人類の機械化の先にある生と死とは何か

 ARという仮想世界の中で生きるヒューマノイドが一般化している社会で、生身の人間はごく少数に留まっている。
 その者たちはマイノリティとして人権を剥奪されたが、彦根桐吾などの一部人間は、その者たちこそ、「生物としての人」なのだと捉え、自分たちヒューマノイドは「倫理的な人」に過ぎないと捉えている。

 ARの中で生きているからこそ、この世界が普遍的に存在していることに疑問を覚え、無機質なステンレスで覆われたヒューマノイドだからこそ、自らが「人」として、「生物」として正常に生きているといえるのかを問うている。

 人間のヒューマノイド化によって、人間は均一なる平等の道を進むことができたが、それは人の心を機械化し、人を社会のひとつ部品にしてしまう、いわば「人類の機械化」であった。

 機械化することで停滞した人類を打破し、未来を創ろうとする生嶋総理は、「特別延命処置法」によって彦根桐吾を不老不死にして、次世代のリーダーに仕立てようとする。

 一方で、人類を機械化した張本人である由良島は、自らその世界を破壊しようとする。
 自らが構築した理論に対する反証としてのテロリズム。
 その先に彼が見つめるものが何なのか、それはまだ分からない。
 しかし、彼は「認識を自由に操れる存在になりたい」と言っている。
 彼のいう「本当の死の克服」。
 彼のテロリズムの先にある展望はそれなのか。
 物語は途中で、その答えはまだ見えない。

 由良島とは別に、彼と共にヒューノイドの共同開発を務めた男・印波は、由良島に強烈な劣等感を抱きつつ、彼に反証するために生き続けてきた。
 「人は他者の認識や記憶の中にしか存在しない」という由良島に対して、印波は「人の意識が他者を介する認識だけではないことを証明してみせる」という。

 もし、由良島の言う通り、「人は他者の認識や記憶の中にしか存在しない」とすれば、ヒューマノイドもまた人なのだろう。
 しかし、彦根桐吾のように、人体の美、生命としての美しさ、生物として生きることの意味に心惹かれる者にとっては、人類の機械化は、ヒューマノイドをただの機械の歯車にするだけだ。

 人とは何か。
 人類の機械化の先にある生と死とは何か。

 その深い問いかけに正面から挑む本作は、非常に勇気のある作品だ。