第2話 電車の中

 ――何が起こった

 宙に舞う体を翻しながら脳をフル回転させた。つり革があらぬ方向に揺れ動き、ほんの一瞬だけこの空間から重力が消えた。

 彦根は回転する体の中で女のほうに目を向けた。すると彼女は本を抱えたまま、顔を伏せている。急な衝撃で体が硬直して動けなくなっているのだ。

 しかしそのまま体を硬直させていれば、窓ガラスが割れ、制御を失った電車からコンクリートブロックが連なる線路上に投げ出されてしまう。

 このままだとこの電車は脱線する。事故か事件か? 詳しいことは分からないが、今はとにかく彼女の大破を見たくない。

 浮いた体を伸ばしして、手すりにつかまった彦根は彼女に対して手を伸ばした。


「この手に捕まれ!!」


「はい!」


 彼女は死に物狂いで彦根に腕にしがみ付いてきた。その拍子に抱えていた本が手から零れ、無残な状態で宙に舞った。

 次の瞬間、無重力の時間は終わりを告げる。とんだ遠心力が空間を包み込み、車内はスクランブル状態になった。まるでミキサーに入れられた食材のように絡み合い、ぶつかり合い、割れたガラスが吹雪のように飛んできた。

 彼女の手を握って、何とか守り抜こうと抱き寄せた瞬間、思いもよらぬ温かさを感じた。

 まさかこの女……

 顔を見ると、必死に目を瞑って、怯えている。ガラス片が彼女の頬を掠め、血が滲んだ。彦根はその傷口に手を当てると、自分の指にもその血液の生暖かい感覚が伝わってくるのが分かった。

 これは生命維持を行うため、プログラミングされた警告の意味を用いた傷のホログラムではない。この血は本当に全身に通っている。彼女には痛覚プログラムもなく、ましては義体の交換も無い。

 これは生身の人間だ。全身に張り巡らされた血管から真っ赤な血が流れて出ている。このARに支配された世界に残された本当の人類なのだ。彦根は黒い灰と、機械音が鳴り響く車内で彼女の体をより一層強く握りしめた。

 この人は我々とは違う、たった一度の命しかないし、傷だって一生残る。政府はヒューマノイド化を推奨し、未だに肉体を捨てない国民は腫れ物を触るよう目で見られている。

 どちらによこの世界をARという幻想を外してみたら、荒廃した地獄でしかない。環境などという言葉はとうの昔に消え去り、エコロジーなどは狂信者の戯言でしかなくなった。地球は人が完全に壊し、人は人であることを捨ててまでもその覇権を握ろうとした。

 その結果がこの幻想に満ちた世界なのだ。機械の体から目を背けるために、荒廃した世界から目を背けるために、科学は脳を騙した。

 だが彼女の脳は人工物に支配されていない。シナプスを放ち、ニューロンが反応している。彼女が見ている世界をもう見ることは出来ないが、この握れば潰れてしまうようなもろい眼球が見つめている世界こそが真実の地球であり、真実の人類なのだ。

 落ち着きを取り戻した彼女の表情を上から覗き込むと、口角を上げ、小さく頷いた。



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