用明天皇二年(西暦五八七年)秋・七月六日のゆう

 物部守屋もののべのもりやは、河内国かわちのくに阿都あとの館で戦支度を進めていた。嶋大臣しまのおおおみ蘇我馬子そがのうまこを中心に、群臣まえつきみや若き王子みこらを加えた大軍が、己を討たんと迫っている。守屋は此処にきた三ヶ月前から、この戦を予感していた。

 それまで守屋は、みやこで軍事・警護を司る大連おおむらじとして、馬子とともにまつりごとの双璧を担っていた。物部の家はまた、諸豪族から王権帰属の証として徴収した神宝たる武具を蔵に納め、大王おおきみの代わりに、石上いそのかみでその霊威を鎮め祀る一族でもあった。互いの領分に干渉することはほとんどなかったが、外交を司る馬子は、次第に大陸と文化の足並みを揃え、仏教も国家の祭祀に加えるべきと、強く訴えるようになり、それが守屋を激昂させた。誉れある一族の職掌を根底から覆されかねない要求だったからである。しかし、病に伏した大王も帰依きえを望んだことが後押しとなり、皆が馬子に付き従い、守屋は徐々に孤立した。

 身の危険を察した守屋は再起を図るため、母方の郷里であるこの地へ身を引いた。そして、後見を持ちかけていた穴穂部王子あなほべのみこに密使を送った。遊猟という名目で自らの領地へ招き入れる、守屋にとっては起死回生の一手となるはずであったが、馬子に露見、王子が暗殺されたことで、最後の望みも水泡に帰した。もはや武力行使で雌雄を決するほかに、活路は残されていなかった。後に引けないのは馬子も同じで、故に、近いうちに馬子が守屋討伐に向けて蜂起するであろうことは火を見るより明らかであった。そこで守屋は密かに味方を募り、今日まで兵を鍛えてきた。

 守屋は鎧を身に纏って館を出、手前のほおの木のやぐらに登り、とりでの防備を眺めた。館の周りは環濠ほりのように川が流れ、川沿いの土盛は天然のつつみとなり、堤の上と敷地に築いた稲垣が外敵の侵入を防ぐ。その姿はまるで浮城のようであった。大軍であっても、兵の足を鈍らせるのに十分な備えである。しかし同時に、明日ここで何人の命が絶え果て、故郷が血で穢れるのかと思うと、少しばかり感傷的になった。

「大連、ここにおられましたか」

 櫓の真下から男の声が聞こえた。姿は見えないが、篝火が映す熊のような大男の影から、守屋は声の主が捕鳥部萬ととりべのよろずだと悟った。

「おお。寨の備えを確かめておった。萬、お前も上がってみよ」

「かしこまりました」 

 萬はその体躯に似合わず軽々と櫓に登り、身を乗り出して食い入るように周囲を見渡した。

「見事な寨でございます。これならば大連に楯突く者どもを蹴散らせましょう」

 萬は鼻息を荒げたが、守屋は苦笑した。

「そう力むな。向こうには王子様も附いている。いわば今の吾らは賊軍だぞ」

 守屋には、己の主義主張が古く、馬子のほうが今の世に即しているという自覚があった。そして馬子の誰に対しても物腰柔らかで剽軽な性格が、さらに人を惹きつける。守屋は正直、馬子が羨ましく思うこともあった。

 加えて、同族ですら仏を祀る者がいない訳でもなかった。決していい気分はしないが、守屋は個人の祭祀にまでとやかく言うつもりはなかった。だが己は、祭祀を司る物部という家の宿命を重んじ、さらに父から〈大王家を守る者〉と込めて与えられた〈守屋〉という名前が矜持という呪いとなり、馬子の主張を許すことができなかった。

「それに、多くの兵を屠るのが目的では人殺しと変わらぬだろう」

 萬は首を傾げて訊ねた。

「不思議なことを仰る。大連は再起を図るために戦われるのでしょう」

「そうだ。故に、嶋大臣と彼に与する群臣さえ討てばよい。王子様らも付き従っているに過ぎぬ。本気で吾らを滅ぼすおつもりはあるまい」

「成程。では、馬子らの首級を上げ、王子様たちをお救い申し上げるというわけですな」

 守屋は萬を見て、微笑を浮かべた。

「そのとおり。お前はこのあと難波の館に向かえ。妻子めこの護衛を任せる」

「かしこまりました。」

 萬は力強く首を縦に振った。

 二人がその後明日の動きについて語らい、刻を忘れかけた頃、夜風が二人の顔を冷たく撫で、萬は小さく震えた。

「さすがに冷えてきましたな。そろそろ戻られては」

「そうだな」

 守屋はふと、夜空に横たわる天の川を仰ぎ見た。

「そういえば、明日は乞巧奠きっこうでんであったな」

「なんです、それは」

韓土からくにの行事よ。天帝の怒りを買い、天の川を挟んで暮らすことになった夫婦めのとが、唯一会えることを許された日で、女は機織りの神らしい。それに因んで乙女が縫い物の巧みなることを願うとか。昔、このゆがけをくれた知人から聞いた」

 そう言うと、守屋は右手にはめている鹿革の弽を萬に見せた。

「大連が韓土の行事までご存知とは意外です。しかし、その弽、随分と破れておりますが。お替えになったほうがよろしいのでは」

 萬が言うように、守屋の弽は誰が見ても取り替えるほどに擦り切れていた。その甲には五色の糸で刺繍ぬいとりが刺されているが、糸がほつれ、文様は原形をとどめていない。だが、守屋にとってこの弽は決意の表れでもあった。

「そう言うな。長く使って手に馴染んでおる。それに願掛けのようなものでな、大事の際にはこれを付けると決めている」

「これは失礼を。それ程に大事なものでしたか」

「気にするな、皆から言われる。それより、明日は頼んだぞ」

「は。大連もご武運を」

おう。お前もな」

 萬と別れたあと、守屋は穴だらけの弽をじっと眺め、十一年前に〈彼〉から弽を手渡された時のことを思い返した。そして、右手に力を込めて強く握り、改めて己の決意が堅いことを確かめた。

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