情は、物語における理である。

本作に用いられた言葉を歪めて用いる悪逆を、ご苦笑願わねばなるまい。

この陰惨絢爛なる政治劇では、為政者たちの才能を「情」「理」に区分けする。それらがつかず離れず、ときに「理」が「情」を組み伏せ、あるいは「情」が「理」と韜晦する様が描かれる。当レビュー筆者は、敢えてこの「理」「情」を“情”としてまとめ上げる。すなわち、意図、計算、反応、感情。この物語では、これら“情”が強固に縒り合わされ、歴史的事績が、さも必然であるかのように仕立て上げられている。化物か、である。

春秋。
その解釈書としての左氏伝、穀梁伝、公羊伝。
それらの換骨奪胎のだしがらし、史記。

あえて史記にのみ話を絞ろう。この後世に不動の地位を築く史書において、物語の主人公である郤缺は、わずか二箇所にしか名前が出ない。春秋にレンジを広げれば増えるのだが、それにしても、やはり情報に恵まれた人物ではない。そうした人物の物語が、約五十万文字ぶんにまで展開される。何故か。“理”の上で必要であった、と言うしかあるまい。では、当レビューに言う“理”とは何か。

  河曲の戦い。
  趙盾弑其君。

作者氏は類推なされている。こうした大事件を経て、何故逆臣の子が春秋晋の頂点にまで立てたのか、を。それらを“情”として示されるに当たり、想像を絶する膨大な思考を凝縮し、取捨選択し、提供の順を精査なされた足跡がうかがわれる。「あまたなす歴史事件を必然と思わせる」だけの“情”の集成である。「この“情”たちが集まったのであれば、この結末にもなるだろう」と納得させられる。これが“理”でなくてなんだろう。

レビュー者は二点、この物語に驚嘆の念を抱いた。それは「ここまで考えを深め続けてこられたのか!」と「ここまで噛み砕いて提供されたのか!」だ。そこには作者氏の迸らんばかりの“情”を感じずにおれず、ならばこの物語が“理”を得るのもまた必然だったのだ、と納得せずにおれない。

とんでもないものが、ごろりとネットには転がっているものだ。

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