わたしの救急少年
このはな
わたしの救急少年
「こらっ、廊下を走るな!!」
ジャージ姿のいかつい男の先生が、教室の窓から身を乗りだして怒っている。
しまった、見つかったか。
しかし、それしきのことで足を止めるおろか者はいない。
「おねが~い! 見逃してえ~ん!」
ひとりの男子児童が媚びるような返事をする。
みんなはクスクス笑いながら廊下を通り抜けた。
彼ら六年三組の児童たちが次の四時間目に受ける科目は国語。図書室で本を借りることになっていた。
ところが、図書室に行くためには、教室がある南校舎の四階から階段を下り、一階の渡り廊下を通って、北校舎の四階まで駆けあがらなければならない。
制限時間は、たったの五分。
短い休み時間のうちにアップダウンをくり返すという、体力勝負のミッションだ。
それはすべて校舎の耐震補強工事が行なわれているためであった。
さらに運がわるいことに、今日は短縮授業のうえ土砂降りの雨が降っている。
風にあおられ、吹きこんでくる雨のしずくによって、渡り廊下は滑りやすくなっていた。
そのせいで
「いったーい!」
とさけんだとたん、少し先にいた
「仁菜ちゃん、だいじょうぶ? あっ、ペンケース!」
廊下に散らばってしまった筆記用具を集めて持ってきてくれた。
「ありがとう。うん、だいじょうぶ」
仁菜はお礼を言って、それを受けとった。そして、あることに気づいた。
「ひょっとして、わたし、大きな声だしちゃった?」
「うん、だしてたよ。思いっきり」
二人は顔を見あわせた。
「ってことは……!」
「きっと聞こえたって。すぐ来るよ、ほら」
と言ってまもなく。
「仁菜ああああっ! だいじょうぶかああああっ!」
前方から大きな叫び声とともに、ひとりの男子がすごい勢いで走って戻ってくる。
「「き、来た!」」
目を見はる二人の真ん前にやってくると、彼は背を向けてスッとしゃがんだ。
「乗れっ、保健室に行くぞ!」
「えっ、でも……」
仁菜はためらった。
彼におんぶしてもらうのは、じつは今回がはじめてではない。たくさんありすぎて、数え切れないくらいだ。それなのに、いつまでたっても彼が無防備に背中を見せる行為になれなかった。
彼は幾度となく、仁菜がケガをしたときにあらわれ、保健室まで背負って連れていってくれるのだ。
そのため、事情を知っている児童たちは、親しみとからかいを込めて彼のことをこう呼んでいる。
『救急少年』と――――。
断るのもわるいような気がして、仁菜はおとなしく彼の言うことに従うことにした。
彼の背中にそっと手をのばす。
「ありがと、
「いいってことよ!」
ふり返らずに答えた彼の耳は、うっすらと赤い。
トクン。
仁菜の胸はときめいた。
でも、ときめいてもムダなことだと知っている。
なぜなら守には好きなひとがいるからだ。
救急少年をしている理由も、そのひとのためだとわかっていた。
*
真奈美とわかれ保健室に行くと、養護教諭の
「おっ、来たな。救急少年くん」
彼女が動くたびに、シュシュでひとつにまとめた黒髪もさらさらと流れた。白衣がよく似合う美しいひとだ。ベッドの端に仁菜をおろすように指示をだし、
「いつもごくろうさま。ありがとね、渡辺くん」
彼女はニコニコほほ笑んだ。
守は恥ずかしそうに赤く頬を染めてうつむいた。
「べ、べつに……このくらい……どうってことないし……」
と、口のなかでごにょごにょさせる。
いつもの見なれた光景だ。
仁菜は二人から目をそらし、雨でぬかるんだ校庭をながめた。
しかし、どうしても会話が耳に入ってしまう。気のないフリをしながらも、耳をすまさずにはいられない。仁菜はそんな自分が嫌いだった。
「吉川さんもえらいわ。クスリちゃんと飲んでいるのね」
先生に声をかけられ視線を戻したら、先生は仁菜のヒザの具合を診ているところだった。
「もう血は止まっているみたいよ。よかったわ、たいしたことなくて」
と言いながら、ピンセットにはさんだ脱脂綿を、仁菜のヒザにポンポンとあてる。
強くなった消毒のにおいに鼻の奥がツーンとなった。
「先生、守くん、ごめんなさい。わたしのせいで、いつも迷惑をかけて……」
「バーカ! 血がでたら大変なんだろ? つまんねーこと気にするなよ」
守は不服そうに口をとがらせた。
「そうよ、吉川さん。ちゃんとクスリを飲んで、ケガをしたとしてもすぐ処置をすればだいじょうぶよ。そのための救急少年なんだから。ね、渡辺くん」
「おう!」
仁菜が弱音をはいたとき、二人はいつも励まし元気づけてくれる。
それがいちばんイヤだった。
だれにも言えない言葉を、心のなかでつぶやく。
いいえ、里子先生。
守くんは、先生のために救急少年をやっているんです。
先生が頼んだから――。
どうして守くんに頼んだのですか?
救急少年が守くんじゃなかったら、守くんが先生を好きなことを知らずにすんだのに。
「仁菜? ヒザ、やっぱ痛いのか?」
ションボリした仁菜のようすに気づいた守が、ベッドの端に近づく。
仁菜は「ううん」と首をふった。
守はニッと笑った。
「授業のこと心配してんのか? 元気だせよ、おれもつきあってやるからさ」
本当は、彼の心遣いがうれしい。
だけど卒業して中学に行けば、こうして話をすることもできないだろう。そうなったら、この関係もおしまい。そもそも病気だからって、いつまでも甘えてはいけないのだ。
小学校を卒業する日――来年の三月が実らない片思いにサヨナラを告げる日だ。
残された期間は、あと半年。
「守くんは、授業をサボりたいだけだよね?」
仁菜がそうつっこむと、
「なんだよ、まいったなあ」
守は苦笑いを浮かべ、ポリポリ頭のうしろをかいた。
*
季節は過ぎ、秋から冬に移ろうとしていた。
ちまたではクリスマスソングが流れだし、学校の児童たちもウキウキそわそわ浮かれ気分。もうすぐ冬休みがやってくる。
しかし、来年卒業を迎える六年生たちは、今のうちにやっておかねばならないことがあった。
「仁菜ちゃん、卒業文集の作文、書けてる?」
ぼんやり考えごとをしていたら、真奈美にそっと声をかけられた。真奈美は卒業文集の係だった。
「ごめん、真奈美ちゃん。どうしても書けなくて……」
仁菜の机の上に置かれた原稿用紙には、タイトルしか書かれていなかった。
『わたしの将来』
病を抱えた自分に、どんな未来が待っているのだろう。まったく想像できない。
四百字詰め原稿用紙をたった一枚描くだけなのに、マスをうめる作業が延々と続く苦行のように感じた。
「ゆっくり書いてって言ってあげたいけど、しめきりすぎてるし、そろそろヤバいんだ。未提出もあと二人」
申し訳なさそうに、真奈美は声をひそめた。
――え。
「わたしのほかにも、だしてないひとがいるの?」
思わずパッと顔をあげたら、真奈美は小さく笑った。
「だれだと思う?」
ぜんぜん想像がつかない。ぐずぐずしているのは自分だけだと思っていたからだ。仁菜は答えられなかった。
すると、ふわり、あたたかな手が肩にふれた。
「あのね、守くんなの。仁菜ちゃんが提出するまでは自分もださない、って言いはってるんだよ」
口ぶりとはうらはらに、真奈美の表情は陽だまりをやさしく揺らしたようだ。
「どうして? そんなの困るよ……守くん、なんでそんなことを……」
「さあ? 本人に聞いてみたら? どうせ、また保健室にいるでしょ?」
給食を食べたあと、守は保健室に行く。同じクラスの誰もが知っていることだった。
「うん、でも……」
彼にとっても残された時間はわずかだ。里子先生と過ごすジャマになりたくない。
そう思う一方で、今二人が何をしているのか気になった。
さんざん悩んだ末、
「ちょっと行ってくる」
仁菜はイスから立ちあがった。
*
ボソボソという話し声が、保健室の扉の向こうから聞こえてきた。
会話の主が二人いることがわかった。守と里子先生だ。
ノックをするために上げた手をおろし、音を立てないように扉を少しだけ開けると。
守と先生が机で作業をしているようすが見えた。
里子先生が適当な大きさに切ったガーゼを、守はせっせと折りたたんでいる。二人はとても楽しそうだ。
仁菜は扉のこちら側で、ひとりぼっちのさびしさをかみしめた。
キュッときつく瞳を閉じる。
胸が痛い、痛くてこわれそう。
こんなとこ来るんじゃなかった。
そうして教室に戻ろうとからだの向きを変えた、ちょうどそのとき。
「先生がいなくなると、さびしくなるなあ」
守の声がハッキリと聞こえた。
先生がいなくなる? えっ、どうして……。
ぐうぜん聞こえてしまった会話に思わず耳をすます。
「そうね、わたしも辞めたくないけど、ワガママを言っていられなくて。彼の転勤が決まったから、急にこんなことになってごめんね」
フラフラと扉のすき間から、なかをのぞいた。
里子先生の左手薬指に輝く指輪が、仁菜の目に飛びこんできた。
あれは……結婚指輪だ。
先生、結婚したんだ……!
「べつにあやまることないよ。だって幸せになるんだろ? いいことじゃん」
蛍光灯のせいだろうか。守の瞳が潤んでいるように見える。
「渡辺くん、吉川さんのことだけどね」
里子先生がニッコリ笑った。
「わたしが辞めたあともお願いね、引き継ぎの先生には話しておくから」
「わ、わかってるって! 卒業までちゃんと救急少年するよ。もともと、おれが最初に言いだしたことだし……! クラスのみんなだって……」
守のガーゼを折るスピードがアップした。
彼の顔は、これ以上ないっていうくらい真っ赤だ。
仁菜は心臓が止まる思いがした。
うそ、聞いた話とちがってる。
「そうだったわね。とってもいいアイディアだと思ったわ。ケガをするのは授業中だけとは限らないしね。はじめは心配だったけど。渡辺くん、がんばったわね」
守は返事をしないで、せっせと手を動かしつづける。
「それで、どうなの? ちゃんと言った? 吉川さんに」
「!」
「まだ言ってないの? 意外と度胸ないんだ」
「それが、先生の言うコトかよ!」
守は里子先生にあっかんべえと舌をだした。
*
仁菜は教室に戻るなり、真奈美の席に向かった。
「ま、真奈美ちゃん! 聞きたいことがあるんだけど……!」
「どうしたの?」
真奈美の目がまん丸になる。
「あ、あの、守くんのことだけど、救急少年! それって、守くんが言いだしたってホント……? 里子先生の提案じゃなかったの?」
すると、仁菜のまわりからパラパラと声がした。
「なあんだ、結局バレたのか」
「守のヤツ、何やってんだ」
同じクラスの子たちがあきれたように笑っている。
「どういう意味? バレたって、えっ……?」
ポカンとしていたら。
「あのね、仁菜。話を聞いて。救急少年ってじつは渡辺くんだけじゃなかったの。うちのクラス、六年三組全員が救急少年だったのよ」
と、真奈美は話しはじめた。
「ほら、一学期にケガをして、仁菜ちゃん学校を休んだことがあったよね? 学校にホンモノの救急車が来て、大騒ぎになっちゃって」
「うん……」
「そのときにね、みんなで話しあって決めたんだ。仁菜ちゃんをぜったいに一人にしない。万が一ケガをしたら、すぐ保健室に連れていけるようにって。それなのに、渡辺くんがはりきっちゃったせいで、いつのまにか救急少年は彼一人のあだ名になっちゃったんだ」
じわっと涙がにじんできた。
「そうだったの? ごめんね、何も気づかなくて……わたし、病気だからって落ちこんでばっかで……」
真奈美がポケットからハンカチをだし、仁菜の涙をふいた。
「そうやって泣くと思ったからナイショにしてたんだよ。病気ってだけでヘコんじゃダメだよ。気にしなくていいんだから」
「うん、うん、ごめんね……」
わたし、何を見ていたんだろう。
真奈美ちゃんやクラスのみんな、先生が、守くんが、わたしを支えてくれていたのに。
「あ、ありがとう……」
だいじょうぶ。これからだって、きっとやっていける。
こわくなんかない。
仁菜は、生まれてはじめてそう思えた。
『わたしの将来』 六年三組 吉川仁菜
わたしは血が止まりにくい病気を持っています。
ケガをしないように、いつも気をつけなくてはなりません。
体育も遠足も休んだり、見学したりしました。
わたしにできることは、とても少ないです。
でも友だちや先生がわたしのことを助けてくれました。
将来のことはあまりわかりませんが、わたしもみんなのように困っているだれかを支えたい。
そんな大人になれたらいいなあと思っています。
*
仁菜は深呼吸を一度してから、保健室の扉を開けた。
「吉川さん、どうしたの?」
里子先生と守の顔が青ざめている。
「仁菜ッ、ケガをしたのか!?」
「ち、ちがうの! どこもケガしてません。あの、えっと、守くんに用事があって……」
「おれに?」
「じゃあ、わたしはちょっと席を外すわ。あとは頼むわね、渡辺くん」
「はあ……」
里子先生はムフフと笑うと、合図をするように片目を閉じてから保健室を出ていく。
仁菜と守の二人だけになった。
「どうした、仁菜。おれに用事って……」
「うん、あのね、守くんに言いたいコトがあって」
仁菜はそこでいったん言葉を句切り、キュッとくちびるを引きしめた。
「わたし、文集の作文、書いたから! だから守くんも提出してね! ぜったいだよ!」
必死な思いで訴える。
すると、守は目を細めた。
「ん、だいじょうぶ。おれも書いてあるから、いつでも提出できる。心配すんなって」
「書いてあるならどうして出さなかったの? まるで、わたしを待ってたみたい――」
「どうしてって、おれは仁菜の救急少年だから。先に出したらおかしいだろ?」
「おかしいって、なんでおかしいの?」
彼の言うことがわからない。
「ああっ、もうこれ以上は聞かないでくれよ! 中学に行っても、おれは仁菜の救急少年だから! 今はそれしか言えねーよ!」
守はじれったそうに言うと、くるっと背を向けた。
仁菜はすっきりと引きしまったその背中を見つめた。自分をずっと守ってくれた、頼もしい背中だ。
「こっ、これからも、よろしくお願いします……!」
ドギマギしながら、なんとかそれだけ言う。
「だけどさ、ひとつ問題があるんだよな。なんていうか、その、あ、あたりそうになるんだよ」
急に守のようすが変わった。たどたどしい口調になる。
「あたりそうって? 何が?」
「だから、あのさ、む、胸が……!」
それを聞いた瞬間、仁菜は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。
とっさに胸をかくしてさけぶ。
「ま、守くん!!」
「わあっ、ごめんって!!」
けれど、仁菜は少しうれしかった。
守が女の子として意識してくれていたことを知ったから――。
そういえば、もうすぐクリスマスだ。
思いきって手編みのマフラーをプレゼントしよう。
今度おんぶされたとき、うしろからそっと彼の首に巻いてあげるんだ。
赤と白のマフラーを。
だって、彼はわたしの救急少年なのだから。
おわり
わたしの救急少年 このはな @konohana
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