第13話

 翌週の水曜日の昼休みに、図工室を訪ねてきたのは、意外な顔だった。

「あっちゃん先生。絵を描いて」

 引き戸の陰から現れた梶本美里かじもとみさとは、肩をいからせ、固く編んだ三つ編みを揺らし、一歩一歩を踏みしめるように、木の床をぎしぎし軋らせながら教卓の前までやって来た。古い学校なので、誰かが歩くたびに床があちこちで悲鳴を上げるのだ。次の授業の準備をしていた淳美は、電動糸鋸のそばできょとんとした。登場が意外なら、その申し出もまた意外だった。

「絵を?」

「ここに描いて。今すぐ」

 美里は教卓に一番近い机の上に、ばしんとノートを叩きつけた。細かな木屑が舞い上がり、ふわっとベニヤ板が強く香った。窓から射す午後の光に照らされた美里の五指は、色を失って震えている。淳美を睨みつける瞳も、琥珀色の奥深くに震えを閉じ込めているのが分かった。分かったからこそ、理由を訊かずに「いいよ」と答えた。

「何を描けばいい?」

「ウサギ」

 用意していた台詞だったに違いない。早口で美里は告げたが、先週の金曜日に初めて淳美に口を利いた時と寸分違わない息苦しさが、掠れた声に表れていた。揺らぎの消えない声を美里はそれでも大きく張って、言葉を紡ぐのをやめなかった。

「私は、図工の授業がきらい」

「うん」

亜理紗ありさちゃんたちもきらい。ウサギが死んだときに、適当なことばっかり言ってた先生も、飼育委員のやつも、だいきらい」

「うん」

「あっちゃん先生のことだって、だいきらい。適当なことを言ってるのは、他のやつらと、同じなんだ。だから」

 絵を描いて、と最後だけは消え入りそうな声で、美里は言った。

「ウサギ、うまく描けなかった。いなくなっても大好きだった記憶が消えないなら、あっちゃん先生が描いて。この絵を見たら、いつでも思い出せるって、信じられるような絵を、描いて」

 美里は淳美を睨みつけながら、今にも泣き出しそうな顔をしていたから、淳美の返事は揺るがなかった。「分かった」と答えて教卓から鉛筆を取り、美里のそばの椅子に座り、ノートのページをめくった。

 そこには、鉛筆でたくさんの世界が描かれていた。校舎の隅のブランコ。がらんとした教室。給食室前の裏庭。どの世界も九歳の幼い魂が紡ぎ出したとは思えないほど緻密で、誰かの息遣いさえ聞こえてきそうなほど真に迫った命の息吹を感じるのに、どれだけページを捲っても、人間の姿は一人も見つけられなかった。ノートを真ん中まで捲っていくと、美里の世界はそこでぱたっと途切れていた。最後に鉛筆で描かれた絵は、白い毛にふくふくと包まれたウサギの絵で、描きかけのまま止まっていた。淳美は、目を一度閉じた。

「美里ちゃん。先生が絵を描く前に、これだけは忘れないで、覚えていて。先生がどんな絵を描いたとしても、この描きかけのウサギを超える絵を、先生は決して描けないよ」

「どうして?」

「美里ちゃんの描くウサギと、先生の描くウサギは、きっと色が違うから」

「色?」

 美里が、不可解そうな顔をする。「そう、色」と淳美は答えて、薄く笑った。今なら不思議と、菊次が瞳に映した世界を、淳美も見つめられる気がした。

「美里ちゃんとウサギの別れと、先生とウサギの別れは、色が違う。美里ちゃんには美里ちゃんにしか出せない色があって、このウサギの絵にはそれがある。先生がこれから描くウサギも、先生にしか出せない色で塗られている」

 まだ命の描き方を知らない子どもでも、それを知っていても色の見分け方を忘れた大人でも、誰でも自分だけの色を持っている。真似しようと思っても、真似できない自分だけの色を。淳美の冴えない青色だって、きっと淳美だけの青色だ。

「これから先、誰かの色が羨ましくなる時があるかもしれない。誰かの色を自分の色と重ね合わせて、悔しくなったりもするかもしれない。誰かが持っている色鮮やかさを、自分は持っていないって思い込んで、悲しくなることだってあるかもしれない。だけど、信じて。先生には、美里ちゃんの色が見えたよ。ウサギを大切に思ってた色が。寂しくても、綺麗な色が」

 淳美はノートをもう一ページ捲り、まっさらな紙面に鉛筆を滑らせた。

 迷いはなかった。白く柔らかな輪郭、ぴんと立った両耳、慎ましやかに動く口元、赤くまん丸な瞳。淳美は、死んだウサギを知らない。知っているのは、美里が今も大切に世話をしているウサギだけだ。描くほどに神経が研ぎ澄まされて、何があっても大丈夫だと、静謐せいひつな確信に包まれていく。美里は、絶対に大丈夫だ。どんなに悲しみと憎しみを抱えても、抱えきれずに苦しんでも、大好きなものを手放さずに、これからも大好きでいようとしている。そのために淳美へ啖呵たんかを切った強い子だ。淳美は細く息を吐いて、鉛筆を置いて、ノートを美里へ向けた。

 見上げた美里は、さっきよりも、泣くのを我慢している顔になっていた。泣いてもいいんだよと淳美は声をかけたくなったが、今は止そうと微笑むだけに留めておいた。自分に似て負けん気も強い子だから、この場では絶対に泣かないだろう。

「先生も、誰か死んだの?」

「ううん。でも、そうだね、大切な人が……先生のおじいちゃんが、病気で元気がないんだ」

「病気?」

「うん。だから元気になってほしくて、おじいちゃんの好きなものをいっぱい作ってるんだ。スパゲティとかね」

「おじいちゃん、スパゲティが好きなの?」

「そうだよ。赤くて、夕焼けみたいに鮮やかな。……さ、そろそろ時間だね。お互いに次の授業の用意をしよっか」

 まだ上手に噛み砕けていない悲しみを、これ以上言葉の形に変える前に、淳美は気楽な笑みで締めくくった。大人になって見えない色が増えた代わりに、初めて見える色もある。その色を子どもに隠そうとする淳美も、まだまだどこかで子どものままなのかもしれなかった。

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