守屋と馬子の父である物部尾輿もののべのおこし蘇我稲目そがのいなめもまた、大連おおむらじ大臣おおおみとして大王おおきみに仕えていたが、両氏の関係は今ほど険悪ではなかった。一度、仏教の国家祭祀について激しく対立した事はあったが、この時はまだ、大陸の情勢や後継者問題などの外的要因はさほど絡んでおらず、二人の小競り合いの域を出なかった。その一点を除けば、両氏は敵対するどころか、しばしば互いにいえへ招き、酒を飲み交わし歓談するほどには親交があった。

 守屋が馬子と初めて顔を合わせたのも、欽明天皇きんめいてんのう十九年(西暦五五八年)の春、守屋が父・尾輿と稲目の宅へ招かれた時のことである。守屋は数えでよわい十七、馬子は九歳であった。

 身の丈四尺程の小柄な少年は、父親の陰に隠れながら守屋に軽く会釈すると、すぐさま自室に駆け戻ってしまった。守屋は自分の顔立ちを怖がられたのかと誤解したが、稲目は我が子の非礼を詫び、元々少しばかり内気なうえに、最近は法華経を読むのに夢中なのだという。加えて、少しは男らしく武芸も身に着けさせたいが、そちらは無関心で上達せず困っていると愚痴をこぼした。そこで尾輿は、守屋の腕前を馬子に見せたらどうか、と持ちかけたことが、二人の交流の発端であった。

 守屋は若年ながら家の誰よりも矢継ぎが早く、遠くまで射ることができた。その巧みな弓術に魅力された馬子は守屋に弟子入りを乞うたので、守屋は馬子に弓を教えることとなった。

「今日も、稽古をつけていただきありがとうございました」

「応。また次回まで、修練を怠るなよ」

「はい! そうだ、昨日は『妙法蓮華経みょうほうれんげきょう方便品ほうべんほん第二』を読み進めたのです。これがまた興味深いので、師匠にも是非聞いてもらいたくて……」

「だから、要らぬと何度も言っているだろう」

 守屋が冷たくあしらうと、馬子は目を潤ませながら袖を引く。

「でも、今日は父上が果子おやつを用意しているから、終わったら招くようにと……」

「…………」

 こうなると守屋も決まりが悪く断れない。稽古の後、馬子は接待にかこつけて守屋を宅へ招き、漢字の読み書きと、密かに法華経の講釈を聞かせるのが、毎度の展開になっていた。

 守屋もはじめは嫌々聞かされていたが、物部の家の教えが全てだった守屋にとって、異国の思想は驚嘆に値するものであった。次第に経典に惹かれるようになり、いつしか、天神地祇を敬いつつ、仏の教えの良いところを取り入れた、新しい形の祭祀ができないかと淡い夢も抱くようになった。

 三年も経つと、馬子も人並みには弓の腕を上げ、快活な少年に変わった。守屋が付き添いながらではあるものの、他の男子とともに野山に出かけて遊猟するようになり、端からすれば実の兄弟に見えるほどに、二人は気心知れた仲となっていた。我が子の成長ぶりに、稲目は安堵し、守屋に深く感謝した。

 それゆえ、守屋は自身の妹である太姫ふとひめと馬子が懇意していることを知った時も、驚きこそしたものの、弟も同然の馬子が婿ならば、拒む理由もなかった。しかし当時、彼女はまだ石上いそのかみ布都御魂大神フツノミタマノオオカミに奉仕する巫女・布都媛フツヒメの身であったため、任期が終わった後、二人の婚礼を挙げた。

 守屋と馬子に隔たりが生じたのは、その翌年のことである。

 守屋が馬子から密かに借りて読んでいた経典を、父・尾輿が偶然に見つけた。近いうち、大連の任を守屋に継がせるかと話が持ち上がった直後のことであった。尾輿は既に齢五十を超え、老弱であったにも関わらず、筋骨隆隆な青年が地に伏して血反吐を吐くほどに殴打した。終いには、自分の手で経典を焼き捨てるように命じ、以後蘇我の宅へ出入りすることを固く禁じた。尾輿の怒りの矛先が蘇我にも向けられる事を憂いた守屋は、経典を馬子から借りたとは断じて漏らさず、ただ自ら望んで手に入れたとしか言わなかった。そして、異国の思想に触発され、家の教えを疎かにして逆上のぼせていた己を恥じ、馬子とは距離を置くようになった。

 尾輿はその日を境に生気を失ったように衰弱し、大連継承も有耶無耶うやむやのまま、欽明天皇三二年(西暦五七一年)に息を引き取った。

 守屋は、自分の気の迷いが父を殺したのだと己を責め、一層、憂愁ゆうしゅうの思いに閉ざされるようになった。

 翌年、敏達天皇びだつてんのう即位に伴い、守屋は兄の御狩みかりと共に大連の任に就いた。兄は石上祭祀の長として山辺郡やまのべのこおりに留まり、守屋は軍事・警護の責任者として宮に参内さんだいした。同時に馬子も大臣に任命されたため、守屋は否が応でも馬子と顔を合わせざるを得なかった。他方、馬子は知ってか知らずか、変わらず親しげに接してくるので、守屋は対応に苦慮しながらも、付かず離れずの関係が暫く続いた。

 敏達天皇五年(西暦五七六年)秋七月の初め。昼下りに政務を終えた守屋は家路につこうとうまやに向かったところ、馬子と鉢合わせた。守屋は一瞬硬直し目を逸そうとした時、馬子が声をかけた。

「おや、義兄上あにうえ。今日はもうお帰りですか」

「大臣。おおやけの場で、その呼び方はやめろと言った筈だぞ」

 馬子は首をかしげ、周囲を見渡して言った。

「……吾らのほかに、誰もいませんが」

「そういう事ではない。お主は馴れ馴れしいと言っておるのだ」

「ええ……。義兄上が義兄上なのは、事実ではありまぬか」

 守屋は辟易した。

「お主のそういう所が昔から癪に障る。用がないなら帰るぞ」

 そう守屋が吐き捨て、馬に跨がろうとすると、馬子は慌てて遮った。

「ああ、いや。用はあります。七日、妻の生日うまれびなのは覚えているでしょう」

 守屋はあぶみに掛けた足を降ろし、馬子に体を向けた。

「そうであったな」

「そうです。今年は炊屋姫かしきやひめさまが新たな大后おおきさきになられ、大いに目出度めでたい。特別な年なので、ここは景気よく、妻のために身内で祝宴を開こうと考えておるのです。それで大連も、是非にと」

「うむ……。妹の祝いならば出たいところだが、生憎あいにく、吾には父から課された戒めがある」

「あの件は、吾にも非があります。それに、尾輿殿が亡くなれて五年も経つのです。もう良いのでは」

「お主とは違って、吾は家の教えが全てなのだ」

「それは、そうかも知れませぬが……」

 馬子は暫く額を指で掻いて思案していたが、はっと何か閃いた様子で沈黙を破った。

「それなら、石上の妻の宅でやりましょう」

「は?」

 守屋は眉をひそめた。

「吾の宅は駄目でも、妹の宅に行くのには何の問題もないでしょう」

「それはそうだが」

「では、七日のお務め後に此処で」

 そう言うと、守屋が言葉を返す間も無く、馬子は揚々と馬を走らせて行ってしまった。

 守屋は一人立ちすくんでいたが、ふと我に返り、重い足取りで宮を後にした。

 馬子の誘いは父の意に反するだろうが、とはいえ一度決められた約束を無下にもできない。決まった事は遵守するのも、また自身の信条である。守屋は数日思い悩んだ結果、少しばかり顔を出すことにした。

 だが、守屋が祝宴に出席することはなかった。その日は夜明け前に、葛城山麓の村で野党の襲撃があったと報せを受け、守屋は私兵を伴って一日山中を駆け回っていた。無事に野党を捕縛し、奪われた食糧は農民に返したが、帰る頃には夜になり、疲弊した守屋は、結局顔を出せずにそのまま家路についた。

 翌日、朝礼を終えると、馬子のほうから守屋に歩み寄ってきた。

「聞きましたよ。昨日は大変だったそうで」

「大事ない。それより、宴には結局顔を出せず済まなかった」

 珍しく守屋が深々と頭を垂れると、馬子は困惑して守屋をなだめた。

「仕方ありません。むしろ葛城は蘇我ともゆかりある地、こちらこそ民を守ってくださり感謝いたします」

 守屋が顔をあげると、馬子はふいに思い出して言った。

「そうそう、義兄上に渡すものがあります。これ、良かったら貰ってください」

 そう言うと、腰に下げた巾着を外して守屋に手渡した。守屋は怪訝な顔で巾着を開けると、中には鹿革のゆがけが入っていた。

「これは……」

「弽です」

「そうではない。何故これを吾に、と聞いているのだ」

「昨日の祝宴で、妻が縫ったのです」

「どういうことだ」

「折角だから余興をと思いまして、秦丹照はたのにてる殿に相談したのです。聞けば、韓土からくにでは七月七日は、乞巧奠きっこうでんという行事があるそうで。天帝の怒りを買い、天の川を挟んで暮らすことになった夫婦めのとが、唯一会えることを許された日だとか」

「それで何故、妹が自分の祝宴で縫い事をする」

「娘は機織りの女神なので、韓土の乙女は、縫い物の巧みなることを願い、夜闇で針に糸を通したり、刺繍をすると教えていただいたのです」

「何」

 守屋は顔をしかめた。

「それをやろうとしたところに、野党の一件の報せが吾のところにも来たので、大連の武運とご健勝をと、妻がこの弽に十種神宝とくさのかんだからの刺繍をしたのです。ほら」

 それを聞いた守屋は声を荒げた。

「ちょっと待て。元とはいえ、妹は石上祭祀の布都媛フツヒメだぞ。それをお主はまた異国の妙な風習を吹き込んで、巻き込んだのか」

「まあまあ。これは御仏の教えとは関係ない俗習です。それに、妻が望んでやったのは本当ですよ」

「それに、妹は不器用だが」

 そう言うと、馬子は咄嗟に両手を背に隠した。

「おい」

 守屋が馬子の腕を掴んで、手を眺めると、指先に所々刺し傷があった。

「お主が縫ったのではないか」

「少し手伝いました……」

 守屋は掴んだ腕を下ろした。そして、弽を手に持ち、馬子の前に突きつけた。

「やはり、要りませんか」

 守屋は、はあ、とため息をついた。

「いや、有り難く頂戴する。妹を異国の風習に巻き込んだのは許せぬが、昨日顔を出さなかった吾にも非がある」

 それを聞いた馬子は、口元を緩めた。

「いやあ、よかった。もう片方も縫ったのです。こちらは法華経の一文を縫ってみまして」

「それは要らぬ」

「ええ、ちょっと……」

 守屋は馬子を振り払い、避けるように政庁へと戻っていった。

 この時はまだ、二人は武力を以て対峙するなど、考えもしていなかった。

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君想い刺す五色の縫取 やすみ @andre_fuhito

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