人生二度目の片想い

海沈生物

第1話

 ある朝のことである。男は目を覚ますと、自分が自分ではないような「違和感」を覚えた。男は「彼方」という名を持つ、ありふれたクソ社畜だった。毎日残業続きの日々で疲れているものの、今日のように妙な違和感を持ったのは人生で初めてだった。男はその違和感についてもっと悩んでいたかった。しかし数分遅れで鳴ったスマホのアラームの音に、今日が仕事であることを思い出した。男は急いでベッドから起き上がると、床に散乱した去年の会社の書類や空になったコンビニ弁当を見ないフリして、会社用の鞄を肩にかけた。

 男は散乱した書類に転びそうになりながらも、の姿でアパートの部屋を出た。

 

 男は部屋の外に出ると、目前に見える朝日の眩しさに思わず目を細めた。いつもならもっと暗い内から厩舎の掃除をしているはずなのだが。そう思った時、また妙な違和感を覚えた。男の仕事は会社員である。人生の中で一度も牧場に行ったことがないし、テレビやSNSで牧場で働く人を見ても「大変そうだな」以上の感想を抱いたことがなかった。そんな牧場に対して無関心な男が、果たして牧場で働く自分を思い浮かべることがあるのだろうか? 男は首を傾げつつ、自分ではない自分の記憶があるなんて、

まるでゲームや漫画でよく見る「異世界転生」のようだなと思った。


 異世界転生とは「ここではない世界に生まれ変わること」である。異世界はこの世界とは別の法則で機能している場所である。魔法と呼ばれる物理法則を無視した現象を起こせたり、あるいは人ではない生き物が生きていたりする場所だ。そこに転生すると、大体は本人にとって都合の良い夢物語が展開される。一部は悲惨な運命を辿ることもあるのだが、ともかく、異世界転生とは基本的には都合の良いものなのだ。

 だから、そんな都合の良い異世界転生というものは現実として存在しない。あるいは、その存在が証明されていないのである。その証拠に、異世界から帰還したという認識がこちらの世界に一人もいないからである。自称異世界転生者はいるのかもしれないが、少なくとも、魔法を実際に使えるような人間はいないのだ。


 そんな証拠がないなのだから、男はそんな場所の記憶があるのかもと思っても、いやそれは都合の良い夢物語がすぎるだろうと振り払おうとした。しかし、男の胸の内にある違和感はかえって増幅する。どうして僕はこの世界にいるのだろう、と。男はなんだか、遠い昔には別の世界にいたような気がしていた。


 部屋の前でぼんやりしていると、突き当たりに住んでいるスーツ姿の女性が隣で見ていた。男がどうしたのかと女性の顔を見ると、男に「おはよう」と言ってきた。形式的に男も「おはよう」と返した。女性は変なものでも見るように眉を潜めると、「そ、それじゃあね」と言って走り去っていった。

 男はその背中をぼんやりと眺めた。あぁ、そうだ。僕もスーツに着替えて会社に行かなければならないのだと思い出す。男は自分が裸足のパジャマ姿であることに気付くと、顔を赤くして、急いで部屋に戻った。寝ぼけていたのだろうか。真面目に考れば考えるほど顔が熱くなってきたので、考えるのはやめた。


 スーツに身を包むと、さて出社である。今日も憂鬱な仕事へ行かなければならない。一秒でも早く終わってほしいと願う仕事をしなければならないと思った。それは広大な草原のように穏やかで、丘を吹きすさぶ風の香りのように心地よい仕事だと思った。そう思った時、男はまたもや自分が矛盾したことを思ったことに気付いた。


 僕は、僕のこの記憶と増大した違和感は……一体何なんだろう。もっと違ったものであったような気がする。男は別の世界に生きる住人で、多分なんでもない理由で死んでしまった記憶が漠然と思い出される。そのぼんやりとした記憶の中にふと、好きだった相手のふわふわとした笑顔を思い浮かぶ。背中まで流れる長い茶髪、脂肪のない細い腕、首筋にあるほくろ。姿形はあやふやなのに、その相手のことを思うとなぜか胸が苦しくなって、どうしようもなく泣きそうになった。男はその場で涙を流した。


「あの世界に帰って、あいつに……会いたい」


 そうして、男は自分が「異世界からの転生者」であることを思い出した。



2.

 自分が異世界からの転生者であることを思い出して「帰りたい!」と思ったところで、すぐさま元の世界に戻れるというわけではない。既に男は向こうで死んでいて、こちらの世界に来ているのである。もう一度死んだからといって、転生できる保証はない。

 だからといって、何も行動しないわけにはいかない。せめて「異世界から転生してきた」と言ってバカ真面目に聞いてくれる相談相手が欲しかった。ただ、仮に男が現実の警察に「異世界に戻りたい」と相談したところで、まともに聞いてくれる優しい警官などいるわけもない。良くてオススメの精神科を教えてくれる程度である。その相談相手が会社の人間や学生時代の友人であったとしても、尚更そんなを与太話を聞いてくれるわけがない。


 そこで、男は会社に「今日は骨折したので休みます」と適当な理由を一方的に電話で告げると、こういう時に一番信頼できる親友に電話した。


『もしもし、純也? 異世界に戻れるように助けてくれね?』


『よく分からないが、分かった! 俺に任せておけ! すぐにお前のところに向かう!』


 すぐに電話が切れた。これだけ単純だと純也の疑いのないバカ純粋さに不安になってくるが、今困っているのは事実である。男はありがたく利用させてもらうことにした。

 数秒後に隣の部屋の扉が早速開き、背中まである長い茶髪の男が出てきた。部屋の前にいる男の顔を見ると、心底呆れたような顔をした。


「なんだよ、もぉー! そこにいるのならわざわざ電話なんてせずにドアを開けろよ、ドアを」


「うるせぇ。僕じゃなくてお前がドアを開けてくれることに意味があるんだよ」


「あー? 意味わかんねぇ! とりあえず、お前の部屋入るぞー」


 返事を言うよりも先に堂々と部屋に入って行く純也に辟易としたが、まぁどうせ部屋に入れるつもりだったし良いかと男も続いて入った。


 部屋に入って早々に「汚ねぇー」と言われた。悪口も誹謗中傷として逮捕できたらなと思いつつ「嫌なら入るなよ」とムスッとした顔をした。

 男は部屋にできた僅かなスペースに純也を座らせると、自分はキッチンの上に座る。なんだか視線を感じたが、ここはあえて無視をした。


「それで、どうやって異世界に戻るんだ? 俺はバカだし、方法なんて特に思い付かないが!」


「そんなの僕も知らん。死ねば異世界転生し直せるんじゃねーか」


「死ぬ? でも、そんなことで帰還できたのなら、誰でも帰還できるはずじゃないか?」


 こういう時、変に真面目な正論言ってくる所が男は苦手だ。普段バカなら真面目な時もバカを貫いてほしい。男が黙り込んでいると、「あぁそうだ!」と耳をつんざくような喧しさで叫んだ。


「死ぬのがリスキーなら、こっちの世界に留まれば良いんじゃないのか!? 異世界転生なんて危険なことをするよりも、楽だしさ」


「は? バカじゃねーのか。そもそも、こっちの世界はクソだ。このままだと意味もなくクソ社畜として野垂れ死ぬだけの人生を送ることになるんだぞ? どうして、そんなクソな世界でバカ真面目に生きようとしなければいけないんだよ」


「それは……そうだな。バカ真面目に生きるのって彼方かなたには向いてないよな。ごめん」


 なんだか落ち込んでいる様子の純也にちょっと言い過ぎたかなと反省する。少し考えてみれば、確かに純也の言うことにも一理あると男は思った。こっちの世界はクソだが、向こうの世界が本当に良いモノであるかなんて分からない。記憶では良いものだと思っているが、実際はこちらよりクソな世界かもしれない。それでも、あの強烈な草の香りや牛の糞の香りを思い出すと、故郷に帰りたくなるのだ。帰りたい衝動に包まれるのだ。こっちと向こうの間で葛藤する男に、純也はふと苦笑いをした。


「……彼方が帰ったら、俺は一人になっちゃうんだよな」


「それは当たり前だろ? お前まで付いてくる必要はないんだから」


「……じゃあ、俺も死んじゃおっかな! 彼方のいない世界に一人で生きていても、つまらなさそうだし」


「お前なぁ……気持ちは嬉しいけど、お前までそのリスクを負う必要はないんじゃねーか? 死ぬのなんて苦しいだけなんだし」


 男が溜息をついたところで、突然純也はキッチンの上にいる彼方をその脂肪の無い細い腕押し倒した。その目は虚ろで、いつものバカみたいに真面目な彼とは全く異なるように思えた。


「別に良いよ、俺の命ぐらい。純也は分かっていないかもしれないけど、俺は本気でそう思っているからな!」


「で、でもよ。まだお前には選択肢があるだろ? 確かに社会はクソだが、お前にはまだ結婚とか子育てとか、そういう楽しめる余地があるだろ? 僕にはねぇんだよ。女を愛せねぇんだから」


 思わずこぼしてしまった言葉に、自分で自分が嫌になる。何を感傷的になっているのだ、と男は思った。彼方はそんな男に対して、キスをするんじゃないかというほどの距離で額を突き合わせてきた。


「彼方のそういうところ、本当にダメだと思うな。上手く言葉に出来ねぇけど……確かに男しか愛せないことは苦しいのかもしれないが、あんまりそれで卑屈になるのは良いものじゃないと俺は思うぞ。卑屈になった先には、なんていうか、彼方がよく言う”クソ”になると思うからさ!」


「……すまん。僕が悪かった」


「うんうん、それでよろしい! まぁ俺はだから彼方を愛すことはできないけどさ。でも、それとは別に”一緒に死んでも良い”って思うぐらいには、彼方のことを親友として大切に思っているから。だから、まぁ……俺と一緒に異世界へ戻る良い方法を考えよ? な?」


 純也の笑顔はまるで夢のようだった。ふわふわとしたその笑顔に、つい心の全部を預けたくなった。それなのに、「女性が好き」というワードが頭に過ぎると、どうしようもないほどに胸が苦しくなった。この感情は以前向こうの世界でも感じたことのあるものだった。

 純也は押し倒していた男から離れると、「部屋からスマホ取ってくるわ!」とドアへと向かった。その後ろ姿を見た時、ふと純也の首筋のほくろに目がいった。その瞬間、男の異世界での記憶の相手と彼が。”背中まで流れる長い茶髪、脂肪のない細い腕、首筋にあるほくろ”。そして、ふわふわとしたあの笑顔。記憶の重なりは、男のあやふやな相手の記憶に輪郭を与えた。

 男は純也がドアをバタンと閉める音を聞くと、涙が出てきそうな自分の目元を服の袖で覆った。


「……失恋しちまったのか、僕は」

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