第220話 終 約束
新幹線、始発、指定席。
ゆいとみさきは、並んで座っていた。
ゆいはピアノコンクールの帰り。
みさきは陸上の全国大会の帰り。
二人は、同じ中学校の制服を着ている。
奇跡的に日程が重なった二人は、前日にホテルで一泊して、翌朝の始発で仲良く帰宅する途中だった。
「……優勝おめでとう」
ゆいは小さな声で祝福した。
「……ん。ゆいも、おめでと」
みさきも同じくらいの声量で祝福を返した。
新幹線に乗ってから三十分、初めての会話だった。
会話が少ないのは、周囲に遠慮しているからではない。いつかのコンクールを境に少しずつ会話が減り、中学生になってからは会う時間も減った。
仲違いしたわけではない。
ゆいはピアノを続け、みさきは陸上を選んだ。
活動時間、場所。
これらが共有できないだけで、同居している姉妹であっても会話時間が減少する。平たく言えば、二人とも少し大人になったということだ。
「外国、ほんとに行くの?」
窓際に姿勢良く座ったゆいは、窓に反射するみさきの横顔を見て言った。
「……ん」
みさきは一言、返事をした。
ゆいは軽く息を吐いて、拗ねたような声を出す。
「……勝ち逃げじゃん」
二人が一度だけ競い合ったコンクール。
結果は、ゆいが二位で、みさきが一位だった。
ゆいは泣いた。
誰も声を掛けられないほど泣き喚いた。
その日から、みさきはピアノに触れていない。
その日から、ゆいはピアノの前で笑わなくなった。
「……ごめんね」
「なにが?」
みさきは消え入りそうな声で謝罪する。
「ゆい、ピアノ、辛そう。みさきのせい」
ゆいは反射的に拳を握り締めた。それから歯を食いしばり、鳥肌が立つほどの激情を抑えて言う。
「……馬鹿にしないで」
きっと小学生の頃なら叫んでいた。ゆいは少し大人になった。感情をコントロール出来る様になった。
「なんで陸上なの」
「りょーくん、走り方、教えてくれた」
「……それだけ?」
「それだけ」
まるで他のことには興味が無いみたいに、みさきは悩むことなく断言した。
「外国で何するの」
「いろいろ」
「いろいろって何」
「……いろいろ」
ゆいは追及をやめた。
本当は、みさきが留学する理由を理解している。
みさきには無限の選択肢がある。どれを選んでも、きっと一番になれる。だから、最も興味が持てるものを探す為に、世界で最も優れた学校へ進学する。
他の誰に教えられなくても、誰よりも長く同じ時間を過ごしたゆいが、一番わかっている。
「……やっぱり勝ち逃げじゃん」
ゆいはみさきに目を向けられない。
なぜなら、ゆいは負けず嫌いだから。
会話が途切れる。静かな新幹線に並んで座る姉妹は、しかし居心地の悪さを隠せない。
伝えたいことがある。
だけど、言葉にできない。
「……ごめんね」
「……謝るならピアノやってよ」
「やらない」
「どうして」
みさきは口を閉じる。上手く伝えられないことが歯痒くて、ギュッと唇を噛む。
「……ごめんね」
「……分かんないよ。何が言いたいの」
「今の、ゆいの、ピアノ、楽しくない」
「うるさいな。昔より好きだよ。楽しいよ」
「でも、笑わない」
「みさきは走ってるとき笑うの?」
言葉を交わす度、ボリュームが上がる。
「笑わないよね。必死で練習してるとき、笑う余裕なんてないよね。ヘラヘラ笑って……勝てるわけない」
ゆいは吐き捨てるような声音で、
「
圧倒的な才能を持ち、負けを知らないという意味の四字熟語。
「……みさきには、分からないよ」
突き放すような言葉を口にして、ゆいの心がチクリと痛む。
本当は分かっている。分かるようになった。
みさきに負けた悔しさをバネに必死に練習した。出場した全てのコンクールで一番になった。直近のコンクールでは始まる前から一番になることを確信していた。
ゆいは誰よりもピアノの練習をした。
少しだけピアノがつまらなくなった。
ゆいのピアノは、みさきの全部だ。
みさきは何をしても一番になる。ゆいが感じるようになった孤独を、あらゆる場面で感じている。
贅沢な悩みだとゆいは思う。
ゆいにあるのはピアノだけだ。他のことをピアノと同じくらい頑張っても、人並みの結果しか出せないと確信している。だから、ピアノをやめられない。
「……なに?」
みさきは、ゆいの袖を掴んだ。
ゆいは相変わらず窓に映るみさきを見ている。
「……一緒に、いく?」
「無理だよ。英語できないもん」
「おしえる」
「行かない」
ゆいは少し強目に手を振った。
しかし、みさきは手をはなさない。
「…………また、コンクール、出たら、どうする」
「私が勝つ」
「……そのあと、どうする」
「それは……」
分からない。
ゆいはみさきに勝ちたい一心で練習をした。それ以前に持っていたはずの何かを捨てて、ひたすら技術を磨いた。
「ゆいは、どうして、ピアノ、弾くの?」
ゆいは口の中が乾くのを感じた。
「……さあ、どうしてだろうね」
みさきに嘘はつけない。直ぐにバレる。
「忘れちゃった」
だから、ゆいは正直に言った。
「……同じ」
みさきは、小さな手にギュッと力を込める。
「……同じ、だよ」
ゆいは、初めてみさきを見た。
直ぐに目があった。それはいつも目にしているはずの、だけどゆいが知らないみさきの顔だった。
ゆいがピアノを弾く理由を忘れてしまったように、みさきも、何も持っていない。
二人には、将来の夢がない。
「以心伝心。それ、私にしか分からないよ」
「……いい。ゆいだけ、分かればいい」
「りょーくんは?」
「りょーくんだよ?」
一言で述べれば殿堂入り。みさきの考えてることがりょーくんに分からないワケないよね? という具合に、少しばかり狂気を感じる反応だった。
ゆいは怖くなって話題を戻す。
「ああああああ」
話題を戻す。
「あああああーもう!」
「……しー。電車」
「うるさい。みさきが悪い」
幼い子供みたいな理不尽を言うゆい。だけど、その様子を見てみさきは少しだけ心が軽くなった。
「じゃあ、競争だね」
「……ん」
ゆいは全部省略してみさきに伝えた。
みさきは瞬時に理解して、頷いた。
ゆいはみさきに小指を差し出す。
みさきは自分の小指を絡ませる。
「絶対負けないから」
「……ん」
みさきは嬉しそうに笑う。
それは、数年振りの仲直りだった。
そして、数年振りの競争の始まりだった。
勝負内容は簡単。
先に将来の夢を見つけた方の勝ち。
「プロになる」
みさきはキョトンとする。
「世界中の人に名前を覚えてもらう」
ゆいは得意げに言う。
「みんなを笑顔にして、作業用BGMの再生数で世界一位になって、教科書にも載る」
ゆいは、とても大きな将来の夢を口にした。
そして、少しだけ大人びた顔で、子供の頃と変わらない笑顔を浮かべて言う。
「私の勝ち」
みさきは口を一の字にする。
「ずるい」
「ずるくない。ゆいちゃん大勝利」
「ずるい」
「はははは、勝った勝った。みさきに勝ったぁ!」
少し大袈裟に喜ぶゆい。みさきはちょっぴりムキになって、ゆいに肩で体当たりした。
ゆいも仕返しする。しかし、非力なゆいが運動部のみさきに勝てるわけがなくて、簡単に押し切られる。
みさきは、そのままゆいの肩に頭を乗せた。
ゆいは、やれやれという様子で溜息を吐いた。
「これで勝ち逃げは出来ないね」
「……ずる」
「そうだよ。だって、お姉ちゃんだから」
ゆいは……ゆいも、みさきに頭を乗せる。
「いつでも帰って来なさい」
「……ん」
そのまま二人は目を閉じた。
まだまだ長い帰り道。二人は一時も離れず――
「そろそろ良い?」
ゆいの声ではない。
みさきの声でもない。
「姉妹でイチャイチャと……はぁ、胸焼けです」
ゆいとみさきは揃って茹で上がる。
「……瑠海、いつから?」
「ずっと。ホテルからずっと」
ゆいはみさきを手で押す。みさきは離れない。
「ちょっとみさき、離れて」
「……や」
「子供みたいなこと言わないでっ、このっ」
瑠海はスマホを構える。
「何してるの?」
「記念撮影。動画だよ」
「やめてやめてっ」
「加工してyoutubeにあげちゃうゾ。はいどーも。みんなのアイドルるみるみでーす」
「ほんとやめてっ」
ギャーギャー騒ぐ三人。
ゆいとみさきの間に、しんみりした空気は似合わない。二人の間に瑠海が加われば姦しい空気は避けられない。
これからもっと大人になって、今より会うことが難しくなっても、みさきが日本に戻らないような未来があるとしても、育まれた絆は決して消えない。
「そういえば、瑠海の夢ってなんだっけ」
諦めてみさきを受け入れたゆいは問う。
「だいたい叶えちゃったからなぁ……」
みさきが少しムスッとする。
直後、瑠海はハッと何かに気が付いた様子で言う。
「ゆいのピアノで歌いたい」
「ほう」
「それで、みさきの会社のテーマソングにする」
「…………かいしゃ?」
そう、と瑠璃は言う。
「みさき、めっちゃ有名な社長になりそう」
「……しゃちょう?」
「うん。みさきならハゲにも勝てるよ。だって髪あるもん。応援してる」
「……ハゲ?」
瑠海はキョトンとするみさきの手を握る。
そして、ゆいにニコッと微笑む。
「……しかたないなー」
三人の手が重なる。
そして、約束をした。
少しだけ大きくなった手を重ねて、約束をした。
急な思い付き。
子供だけの約束。
明日には忘れているかもしれない。
だけど、きっと叶うような気がした。
これからもっと大人になって、異なる道を歩むことになる。それでもきっと、どこかで重なり合う。
ゆいとみさきは、目を合わせて笑う。
瑠海はサッとカメラを構えて、撮影した。
またゆいが文句を言って、瑠海も言葉を返して、騒がしい時間が始まる。目的の駅に着くまでずっと、その先もずっと、彼女達は、騒ぎ続ける。
日刊幼女みさきちゃん! 下城米雪 @MuraGaro
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