一
用明天皇二年(西暦五八七年)秋・七月六日の
それまで守屋は、
身の危険を察した守屋は再起を図るため、母方の郷里であるこの地へ身を引いた。そして、後見を持ちかけていた
守屋は鎧を身に纏って館を出、手前のほおの木の
「大連、ここにおられましたか」
櫓の真下から男の声が聞こえた。姿は見えないが、篝火が映す熊のような大男の影から、守屋は声の主が
「おお。寨の備えを確かめておった。萬、お前も上がってみよ」
「かしこまりました」
萬はその体躯に似合わず軽々と櫓に登り、身を乗り出して食い入るように周囲を見渡した。
「見事な寨でございます。これならば大連に楯突く者どもを蹴散らせましょう」
萬は鼻息を荒げたが、守屋は苦笑した。
「そう力むな。向こうには王子様も附いている。いわば今の吾らは賊軍だぞ」
守屋には、己の主義主張が古く、馬子のほうが今の世に即しているという自覚があった。そして馬子の誰に対しても物腰柔らかで剽軽な性格が、さらに人を惹きつける。守屋は正直、馬子が羨ましく思うこともあった。
加えて、同族ですら仏を祀る者がいない訳でもなかった。決していい気分はしないが、守屋は個人の祭祀にまでとやかく言うつもりはなかった。だが己は、祭祀を司る物部という家の宿命を重んじ、さらに父から〈大王家を守る者〉と込めて与えられた〈守屋〉という名前が矜持という呪いとなり、馬子の主張を許すことができなかった。
「それに、多くの兵を屠るのが目的では人殺しと変わらぬだろう」
萬は首を傾げて訊ねた。
「不思議なことを仰る。大連は再起を図るために戦われるのでしょう」
「そうだ。故に、嶋大臣と彼に与する群臣さえ討てばよい。王子様らも付き従っているに過ぎぬ。本気で吾らを滅ぼすおつもりはあるまい」
「成程。では、馬子らの首級を上げ、王子様たちをお救い申し上げるというわけですな」
守屋は萬を見て、微笑を浮かべた。
「そのとおり。お前はこのあと難波の館に向かえ。
「かしこまりました。」
萬は力強く首を縦に振った。
二人がその後明日の動きについて語らい、刻を忘れかけた頃、夜風が二人の顔を冷たく撫で、萬は小さく震えた。
「さすがに冷えてきましたな。そろそろ戻られては」
「そうだな」
守屋はふと、夜空に横たわる天の川を仰ぎ見た。
「そういえば、明日は
「なんです、それは」
「
そう言うと、守屋は右手にはめている鹿革の弽を萬に見せた。
「大連が韓土の行事までご存知とは意外です。しかし、その弽、随分と破れておりますが。お替えになったほうがよろしいのでは」
萬が言うように、守屋の弽は誰が見ても取り替えるほどに擦り切れていた。その甲には五色の糸で
「そう言うな。長く使って手に馴染んでおる。それに願掛けのようなものでな、大事の際にはこれを付けると決めている」
「これは失礼を。それ程に大事なものでしたか」
「気にするな、皆から言われる。それより、明日は頼んだぞ」
「は。大連もご武運を」
「
萬と別れたあと、守屋は穴だらけの弽をじっと眺め、十一年前に〈彼〉から弽を手渡された時のことを思い返した。そして、右手に力を込めて強く握り、改めて己の決意が堅いことを確かめた。
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