でも、もうここにはいられない。あんたの言う通り……。


 リチの言っていたように、悪党にいじめられてしまうからね。

 ロウは静かに独りごちた。リチラトゥーラにも聞こえていたが、特に言及することはなく「うん」とただ頷くことしかできなかった。


「危険をおかしてまで、助けてくれてありがとう、ロウ」

 ――……いいや。こちらこそ、助けてくれてありがとう、リチラトゥーラ。


 愛しているよ。ロウはそう呟いてリチラトゥーラの頬にキスをひとつ落とした。


 ❅


 その大きな翼を風を切る音を鳴らしながら広げ、薄紅の竜は西国の果てを目指して飛び立った。リチラトゥーラは涙を堪えながらも、これが今生の別れではないと信じて彼の門出を祝った。

 ふと、空から何かがスニェークノーチ国全土に降り注ぐ。空を見上げたときにリチラトゥーラの頬にそれがそっと触れた。左手で取ると、それは見たことのないのようだった。


 ――いいえ、違うわね。これはきっと……。


 そう、これは彼がこの国に届けてくれた「春」だ。

 春竜は「春」を届ける伝説の竜。ロウは、彼の存在する意味を、その実を持って証明してくれたのである。


「……帰りましょう。お父さまが心配なさっているに違いないわ!」


 リチラトゥーラは丘から見えるスニェークノーチ王宮城を眺める。「春」吹雪が舞う空に心が躍る。

 彼の故郷である西国の果てはどのようなところなのだろう。いつか大人になったとき、彼に会いに行きたいものだ。

 リチラトゥーラは「春」を見上げて、心からそう思ったのだった。

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花鱗を喰む KaoLi @t58vxwqk

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