雨に溺れる

白江桔梗

雨に溺れる

 僕は一人、傘をさして歩いていた。ぽつぽつと咲き始めてしまった季節外れの紫陽花あじさいを横目に、今日も足は目的地へと向かう。淡い桃色のそれを見て、pHが花の色に関係しているとか、酸性雨がどうだとかいう話をしていた先生の顔を一瞬思い出したが、いつの授業だったかまでは覚えていない。

 いつもより綺麗きれいにセットしたはずのこの髪は、朝の準備など無駄だと言わんばかりに右往左往にうねり始める。もう慣れたはずの現象に苛立いらだちを隠しきれなかった僕は、思わず大きく息を吐いた。その心のくもりさえも雨によってかき消されてしまうのだが。

 歩道橋を超えると、次第に人が増えてくる。いつもなら自転車で颯爽さっそうと駆け抜けて行く同級生もこの天気に足を取られている。凡庸ぼんような感性であれば、色鮮やかな傘たちに思わず息を飲むのだろうが、生憎あいにく僕はそこまで単純ではなかった。

 この視界に映るのはグレースケールで見える世界。所詮しょせん、ひねくれ者の僕は、無駄に場所を取る傘の群れに嫌気がさす程度の感性しか持ち合わせていないのだ。


 酷く湿った空気を吸う。この中はまるでおぼれているような感覚だ。ゴポゴポと息を漏らし、深く深くに沈んでいく。息苦しさこそあれど、生きていけない訳では無い。沈めば沈むほど、息は苦しく、言葉もつむげぬほどに堕ちていく。

 それが嫌だから僕は、安全地帯が欲しくて傘をさしているのかもしれない。決して沈まないように、この身が水で満ちないように、必死に無駄な足掻あがきをしている。

 経年劣化のせいか、酸性雨のせいか、塗装とそうげたその像は、静かに見下ろしてくる。その顔はなんだか僕を笑っているようでむずがゆかったが、気づかないフリをして傘で目線を切る。前方からは淡い朱色の傘が近づいてくる。その足音に呼応するように、僕の心臓がさわぎ始める。

 僕の心に紫陽花を挿せば、玉虫色だと思い込んでいるこの感情が何なのか分かるだろうか。この名状しがたき感情の正体が暴けるだろうか。いつものように僕が声を出すと、にこやかに君は手を振る。

「おはよう。君だけだよ、私のこと『雨』って呼ぶの」

 僕の想いを吸って育った紫陽花はほおで静かに染まっている。鏡で見なくたってこの感情の答えなど、とうの昔に気づいているのに。

 この世界で唯一色を有する君に、この傘の中でだけ独占できるその笑顔に、酸素をゆっくり零しながら堕ちていく。

 六月の平日、心地の良いこの感情に身をゆだねる僕は、相も変わらず君に溺れている。

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雨に溺れる 白江桔梗 @Shiroe_kikyo

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