予後、夕焼け、スパゲティ
一初ゆずこ
第1話
――……お医者様は、本当にそう言ってらしたの?
――ああ、予後は良いと……。
予後。予後。鈴のように言葉は転がり、夏の音色を奏でていた。季節は確か八月で、夏休みが終わる間際で、遠い田舎に一人で住む祖父を、家族で訪ねたはずだった。縁側でスイカを食べていた淳美は、家族と祖父の緩やかな話し声を聞いていた。
涼やかな音の意味を知る前に、祖父はその年、亡くなった。
淳美は今も、祖父の顔を思い出せない。
*
土曜日はスパゲティ・デーだ。そう指切りしてから、金曜日はいっそうパワフルに働くようになった。生徒たちには不思議がられ、「あっちゃん先生、デートだ」なんて
あれから、何度目の土曜日を迎えただろう。緩く巻いた短い髪を後ろで団子に纏めた淳美は、背ワタを取ったエビを水溶き片栗粉で
エビとトマトのクリームスパゲティ。小松菜と豚バラ肉のバター醬油スパゲティ。塩分控えめカルボナーラ。最後のカルボナーラだけは不評だった。
「ステーキ屋さんのニンニクチップって、真ん中に穴が空いてるでしょ? どうしてあんな形をしてるのか、自分で調理してみるまで知らなかったんですよね」
淳美はニンニク一かけ分を輪切りにしてから、真ん中に通った緑色の芯を爪楊枝で落とした。
「淳美ちゃんも? おばさんも知ったのは最近なのよ」
そう答えた
「最近ね、
「
「いいのよ、牛丼くらいしか得意料理がないんだから。淳美ちゃんは慣れたものね」
「そんなことないですよ。浩哉よりはできるかなあくらいで」
「浩哉にはもっと、『母さん、俺が作るから任せて』って言ってほしいものね」
「佳奈子さんの作るごはんが美味しいからですよ。きっと」
一応フォローしたが、淳美はすぐに思い直して言い換えた。
「やっぱりけしからん。来週は浩哉も食べる係じゃなくて、手伝ってもらいましょう」
「淳美ちゃんの頼みなら、喜んで引き受けると思うわよ」
大鍋に水を張った佳奈子が、口元に手を当てて吹き出した。墓穴を掘ってしまった淳美はばつが悪くなったので、ニンニクスライスとみじん切りを、熱したフライパンに降らせて誤魔化した。ばちっ、ばちっ、とフライパンで稲妻が弾ける音がして、次第に雨音へと変わっていく。そういえば、いつの間に梅雨が明けたのだろう。気づけば夏本番だ。
「もしかして、見つけやすいようにスライスを混ぜたの?」
佳奈子に
「これなら、絶対に見つけてくれるはずですから。おじちゃん」
ニンニクの香りが立ってきたところで、同じまな板で刻んだ玉ねぎをフライパンへ投入すると、雨音はさらに賑やかになり、ほんのりと甘い匂いが織り交ざる。オリーブ油色に透き通っていく玉ねぎを炒めていると、隣に
「お、今日のメニューは何?」
台所を、ひょいと背の高い影が覗き込んできた。茶がかった髪は短めで清潔感があり、昔からそこだけは常に一定の好感が持てる。ゆったりとした部屋着姿の青年が現れると、淳美と佳奈子は「噂をすれば」と笑い合った。
「えっ、あっちゃん俺の噂してくれてたの? まじで? ねえねえ何を話してたの?」
「もーうるさい。食べる係の大学生は、単位を落とさないように勉強でもしてなさい」
「そんなの、ばっちり終わったってば。全ては、あっちゃんとの時間を作るために!」
「佳奈子さん、やっぱり来週も二人で作りましょう。
「誰に似たのかしらねえ、この子の情熱の深さは。おじいちゃんかしら」
そんなわけないじゃないか、と声を大にして抗議したい。淳美はホールトマト缶を開けてフライパンへ流し入れると、湯気で不本意に火照る顔で、
「どういうところが似てるのよ」
「渋くて格好よくて懐が深いところとか?」
「はいはい。じゃあ渋くて格好よくて懐が深い浩哉さんは、スプーンとフォークの用意をしてください」
「了解ー」
快活に応じた浩哉は、柔和な笑みで去っていく。佳奈子は目尻に皺を刻んで、呆れ笑いを深くした。淳美は「もう」と小さくぼやいて、トマトソースを煮立たせたフライパンの隣に、もう一つフライパンを用意した。オリーブ油を引いてから、エビとイカ、それから佳奈子が砂抜きを済ませてくれたアサリを敷き詰めると、四人分の海の幸で、フライパンの底が見えなくなる。淳美は白ワインを回しかけると、ぴったりと口の閉じたアサリの殻を、八つ当たりのように
佳奈子は心得たというふうに、こくりと穏やかに頷いた。了承を得られても不安が消えたわけではなく、薄氷を踏むような心許なさを感じながら、淳美は慎重に塩胡椒を振りかけた。スプーンでひと掬いして味を見て、ようやく緊張感の氷が溶けていく。佳奈子も味を確認して、とびきり明るく笑ってくれた。これなら、喜んでもらえるだろう。
盛りつけは佳奈子に任せて、淳美は一足先に和室へ向かった。同じ一階の、玄関から進んですぐ右隣。障子窓の彼方に紺碧の海が見える部屋に、生徒たちからやれ彼氏だのデートだのとからかわれた原因の人物がいる。襖の向こうからは浩哉の楽しげな声が聞こえた。その輪に入っていいものか、一瞬だけ
和室は、青みがかった薄いグリーンに輝いていた。午前中は台所と同じで日当たりが悪いが、午後からは日差しをたっぷり取り込む部屋なのだ。夕方になれば、障子窓の向こうの海へ沈む橙色の果実だって見届けられる。畳の部屋には昔から見覚えのある
――リクライニングを起こした介護用ベッドに、その人物は痩せた身体を横たえていた。さっぱりと整えられた白髪は、髪型だけなら
「淳美ちゃん、手伝えなくてすまんね」
「
「あっちゃん、さっきは俺のこと食べる係のままでいいって言ったのに」
浩哉の抗議を「そんなことより」と遮って、淳美は和室に入った。
「
「ナポリタンかね」
「トマトの匂いがしたからさ。淳美ちゃんが、初めて作ってくれた料理に似ているね」
「ふふ、赤色が?」
「そうさ、夕焼けみたいに鮮やかな」
背後の廊下から、小さな息遣いが聞こえた気がした。頷いた淳美が「トマトは正解。でも残念、ナポリタンじゃないよ」と宣言すると、お盆に正解を載せた
「なんだい。色は同じじゃないか」
「ペスカトーレっていうのよ。トマトと海鮮のスパゲティ」
「
「私は料理人じゃなくて先生だけど、嬉しいよ」
優雅に微笑んだ淳美は、キャスターつきのサイドテーブルに、佳奈子から受け取った皿を恭しく載せた。湯気がほわっと膨らんで、菊次の顔もほころんだ。
「今日は一段と豪快に、ニンニクが入ってるじゃないか」
「こないだは、入ってないって言われちゃったからね」
「
「お
「言った、言った」
浩哉が、アルデンテよりもう少し柔らかく茹でたスパゲティみたいに笑った。家族
菊次の好物を煮込んだスパゲティは、夕焼けのような赤色をしている。
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