第219話 14 エリーゼをふんじゃった
コンクール会場は大きなホールだった。
演奏に合唱、演劇、お笑いなど、近隣の芸能活動を担う場所であり、地元民に名前を伝えれば「ああ、あそこね」となる程度の知名度を誇る。
外装に比べると舞台は狭く、二階席は無い。規則正しく並べられた座席は、全て舞台の中央に向けられている。
舞台中央にはピアノがひとつ。
ピンサスに照らされ主人を待っている。
主人達は、小さな子供だ。どこにでもいる子供だ。しかし彼は、あるいは彼女は、ピアノに触れた瞬間から魔法を使えるようになる。
ピアノに触れることは難しい。
舞台袖から何歩か進むだけなのに、暗闇から注がれる無数の視線が舞台上を満たして、見えない壁として主人達を萎縮させる。
「七番、花江美菜さん」
アナウンスを聞き、少女が舞台に立つ。
必然、出番を待つ者達の緊張感が高まる。
「八番の戸崎ゆいさん、居ますか?」
「おります!」
舞台の外。
スタッフのお姉さんに呼ばれたゆいは、深呼吸をして立ち上がり、背後に向かって人差し指を伸ばす。
「……勝つよ」
半分だけ振り返り、
ライバルの姿を両目に映して、
「みさきに、勝つよ」
ほんの五年前に出会って――これまでの人生の半分を共にした親友に勝負を申し込んだ。
五年前、みさきはゆいより頭ひとつ小さかった。
保育園に転園した小さな少女。ゆいは本当の妹が出来たみたいに、お世話をした。
みさきの成長は規格外だった。
勉強では直ぐに追い抜かれた。身長も、今では大差が無い。もう少しすれば追い抜かれるかもしれない。
運動は叶わない。
家でのお手伝いもダメ。
だけど、ピアノだけは負けない。
結衣が初めてくれたもの。
ゆいが初めて好きになったもの。
だから、ピアノだけは負けられない。
「絶対、勝つよ」
三度宣言をして、ゆいはみさきから目を逸らした。
*
コンクール前日のこと。
教室は異常な空気感に包まれていた。
タッ、タタッ、タタタッ。
授業中、規則正しく机を叩く音が響く。
タタッ、タッ、タッ、タタタッ。
リズムを崩す妨害行為が入ると、即座に消しゴムが飛んでくる。
「…………」
担任、これを黙認。
殺気立つ小学生達を前に完全に萎縮。
「…………」
故に無言。
板書のみで授業を進める。
ゆいvsみさき。
急激に上昇した姉妹対決の熱は当然のように周囲も燃え上がらせ、クラスは真っ二つに割れた。
ゆい派閥。みさき派閥。
教師が一方に所属することは許されず、中立。一方を贔屓することは許されず、息苦しい日々が続いた。
……今日で、終わり。
タタタタ、タンッ!
というのはチョークが黒板を叩いた音。
「週明け、テストをします。コンクールの後はきちんと勉強するように」
チャイムの音が鳴る。
ゆいとみさきは立ち上がり、別々のドアから出た。
二人の後に他の児童達が続く。
それはもう異様な雰囲気だった。
「ゆいさん。本日は二時間の練習をしたのち、ママに子守唄を頼む予定になっております」
「子守唄!? なぜに!?」
「ゆいさんのことですから、本番前日は眠れないことが予測されます」
「なるほど!」
ポンと手を叩いて納得するゆい。
「ふふふ、聞きましたか今の」
「ええ聞きました。まるで、お遊戯ですね」
ピリリと派閥間に電流が走る。
「聞こえたぞ妖怪チーム」
「妖怪ですって?」
「なんでもかんでも一瞬でプロ級になりやがって! 見てろよみさきぃ……バカでも努力すれば才能に勝てるってところを見せてやるからよぉ……!」
えっへんと胸を張るゆい。
バカって言われた気がしないでもないけれど、ボスみたいな扱いは悪くない。ゆいは単純だった。
子供とは思えない迫力のある力強い宣言。これを受け、みさき派閥を代表する女子は上品に微笑する。
「あらあら野蛮ですこと。ボスが子供なら配下は赤子なのかしら。ママのお腹にお戻りになっては?」
「子宮帰還願望はむしろ大人の嗜みだろうが!?」
\ そーだそーだ! ///
\ 意味わかんなーい! ///
ワイワイ騒ぐ両派閥。
「うるさい」
そこに、みさきが一言。
ゆい派閥の児童達は威圧感に声を失う。みさき派閥の児童達は無意識に平伏する。
「……」
みさきは下校を始めた。
ゆいとは一度も目を合わせていない。
廊下の隅。
ピリピリと火花を散らす児童達を入学からずっと見守り続けている先生は、小学生特有の高いアオリティ――煽りの質――に震え、迫り来るみさきから逃げるようにして駆け足で職員室に向かった。
きっと来週には平和になっている。
そんな希望を胸に、彼女は職員室に戻った。
*
最後の晩餐。
ゆいとみさきは食事のタイミングを分けた。
ゆいには龍誠。
みさきには結衣がついた。
今、食卓には結衣と龍誠だけが居る。娘達はピリピリと食事を済ませ、今日は早目に眠ることを選んだ。
「ついに明日ですね」
「ああ、今日まで短いようで長かった。みさきの悔しがる顔を見るのが怖くもあり、楽しみでもある」
トン、と机に箸を置く結衣。
「ありえません」
「……なに?」
結衣はフッと口角を上げ、
「勝つのはみさきです」
「…………は?」
延炎!
ゆいとみさきの熱を受け燃え上がったのは級友だけではない! むしろ結衣と龍誠が先!
「今回のコンクールは如何に楽譜を表現できたか評価されます。気分屋のゆいが勝てるとでも?」
「ああ勝てるとも。ピアノを弾いている時だけは最高にカッコいいからな」
「だけってなんですか!?」
「そこにキレるのかよ!?」
ギャーギャー!
ギャーギャー!
当然、二人の声は寝室まで届く。
…………
みさき、この声を華麗にスルー。みさきの小さな耳は、よく見ると耳栓で塞がれている。この耳栓は、みさきがプレゼント以外で初めて購入したものである。
それほどまでに本気。
嫉妬の感情より爆発した火種は、跡形もなく霧散したかのように思われた。しかし微かに残っていた感情は、ゲームという些細なキッカケで再び燃え上がる。
しかし、そこはみさき。
溢れ出る闘志を内に潜め、眠りについた。
ゆいは普通に寝ていた。
今日は体育の授業があり持久走だったのである。明日は筋肉痛が心配だ。
「……むにゃ……なにか……わすれ……」
子守唄!
ゆいはうっかりスッカリ忘れていたが問題は無い。持久走のおかげでグッスリと眠ることが出来た。
以上。
緊張感のあるような、無いような日常を経て、二人はコンクールが開催されるホールに立った。
別々に家を出発した。
無論、道中に会話は無い。
ホールでは出入り口付近に待機していた級友達から激励の言葉を受けた。ゆいは無邪気に、みさきは静かに想いを受け取った。
なんか、いつも通りだね。
周囲の少し拍子抜けするような視線を背に、ゆいとみさきは控え室に向かった。
ゆいの雰囲気が変わる。
まるで自分の席が決められていたかのように迷わず椅子に座ると、ピッと姿勢良く背筋を伸ばして目を閉じた。
ゆいの小さな両手は、膝を掴んで震えている。それを尻目に、みさきは最も離れた席に腰を下ろした。
控え室には二人以外にも沢山の児童が居る。
ママやパパの記念撮影で疲れてゲッソリしている子、緊張で青い顔をしている子、トイレに行ったり戻ったりを繰り返している子、何も無い場所でエアピアノしている子――そこにあるのは、非日常だった。
練習とは違う本番。
何ヶ月も、もしかしたら何年も続けた練習の成果が一回きりの演奏で評価される時間。控え室の中で緊張するのは、大人も子供も変わらない。
ゆいとみさきは静かに目を閉じていた。
ゆいは思い出す。
練習の日々と、みさきに負け続けた日々。
いつも真剣勝負だった。
みさきは涼しい顔だったけど、ゆいは本気だった。
そして、
「みさきに、勝つよ」
本番が始まった。
拍手を背に舞台を後にするのは、ゆいの直前に演奏していた女の子。
「……なんか騒ついてるな」
一人目の演奏から最前列に座っていた結衣と龍誠。
二人の手元には、軽い荷物だけがある。流石にコンクール会場に赤子を連れ込むワケには行かず、今は信頼できる相手に預けてある。
「今の子、そんなに上手かったのか?」
「いえ、次がゆいだからです」
疑問に思う龍誠。
結衣は顔色ひとつ変えず、
「ゆいはピアノ界隈では有名人です。知りませんでしたか」
「……そうなのか」
コンクールで賞を取ったことは龍誠も知るところではある。しかし、それがどの程度の賞なのか、とか、そういう知識が龍誠には無い。
だが、意識すればするほど会場内の雰囲気が変化しているように感じられる。
……やべぇな。
視線が刺さるという比喩表現がある。
しかし、舞台においては比喩ではない。
文字通り、刺さる。まるで視線が質量を持っているかのように、空間が熱を帯びる。見えない壁となる。
最前列に座っているだけの龍誠の感想である。
ならば、実際に舞台に立つ者はどうか。
ゆいは――
「八番、戸崎ゆいさん」
アナウンスにより、騒ついていた会場が機械の電源を落としたみたいに静まり返る。
トン、という足音がして、少女は姿を現した。
……誰だよ。
思わず呟いたのは、いつもゆいにちょっかいを出していた男子だった。
……あれ、本当にゆいちゃん?
同様にして、数人が目を疑った。
ゆいは普段は目にしないような服装をしている。街中で目にすれば、誰もが振り返るようなドレス姿。
藍色のドレスには、白い刺繍が各所にある。それは照明を受け、まるで夜空の星々のような光を放っていた。
無論、それは錯覚だ。舞台に星が落ちたと錯覚させるほどの存在感が、そこにはあった。
ゆいがピアノに触れる。
そして、一瞬の静寂のあと、演奏を始めた。
ゆいを知る観客はもちろん、他の観客も鳥肌が立った。ただの一音で、それまで演奏した七人とはレベルが違うと分かった。
ピアノの音は、鍵盤の押し方、力加減、そしてペダルを踏むタイミングで繊細に変化する。
ひとつひとつの変化は些細なもので、電子的に作り出すことも可能だ。しかし人間にしか作れない音もある。広いホール会場でしか表現できない音もある。
課題曲は、フランス組曲五番。
ブーレ、ジーグ、サラバンド。
ひとつひとつの演奏難度は低い。だが極限の緊張感の中で異なるリズムの曲を連続して弾くのは難しい。
しかしゆいは、信じられないほど精密な演奏を披露する。見ている方まで楽しくなるような笑顔で、完璧な演奏をした。
あっという間に演奏が終わる。
ゆいが立ち上がる。ゆいが頭を下げる。
会場は心地良い余韻に浸っていた。
しかし、誰かが思い出したかのように手を叩いた。続いて滝のような拍手が生まれた。
それを小さな身体で全て受け止め、額に微かな汗を浮かべたゆいは、笑顔のまま舞台を後にした。
「凄かったな」
至る所で称賛の声が上がる。
「戸崎ゆい、やはり彼女は天才ですね」
審査員の一人がハハハと笑いながら言った。
その言葉にピクリと反応したのは、ゆいを応援に来ていた級友の一人だ。
「よせっ」
「でもっ」
「分かる。俺も一緒だ」
天才。
それは絶対に違うと級友達は知っている。
ゆいは不器用だ。出来ない子だ。
ただ、他人よりちょっと負けず嫌いで、諦めが悪くて、一生懸命なだけ。
「この後に演奏するのは、彼女の妹ですか?」
「おー、妹が居たのですね。これは楽しみだ」
「学年は同じようですが……始めてみますね」
「姉の影響で始めたのかもしれません」
「なるほど。プレッシャーに負けないといいですが」
口々に感想を述べる審査員達。
ゆいとみさきの級友達は、拳を握り締めて耐えた。
みさき派閥は思う。
見てろよ。
ゆい派閥は思う。
次が本当の天才だ。
「九番、戸崎みさきさん」
喧騒は嘘のように息を潜め、再び小さな足音。
みさきのドレスは、ゆいとは反対に白を基調としたものだった。純白のワンピースは、みさきの純真さを強調している。
みさきはゆいと同じようにピアノに触れ、ふと客席に目を向けた。
視線の先には、もちろん龍誠の姿。
事前に場所を把握していたわけではない。感覚で、瞬時に特定した。
ゆいのピアノに対する想いは、とても強い。
しかしみさきにも、負けられない理由がある。
みさきが初めて触れた楽器もまた、ピアノだった。龍誠の為に曲を作り、歌詞も作り、誕生日を祝った。
龍誠の前では、絶対に負けない。
りょーくんの見てるところでは、みさきが一番。
それは絶対に譲れないこと。
みさきの中にある最も大きな感情。
深呼吸ひとつ。
みさきは、指に力を込める。
会場中が唖然とした。
それは、もはや小学生レベルの演奏ではなかった。
世界規模で活躍するプロが演奏しているかのような音。そのうえでコンピュータが指と足を操作しているかのような精密度合い。
みさきは目を閉じている。
不要な情報を遮断して、覚えた動きを再生する。
実は、みさきは練習中、結衣のコネで一度だけプロの演奏を生で目にした。今の演奏は、その影響を強く受けている。だが、コピーではない。
みさきの頭にあるのは5年前に見た光景。
みさきが初めてピアノ知ったときのこと。
みさきが世界で最も大好きな、憧れの光景。
エリーゼをふんじゃった。
今よりずっと小さかったゆいが、届かない指を補う為に披露した、どこかデタラメな、しかし大人顔負けの演奏。
もちろん今のみさきは曲目が間違っていると知っている。記憶から、猫なのかエリーゼなのかもハッキリと理解している。
だけど、記憶は更新されない。みさきの脳裏に焼き付いた映像は、今もまだ鮮明に残っている。
会場の中で気が付いたのは、二人だけ。
ゆいと結衣。
二人はグッと拳を握り締めて、演奏を聞いた。
この日、コンクール会場は大いに盛り上がった。
やがて戸崎姉妹の名は日本中に知れ渡る。
一方で、これは二人の勝負だった。
審査により一位から最下位までの順位が決定され、希望者には入選しなかった場合でも伝えられる。
最下位から三位までにゆいとみさきの名前は無い。
ゆいとみさきは、初めて本気で競い合った。
優劣などない。どちらも素晴らしい演奏だった。親も級友も、二人を誇りに思った。真っ二つに割れていた級友達が一瞬で仲直りするほどだった。
しかし、順位は決められる。
ゆいとみさきは久し振りに互いの目を見た。
そして、同時に順位を確認した。
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