第3話 電車の中

「ありがとうございます……」


 彦根の胸の中で女はそう言った。何とか脱線した電車は止まったようだ。鼻腔にオイルの匂いが染みつく。煤だらけの車内で緊急放送が繰り返し流されていた。


「怪我はないか」


「ええ、この通り大丈夫です」


 にこやかな笑顔を見せた。すると彼女はふと顔を見上げ、呟く。


「常盤宗……好きなんですか」


 こんな状況で、小説の話か。やはり生身の人間は肝が据わっている。だが確かにいまは救助を待つしかない。こんな時だからこそ現実が目を背けるために、人はどうでもいい話をしだすのだろうか。

 彦根は少し呆れたような表情になりながら、小説の話をしだした。


「常盤宗の『時を刻む』あれは駄作ですよ。よくあるタイムリープものだ。だが最後のセリフは痺れましたね。『タイムリープを何度も繰り返し、恋人を助ける。それは恋人を助けているわけでない。恋人がいる世界に自分だけが逃げ込み、何十何百という恋人の死体から目を背けているだけだ』とね」


 その時である。救助用のロボットから光を照らしながらこちらに近づいてきた。以前なら入念な点検が合って、救助隊が到着するのに時間がかかっただろう。しかし今の肉体は皆、替えが効く。少しばかり無茶な捜索をしても、外傷よりも心的ストレスの軽減を優先させる。

 ヘッドライトの明かりが二人を照らした。辺りを見渡すと、黒い影が救助用ロボットに手を握られて、瓦礫の向こう側へと続々と消えていった。


「私もその言葉が一番好きなんです。この本は何度も読み込みました。でも人はそうやって生きている。自分の見ている世界が本当の世界だと思い込んで生きているんですよ」


 それは皮肉なのだろか。だが彼女は真っすぐな目で言っていた。


「君は真実がいくつもあると思っているのか」


 救助用ロボットのアームを握った彦根は振り返って問いかける。


「三次元を越えない限りはそうですね。いくら神に近づこうと、人の業が邪魔をする」


「君は達観しすぎだ。だが君は人類の希望なのかもしれないな」


 彦根はそう言い残し、彼女と別れた。名も知らぬ人間を身を挺して守ったのは初めだった。それも生身の人間に触れたのは久しぶりだった。大人になる前の酷く懐かしい往年を思い出す。


「あの者はヒューマノイドではない。丁重に扱うんだ」


 救助用ロボットに耳打ちをした彦根は襟を正し、瓦礫の山を登っていった。


「またいつかお会いできるでしょうか」


 彼女は立ち去ろうとする彦根の背中に向かってそう叫んだ。線路の壁に手を突いた彦根は振り返らずに、こう答える。


「本は互いを惹きつける。特に読まれなくなった現代では本を読んでいる人なんて貴重であり、異端だ。またきっと会う日が訪れるでしょう」


 彦根は名前も聞かずにその場を去っていった。だがほんの僅かな確信がその胸を突いていた。きっと彼女にはまた会うだろうと。何の根拠も無いが、機械仕掛けの脳みそはそんな想像を演算した。



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