第2話
きっかけは、隣家に住む困った幼馴染へ、気まぐれにご馳走した昼食だった。
六月が目前に迫った土曜日の正午に、
「……ん?」
扉を開ける途中で、淳美は思い直して振り返った。視界の左端、隣家のガレージに、黒い影が見えた気がしたのだ。果たして、見間違いではなかった。
「
呼びかけると、岩はむっくりと顔を上げた。地毛だという焦げ茶色の髪は
「あっちゃん? 先生になってから超多忙で、俺と全然会ってくれないあっちゃんが目の前にいる? 俺、へこみ過ぎて幻覚を見てる?」
「人のことを、お化け扱いするのやめてくれる?」
ひと睨みしてから、あんまり相手がしょげ返っているので、隣家との境目の柵に近づいて軽く屈み、「どうしたの?」と訊いてみた。いつだって能天気で元気な
「落ちた。二次選考」
「そっか」
「これでもう五社目。社会は俺を必要としてないんだ。今日は最悪の一日だ」
「らしくないよ浩哉。そういう本当は思ってもないようなことは、口にしないほうがいいよ」
「さすが、あっちゃんの言葉には重みがあるね。結婚して」
「就職を決めてから出直して」
「ああー」
浩哉は塩をかけられたナメクジのように、しおしおとその場に
「浩哉、お昼はちゃんと食べた?」
「まだ。腹減って死にそう」
「うちで食べる? 簡単なものでいいなら作ったげる」
「まじでっ!」
顔を上げた浩哉は、あっさりと復活した。散歩を持ちかけられた犬のような、ぴんと立った耳と尻尾が見えるようだ。変わり身の早さに呆れた淳美だが、浩哉らしい笑顔に免じて今日は甘やかそうと決めて苦笑した。
「一応リクエストを訊くけど、何か食べたいものはある?」
「あっちゃんが作るものなら何でもいい。今日は人生最高の一日だ」
「最悪の一日から大出世だね」
予想通りの返答だったが、作る側としては欲がないのも困りものだ。家に上がった淳美はテレビを
「確か、ホールトマト缶もあったから……浩哉ー、お昼はスパゲティにする」
「うわー、まじであっちゃんの手料理! 俺も何か手伝おっか?」
「有難いけど、静かに待っててくれたらそれでいいよ。ニンニク使っても平気?」
平気ー、と暢気な返事を背に受けて、淳美はエプロンの紐をぎゅっと背中でリボン結びにした。エビの臭みを水溶き片栗粉で処理する間に、包丁でニンニクを一かけ刻んで、オリーブ油と合わせてフライパンで炒める。スタミナがつきそうな香りが食欲をそそり、まだまだ頑張れると背筋が伸びた。夏はまだ始まったばかり。へこたれている暇だって惜しいのだ。エビを白ワインと塩胡椒で味つけしてから火を通すと、じゅっと景気のいい音がして、透き通る灰色はじりじりとオレンジがかったピンク色へ、夕暮れ時の空のように染まっていく。焼き色のついたエビを皿にいったん引き上げて、残したニンニクにアンチョビチューブを加えてから弱火にかけると、浩哉が台所の隅から顔を覗かせていたのでぎょっとした。
「無言で立たないでよ、怖いじゃない」
「邪魔しちゃ悪いと思って。あっちゃんって、すげー家庭的なんだなあ。結婚して」
「ちょうどいいや。ホールトマト缶とスパゲティの袋がそこの棚に入ってるの。取って」
「俺のプロポーズ、無視された! っていうかホールトマト缶ってどこ?」
「もー、人の話を聞いてないんだから!」
お互い様で
「一人暮らしをしてたら、こんな気持ちになるのかな」
赤いスパゲティをフォークで絡めとりながら、淳美は明るいリビングで呟いてみた。大学生時代も、小学校へ勤め始めてからも、淳美はずっと実家暮らしだ。浩哉はテーブルの向かいの席で大盛りスパゲティに夢中になっていたが、淳美が自分の独り言を忘れたくらいの時が流れた頃に「ん、そうかもしんない」と言ってきたので、淳美はじっとりと睨んでやった。
「なんで他人事みたいな言い方なの。大学一年生の時にはしてたでしょ、一人暮らし」
「まあね。でも友達を家に呼んだりはしなかったし、料理は一人だよ。それに寂しいんだよ、一人暮らし。ちょっとくらい大学が遠くなっても、あっちゃんの顔をちらっとでも見られる毎日に、俺は全てを懸けてるっていうか」
「はいはい、その話はもういいです」
浩哉が一人暮らしをやめた話はタブーだった。どんな顔をしたらいいのか困った淳美が、最後まで残していたエビの
「ごちそうさま。すげえ美味しかったよ」
この出来事が、翌日の椿事に繋がったのだ。
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