第12話
「
佳奈子の
「あの警察の方、本当に申し訳ないことだけれど、来られたのは二回目なの。きっと、こういう通報に慣れてらっしゃるのね。本来なら通報の内容を文書にまとめて、上に報告したりするのも、お仕事なんでしょうけれど……うちみたいな人たちの話をにこにこ聞いて、柔軟に対応してくださって。申し訳ない気持ちと同じくらいに、助けられた気持ちが大きいの」
びっくりしちゃったでしょ、と続けた佳奈子は、小さな秘密を打ち明けるように、ひっそりと寂しく笑った。涙で身体が構築された怪物が、心の内側で手に負えないほど暴れ出してしまいそうで、笑顔でいようと己を律している人がここにもいる。痛々しいその笑顔から、淳美は確かな心強さをもらえた。この寂しさは、決して一人では抱えきれない。
「一回目は、いつだったんですか」
「先月ね。淳美ちゃんが初めてお料理をうちで振る舞ってくれた日の、少し前くらい」
「全然、気づきませんでした」
「それもそうよ。平日の昼間だったもの。あの時は、心臓が止まるかと思ったわ。お
「どういう理由で電話をしたか、訊いても構いませんか」
「泥棒が出たんですって」
「泥棒? ……この家に?」
「ええ。お
ありふれた話だった。友人から聞かせてもらう祖父母の話と、不思議なくらいに合致する事例だ。佳奈子は、静かに語り続けた。
「淳美ちゃんも知っていると思うけれど、お義父さんは気さくだけれど筋が一本通ったしっかり者で、いろんな人から頼りにされる、とっても立派な人だったのよ」
立派な人だった。淳美は、もやしの根をぽきりぽきりと折って捨てた。過去形の言い方が悲しかった。
「でも、寄る
耳にかけた茶髪が一房、乱れて頬にかかった佳奈子は、悲しそうに微笑んだ。淳美は、首を横に振った。大きな感情のうねりが喉を塞いで、すぐには声の形にならない。それでも伝えたい思いを込めて、時間をかけて言った。
「不出来な嫁なんて、そんなことない。佳奈子さん、誰にそんなこと……」
最後まで言い切る前に、淳美は口を噤んだ。誰が佳奈子を責めたのか、残酷な心当たりが胸に刺さった。淳美が顔も知らないような親戚縁者であればいいと、縋るような気持ちで思ったが、気休めで誰かが幸せになるわけでもない。淳美は、掃除の済んだもやしをボウルに入れた。今晩のメニューは、ワンタンと野菜炒めだそうだ。
「私が、いけなかったのよ。『泥棒に入られた』って訴えるお義父さんに、『泥棒なんていませんよ』なんて言い返して、頭ごなしに否定したから。お義父さんにとっての真実を、虚構だと決めつけて、共感しようとしなかったから。……でも、ちゃんと分かっているの。お義父さんだって、好きで私を非難したいわけじゃない。私たちはみんな、仲が良くて幸せな家族に戻りたいと願っているのに、なかなか上手くいかないものね」
「佳奈子さん、浩哉はもしかして……」
「ああ、大丈夫よ。あの子なら考えそうなことだけどね。俺が一人暮らし始めた所為で、じーちゃんは寂しくて認知症になっちゃったんじゃないか、なんて最初は言ってたけどね。病気は、病気。あの子も、そのあたりは分かってるから」
「……よかった」
ほっとしたが、胸の
「教えてくれたら、よかったのに」
「ごめんなさいね。浩哉が淳美ちゃんに言わなかったのも、私の所為。口止めしていたのよ。できる限り淳美ちゃんには教えないで、お義父さんに接してもらいましょうねって」
佳奈子の微笑が、華やいだ。二人でスパゲティの準備をしていた昼前のように、少女のような明るさが、蛍光灯の無機質な光で満たされた部屋に、虹色に灯る。
「だってお義父さん、淳美ちゃんと過ごす時は、昔のお義父さんなんですもの。訊かれたら何でも答えられて、昔のこともはっきり覚えていて、淳美ちゃんが初めて作った、夕焼け色のスパゲティのことだって、ちゃんと覚えていて……笑顔を見たら安心できて、私たち家族を見守る眼差しが優しい、私たちのお義父さんだったんですもの。脳梗塞を患ってから、認知症が一気に進んでしまったことなんて、嘘みたいだった。この時間のほうが本当なんだって、少しの間だけでも信じられて、私たち、幸せだったんですもの」
ゆっくりと立ち上がった佳奈子は、淳美からもやしの入ったボウルを受け取ると、「ごめんなさいね」と泣き笑いのような顔で囁いた。
「明日の土曜日のスパゲティは、お休みにしましょう。私たちは今日のことを考えるために、少し時間が必要だから」
「分かりました」
淳美は、頷いた。佳奈子の気持ちは、痛いほどによく分かる。警察までやって来たのだから、気に病んで当然だ。
「材料を用意してくれたのに、本当にごめんなさい」
「いいんです。それに、元々……いつまで続けられるか分からないって、話でしたから」
脳梗塞の後遺症から、菊次は目覚ましい回復を見せていたが、再発のリスクがあることを、淳美はこの家で初めてスパゲティを作った日に、佳奈子から聞かされていた。血糖値をコントロールするために、食事制限が必要なことも。
それに――菊次はもう、淳美と過ごしていても、記憶の飴玉を両手の指の隙間から、ぽろぽろと畳に零している。幼い淳美と浩哉がどんなに探し回っても、溶けた綿菓子みたいに消えてなくなっていく宝物を、大人になった二人の瞳では見つけられない。
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