恋って、なに!?
桐沢もい
恋って、なに!?
恋
①一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。
②植物や土地などに寄せる思慕の情。
(出典:広辞苑)
※
とある小学校の3年1組。春の昼下がり、窓から心地いい風が吹き入り、白いカーテンを優雅にはためかせる教室の後方で、子どもたちが談笑に興じていた。
その中のひとり、ハルトが声を上げる。
「なぁなぁ、コイってなんだ?」
ハルトは友達がこのところしきりに話題にしている「コイ」なるものについて、本当のところ何のことかさっぱりわかっておらず、この度、勇気をふりしぼって尋ねたわけだ。
「あ、魚のコイだろ? さては見つけた穴場を俺に隠してんな。教えろよ!」
たぶん話の前後の流れから、魚の鯉のことではないだろうとは思っていた。案の定、ハルトの言葉を聞くや、その場にいた友達はこれ得たりとにやにや顔を見合わせ、笑いをおし殺すようにして肩をふるわせていたが、ついに我慢の限界を迎え、どっと笑った。
その友達とて、「コイ」について知ったばかりだというのに。
心外とばかりに頬を膨らませるハルトに、
「コイってのはなぁ……」
と、ゲンタが高説を垂れようとすると、それに被せるようにして、
「ここがギューってなることだって、かあちゃんが言ってたぜ!」
セイヤが自分の胸を指して言った。
「え!? コイって病気なのか?」
と、ハルトが聞くと、
「違うわよ」と、ケイコが答えた。「それはあくまで恋をした結果起こることよ。恋っていうのはね、人をものすごく好きになること。その人が近くにいるだけでドキドキするくらい」
ケイコが切なげな笑みを宙の何もない一点に向け、胸の前で合掌している。ハルトはわけがわからなかった。
「どきどき……」
ハルトがいまいち理解していない頭で考えながら、ケイコの言葉を復唱すると、
「そ、ドキドキよ」
ケイコはハルトに意味が通じたと思って、にこにこ顔をハルトに向けた。
この瞬間から、ハルトが恋とは何かについて、悶々と考え悩む日々が始まった。
※
その後というもの、ハルトは何をするにも気もそぞろ。友達みんなが理解しているらしい言葉を自分だけよく分かっていない状態が、どうにも収まらないのだ。(しかし本当は雰囲気で理解した気になっている友達が大半である。自分がちゃんと理解していないことを理解できているハルトのほうが一枚上手と言えるのだが、残念なことに、ハルトはそのことに気づいていない)
「コイ、コイ、コイ……」
ぶつぶつつぶやきながら道を歩いていると、側溝に足がはまって転ぶことしばしば。額には赤々と大きなたんこぶ。電柱にぶつけたのだ。
これもある意味、恋の病――などというジョークは、このときのハルトには酷な話である。彼はまったくもって真剣であった。
※
そしてついに、ハルト自らコイを体験するときが訪れた。
よく晴れた日。ハルトが道を散歩していると、向かいから犬を連れた女性が歩いてきた。ミントグリーンのワンピースを身に着けた背の高い女性が犬のリードを引いている。小ぶりな犬で、飼い主の歩調に合わせてお行儀よく歩いている。小春日和の優雅なお散歩といったふうだ。
ハルトはその光景に目を奪われ、気がついたら一人と一匹を目で追っていた。
女性はハルトの視線に気付いた様子で立ち止まった。小犬もご主人にあわせて行儀よく立ち止まった。
「ぼく、わんちゃん好き? さわっても大丈夫よ。うちの子、おとなしいから。人見知りもしないの。すぐなつくわ」
春のそよ風のように女性が言った。ハルトは「じゃ、じゃあ……」とおそるおそる小犬の前にかがみ、
ドキッ!
(――え!? い、今、俺ドキッてなった?)
小犬のつぶらな瞳がハルトをじっと見つめている。可愛らしい小さなしっぽをふりふりしながら。
ドキドキッ!
(え、えーー!? こ、これがコイ? そりゃ犬好きだし、この犬めちゃかわいいけどさ。こんなドキドキしたことねぇぜ! 犬にコイって、どうなの? 普通なの?)
ハルトの頭の中には嵐が吹き荒れ、もはや収拾がつかなくなっていた。そこで、ふと、あることに思い当たった。
「でも、コイは人をものすごく好きになることだって、ケイコが言ってたよな……」
ハルトは自分でも気づかぬうちに声に出してつぶやいていた。そのつぶやきは女性の耳にも届いていた。
「恋だなんて、おませさんなのね、ふふふ。ぼく、好きな子がいるの?」
やはり女性は春風のように言った。すると、ハルトは我にかえり、
「あ、い、いえ。なんでもありません!」
あわててその場をあとにした。
その日の夜のこと――――
ハルトの家族が食卓を囲む一家団欒での一幕である。
スキーをこよなく愛するハルトの母親が、
「ニセコ行きたいわ〜」
と言うと、ハルトは何かに驚いたように身体をビクッとさせ、手に持っていた茶碗を床に落としてしまった。茶碗は割れ、白米が床にこぼれた。
母親の発言中に含まれた連続する二音「コイ」に反応したのだ。
「大丈夫? 怪我はなかった?」
と心配する母親に、「う、うん。大丈夫、だいじょうぶ」と上の空で返事をするハルト。母親は割れた茶碗とこぼれた白米を掃除し、代わりに別の茶碗に同量程度の白米を盛ってくれた。ハルトは焦点がいまいち定まらない目でそれを受け取った。
「そういえばパパ、会社の上司が最近変わったって言ってたじゃない?」
母親が父親に話題を向けた。
「どう? 少しは職場の雰囲気は良くなりそう?」
父親が所属するチームの前の上司は、それはそれは部下使いが悪く、そのくせ自分は何の責任も取らない最悪な上司だった。当然、チームメンバーの士気はだだ下がり、雰囲気は劣悪そのものだった。
ところが、その上司が最近異動となり、空白となったそのポジションに、他部署から異動してきた社員が就任した。これはまたとないチーム好転のチャンスだと、ハルトの家族みんなが一緒になって期待していたわけである。
しかし、父親は苦い顔をして答えた。
「いや〜、前の上司とどっこいどっこいって感じだな。イマイチだよ」
父親の発言にまたも例の二音を鋭く感じとったハルトは、今度は手を卓上で滑らせ、ジュースが入ったグラスを倒してしまった。
「ハルト、大丈夫? どこか、調子悪い?」
心配そうにする母親に、ハルトは生返事を返すだけだった。相変わらず視線は焦点を結ばず、虚空を見つめている。
本気で心配し始める母親に対し、父親は冷静に返した。
「新しいクラスになったばかりで、環境に慣れるために、知らずしらず疲れが出ているんだろ」
そして、とどめにこう付け足した。
「ご飯は途中でいいから、部屋で横になってこい」
ガタガタ、どん!
ハルトは椅子から転げ落ちた。
「これは重症だな……」
父親は困り顔で薄くなり始めた頭部を撫でた。
※
それからしばらく、ハルトは誰にも言えないこの気持ちを抱え悶々とする日々を送った。
しかしあるとき、我慢の限界を迎え、いちばん恋について詳しそうなケイコにこっそり相談したところ、それはきっと、犬ではなくその飼い主の女性に恋をしたのだろうと教えられた。小犬のことを可愛いと思ったのは事実だろうけども、ドキドキする気持ちは間違いなく女性に対するもので、そのふたつの感情が同時に起こったため、ハルトが自分の気持ちを勘違いをしたのだろうという理屈だった。
ハルトはケイコの説明にハッとしたのもつかの間、異性の友達になにかすごく恥ずかしいことを相談しているような気持ちになり(ハルトはこの言葉を知らないが、いわゆる「恋愛相談」である)、本人はわけもわからず赤面するはめになった。
ケイコが最後に言い捨てた「ハルト、かわいい」という言葉がとどめになり、ハルトの顔面は火をふいた。
ハルトがこの日、家に帰って親の持っている分厚い辞書をこっそり拝借し、「恋」について調べたことは、古今東西、誰にも知られることはなかった。
※
恋
①一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。特に、男女間の思慕の情。恋慕。恋愛。
②植物や土地などに寄せる思慕の情。
わけわからん!
(出典:広辞苑、後に追記されたハルトによる注釈、もとい不満)
〈了〉
恋って、なに!? 桐沢もい @kutsu_kakato
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