血のない我ら

マムシ

第1話 電車の中

 珍しいものを見た。

 彦根桐吾は紙の本なんてもう何年も見ていない。人類が人類たらしめる肉体を捨て、世界がARという技術の名のもとに革命が起こったあの日から、かさばる上に値段が高く、保存方法が面倒くさい紙の本はただの遺物と化した。中でも一部のマニアがコレクションとして集めている話は聞くが、それを手に取り、読んでいる人はほとんどいない。

 観賞用のディスプレイとして、本棚に綺麗に並べられるインテリア。それが現代の書籍の在り方である。数百ページに渡って紡がれた文豪の言の葉も、その感動を証明することなく、閉ざされた紙の牢獄の中で永遠に日の目を浴びることはない。

 実在するものの価値が失われて、数十年。いまの世界、いまの生活が普通になった。

 物体の機能性を重視し、それが実存しているのか実在していないかはさほど問題視されなくなった。先日の哲学者が死ぬ思いで、研究した自分が存在する照明は科学によって一掃され、人は血の通う体と引き換えに永遠の繁栄を手に入れたのだ。


 電車に乗っても、内蔵されたインターフェイスから外見をプライベートモードに切り替えれば、顔すらも見えない。真正面に座っている人が本を読んでいるのか、はたまたゲームをしているのが、恋人とメッセージのやり取りをしているのか、どんな顔なのか、どんな体型なのか、それすらも遮断されている。

 目の前に座っている人間はもはや障害物でしかない。真っ黒い影に覆われたその体はまるでマジックで塗りつぶされたようだった。


 そんな世界の中で、隣の人が読んでいた紙の本に目が奪われた。長い髪の毛を後ろで束ねたこの女はプライベートモードを使っていない。自分の存在を晒すことは別に悪いことではない。プライベートモードとはそれこそ、紙の本におけるブックカバーのようなものだ。ただ自分の姿が見られるのが恥ずかしい。そんな尊大な羞恥心が他者との隔たりを築いていく。

 だがこの女は自分の姿が他人に見られることを何の躊躇もなく、黙認している。

 真っ黒い影で溢れかえるこの車内で唯一、その外見を露にさせていた女はまるで美術館に展示されたビーナスのような存在感を放っていた。

 彦根は横から覗き込み、その女が読んでいた本を黙読した。プライベートモードを使っていないとて、他人が読んでいる本をのぞき込むのはマナー違反もはなはだしい。


「俺はこのままだと人でなくなってしまう」


 そんな台詞が目に飛び込んできた。鍵かっこで囲まれた主人公のセリフだ。懐かしい。そんな感情が数年前の記憶を呼び起こした。

 この女が読んでいる本は知っていた。以前、小説にはまっていたことがある。小説はいい、気持ちを落ち着かせる作用がある。読んでいると、自分の世界に入れるし、不安や焦燥が少しだけ和らぐ。

 人との関りが薄れた社会でも、そんな社会であるからこそ、人の目が気になり、他人があっての自分を構築しなければならない。二十四時間プライベートモードで殻の中に閉じこもっているのも、心が廃れる。程よく独りの世界になり、それでいて社会の繋がりを絶たないようにする。

 そんな我がままを成り立たせるのに小説というツールは最高だった。


「しかしこの本が紙書籍化していたとはな……」


 不意に口に出した言葉。するとその女がこちらを見つめてきた。気のせいか? いまはプライベートモードにしているから、声は聞こえないはず。だが確かにこの女は彦根の声に反応した。

 眉をひそめる。なぜこの女は声が聞こえのか。周りを見渡しても、こちらを見ている人はいない。インターフェイスのシステムに異常はないはずだ。

 念のため、こめかみのあたりをタッチして、ARパネルを開き、設定画面から確認を取るが、やはりプライベートモードは正常に作動している。

 戸惑う彦根をガラスのような目で見つめる女。


「あなた、いま私の本を読んだの?」


「すまない、そんなつもりじゃなかったんだ」


 彦根は咄嗟にそう言って、謝った。だがなぜそんなことを聞いてくる? 確かに赤の他人に対して、ましては社交場でもなく電車というただ移動手段の箱の中で、他人が何をやっているかに興味を持つ者なんてまずいない。


「いえ、少し嬉しかったのよ。あなたのようなヒューマノイドであっても人に興味を持ってくれるだなんて……」


 その時だった。車体が大きく揺れ、途轍もない爆音と共に、体が宙に浮いたのである。

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