最終話 SAVEPOINT


  ※※※※


 遠野チアキ、という名前を聞いた瞬間、瀧千秋は、ひくっと痙攣した。

 ヒデアキには、話が見えない。

「え?」

「チアキくんでしょ?」とテトラは言った。「名前が変わって、顔が変わっても、声は変わらない。ビデオ越しならともかく、この距離であたしの耳は誤魔化せない」

「くくく」

 瀧は卑屈に笑った。

「藍沢テトラ。今さら、どこの入れ知恵で僕の正体を知った?

 そうやって僕を覚えていたフリをして、動揺を誘う方針なのかな?

 なるほど、たしかに有効な作戦かもしれないね――本当に卑劣な女だよ、お前は」

「覚えてたフリじゃなくて、覚えてたよ」

 そうテトラが言うと、瀧千秋がキッと彼女を睨みつけた。

 この状況にふさわしくない――先ほどまでの狂気ぶりがウソみたいに、彼は、ただ喪失の痛みを抱えた凡人さながらに吠え立てた。


「――ウソをつくな!! 藍沢テトラ!!!!

 お前、お前は、お前って女は、なぁ!!

 お前はウソばっかりだな!! お前の人生にはウソしかないんだよテトラ!!

 お前の人生に、音楽に、本当のことなんかひとつもなかっただろうが!!!!

 ええっ!?

 僕を忘れていたくせに!! 僕のことをなかったことにしたくせにさあっ!!

 あの日々が、お前との日々がどれだけ僕にとって大事だったか分かるのか!?

 ――それをお前がメチャクチャに壊したんだよ、テトラ!! なあッ――!!」

 

 テトラは、瀧千秋から罵倒されながら、ずっと沈黙を守っていた。

 廊下中に響き渡るエアコンのせいで海の音はほとんど聞こえない。

 廊下に窓はないから、美しい夜空の光も差し込んでこない。

 ここにいる三人が三人とも、同時にふと感じる――なんで、自分たちはこんな場所でこんなことをしているんだろう。

「そうだったんだ」と彼女は言った。「そう思ってたんだね、チアキくん」

「なにが言いたい?」

「忘れてなかったよ」

 そうしてテトラは話し始めた。

 両親が喧嘩してばかりの家に、帰りたくなかったこと。

 いじめっ子が幅をきかせる学校にも、居場所なんてなかったこと。

 そんなとき、声をかけて遊び友だちになってくれた「遠野チアキくん」の存在が、本当にありがたかったこと。

 ごちそうしてもらえた安物のアイスを、今でも気に入っていること。

 文化祭のステージで、チアキくんが来てくれるのを待っていたこと。


「でも、ステージからは、チアキくんは見えなかった。もしかして忙しかったのかな、急な用事でも入ったのかなって思って、ずっと悲しかった。

 ――本当はあたしのことなんて、どうでもよかったのかな、って、疑っちゃう自分の気持ちの汚さがイヤだった」


 とテトラは言った。


「そうして、たまたま偉い人に見つかって、デビューしたの。

 忙しくなるとね、公園にもほとんど行けなくなっちゃった。

 あたしのデビューが決まったら、全国をいろいろ回らなくちゃいけなくなって、ホテル暮らしばっかりで、そのあいだに両親は離婚しちゃったみたい。

『歌なんてどうでもいいから、せめて普通の子に生まれてほしかった』ってお母さんには言われて、それからは事件が起きたあともほとんど会ってない。

 お父さんのほうは、心配してくれてるみたいで、ときどき会ったりしたけど、結婚相手に困ってる職場の部下の写真とか見せてきてね――事件のせいでもう歌えないなら『これ』でいいじゃないかって――。

 お父さんが良い人なのは分かってるから断るのも辛かった。

 あたし、こんな脳ミソになる前から、別にまっとうな人間でもなかったんだよ」


 そう言って、テトラは自分の頭を指差した。

「――もともとイカれてるんだと思う。だから、どこにも居場所なんてなかった」

 そして、テトラは瀧千秋をまっすぐ見つめた。


「いつかチアキくんには、お礼を言いたかった。

 だけど、スタジオ収録とかレコーディングが軌道に乗ってプロデューサの八木さんがあたしのワガママを聞いてくれるようになって、自分の家の近くに羽根を伸ばすことができるようになったとき、もうあなたは公園にいなかった。

 テレビでこんな話もできなかったよ。

 だって、迷惑、かけたくなかったし。

 ――でも、だから、だからね、忘れたことはいちどもなかったよ、チアキくん」

 と彼女は言った。

 

 直後に、瀧千秋は、

「ずいぶんと上手い言い訳を思いついたなあ、藍沢テトラ――すごいね、次は役者デビューも目指してみたらどうだい?」

 と、吐き捨てた。

 ナイフをヒデアキの首筋から離して、ひらひらと振りかざす。

 とっさにテトラは歩み寄ろうとして、でも、彼が刃物を再びヒデアキに添えると立ち止まるしかない。


「チアキくん――もうやめて」

「浜辺ヒデアキくんを助けたくて、僕に媚を売っているのか。

 無様だなあ。

 そんなにこのガキが大事か。ああ、まあ、女性は適齢期を過ぎると妙に若い男の子が好きになる層も一定数いるみたいだから、恥ずかしがることはないよ。自分がみっともないショタコンって自覚はあるんだろ?

 だけど、その程度の媚態で僕が満足するかな?

 本気でこのクソガキを助けたいなら、今、この場で、一枚ずつ服を脱いで、生まれたままの姿になってみろ。

 テトラ。お前の醜い功名心を全て曝け出せよ。

 ヒデアキくんのことが本当に大事ならできるはずだよ?」

 彼がそう言うと、一瞬だけ藍沢テトラの眼に本気で軽蔑の色が燃えた。が、それをすぐに抑制すると、

「――分かった。言うとおりにする」

 そう言って、テトラはまず上着を床に捨てた。


「ダメだ!」

 とヒデアキは叫んだ。

「テトラさん! こいつは、テトラさんがなにをやってもなにも感じない! なにを言ったって心を改めたりなんかしない! もうなにもかもコイツは手遅れなんだ! どうせ俺たちのこと二人とも始末する気だ!」

 ヒデアキは怒鳴り続ける。

「逃げろ! テトラさん、逃げて、逃げてください!」

 そんな彼の懇願に、瀧千秋は口笛を吹いた。

 ひゅ~、という、美しい音色。

「泣かせるねえ?

『恋人の俺だけ生贄になります!』というわけさ!?

 ハハハ! 感動的じゃないか!

 なあ藍沢テトラ、彼氏くんの気持ちを汲んで逃げないのか?

 せっかくこんな風に彼がカッコつけているんだよ? ほら、いつもみたいに悲劇のヒロインぶって涙ながらに駆けずり回ったらどうだ!? 美術館ではそうしたんだよなあ!?」

 

 それに対して、テトラは首を横に振る。

 そのあとの視線は瀧千秋ではなく、ヒデアキに注がれていた。


「ごめんね。逃げない。これは、あたしの問題だから」


 ――あたしが、怒りも、悲しみも、色んな人に押しつけて逃げてきた。

 そのせいで、音楽の歓びも、歌う楽しみも取り逃がし続けてきたんだ。

 あたしは、今日、決着をつけたい。

 あたしのことも、チアキくんとのことも。

 だって。

 奪われたものは、どんな形であっても取り戻さなくちゃいけないから。


 そう言った。

 それから、ふっと笑った。

 瀧千秋は、彼女の笑みの意味が分からず、ただ戸惑った様子だった。

 そうして――透明な涙をポロポロと零していた。

「立派だね――?」と瀧千秋は呟く。

「お前だけ、お前だけ周囲に恵まれて立派な人間になれたんだよ。お前だけ、優れた環境のおかげで醜い復讐心に心を焼かれずに済んだんだ。素晴らしいね。反吐が出るよ。お前がどれだけ自分のことを不幸と思い込んでいようとも、それってさあ、弱者から妬まれて首をギロチンに跳ねられる腐った特権階級であることに変わりはないんだぜ。それは分かってるのか?

 ――なんでお前だけ。

 僕を置き去りにして。

 良い人間に――なあ、良い人間に――!

 勝手に、良い奴になってんじゃねえよ! テトラ!!」

 そんな彼の糾弾に、テトラは落ち着き払っている。

「昔のチアキくんも、優しかったよ。優しかったチアキくんに、戻ろう? そうして、罪を償うの」

「ああ? 僕が優しかったことなんか、いちどもない。どうしたの? 今度は泣き落としか? だんだんワンパターンになってきたぞ、テトラ。かつての詐欺的な作詞能力はどうしたんだ? みんながお前のゴミみたいな歌に騙されて印税生活を支えてやってたっていうのに失望させちゃダメだろ?

 僕がお前に親切にしていたのは、お前があまりに美しくて、僕の心を癒してくれたからさ。つまり、ただの僕のエゴだ。

 だから見返りだってほしかった――それをお前が寄越さないのが悪いんだよ!!」


「キャッチボール、楽しかったよ。チアキくん」

「――え?」

「ストーカー事件で、重傷を負ったあと、リハビリが必要だったから。

 スタッフの人とか、バックバンドの人たちと、よく病院でボールを投げ合ってたんだ。

 でも、いま思うとちょっと皮肉だよね。

 だって、あなたから貰った宝物で、あなたから受けた傷を癒してたんだもの」

「――やめろ。おい、やめろ、

 もう喋るな」

「正気に戻って、チアキくん。そして、ヒデアキくんを解放して」

「正気だって?」

 と瀧千秋の顔が歪んだ。

「僕は生まれたときから狂ってるんだよ。僕を生んだ雌犬からして狂ってたんだ。

 おいおい、参っちゃうなあ――いい話みたいにするのはよしてくれよ。

 僕がどれだけ壊れてるか、今度、僕の部屋を見せてあげたいくらいだ。

 なあ、僕の暗い寝室には、藍沢テトラの写真が何枚貼られてると思う?

 僕はね、いつもお前に見つめられながら眠るんだよ。

 そうじゃないと、母親に傷つけられた過去を夢に見て、目を覚ましてしまうからね。

 そして、自分の本当の痛みを思い出しそうになったら、僕は、お前がテレビのステージで錯乱した録画を何回も再生して心を落ち着けるんだ――すごく心地いいんだよ、お前の惨めな悲鳴がさ――」

 

 くく、くくく――。と、瀧は笑った。


「『虐げられる側になりたくないなら、この世界、虐げる側に回るしかない』んだ。

 僕は母さんに虐げられるか弱い子供じゃない。女の格好をさせられて去勢される哀れななんかじゃないんだ。

 僕は、そんな僕になるくらいなら、お前を苦しめ続ける腐ったストーカーでいたいのさ」

 テトラは動きを止めた。瀧千秋も黙った。


『虐げられる側になりたくないなら、この世界、虐げる側に回るしかない』

 それは、本音を誰にも吐いたことのない瀧千秋が、自分の女である凛と時雨と聖里伽に対してだけは心から伝えた、たったひとつの教訓だった。


 二人はただ向かい合った。もはや、没交渉は明白だった。

「もういちどお願いするね」とテトラは言った。

「ヒデアキくんを解放して。彼を傷つけるくらいなら、あたしを傷つけて」

「ハッ。できない相談だ。僕はお前の言うことだけは絶対に聞きたくない」

「――そうなんだ」


 次の瞬間。

 テトラの表情が変わった。

 じゃあ、しょうがねえな、面倒くせえ、というような顔だった。

「『理非なき時は鼓を鳴らし攻めて可なり』」

 ――え?

 ヒデアキが呆然とし、瀧が戸惑っている最中に、正反対の方向から、


「手を挙げろ!! 瀧センシュウ!! お前はもう終わりだ!!!!」

 と、女の怒鳴り声が聞こえた。


 瀧千秋がそちらを振り向くと、黒髪のミディアムボブの、シンプルなスーツに身を包んだ女がリボルバーを向けてそこに立っていた。

 元刑事の黒井サワコだ。

 ――挟み撃ちか?

 瀧が舌打ちをしたそのとき、今度は、


 ゴッ、という、強い力で床を蹴る音がした。

 ――え?

 瀧が再びテトラのほうを向いたとき、

 テトラの姿は消えていた。

 いや、消えたわけではない。

 壁伝いに走る彼女が、天井を蹴りながら彼の顔面に降りてきていた。

「は――!?」

 声を漏らす瀧の顔面にテトラは回し蹴りを当て、数メートル先に吹き飛ばしながら、自分はヒデアキのすぐそばに着地した。

 彼女は立ち上がる。

「立てよ、センシュウ」とテトラは言う。「薬で痛覚もトバしてんだろ? なら、関係ないくらいにツブしてやる」

 口調が違う。

 ――モノオさん?

 そうヒデアキが思い至るのとほぼ同時に、テトラは彼のほうを振り返った。

「終わったら、すぐに病院に行こうね。ちょっと待っててね?

 ――右目、ごめんね?」

 その顔を、ヒデアキは忘れない。

 ――片方の瞳は、たしかにテトラさんの、真っ暗な目だ。でも、もう片方は違った。真っ赤に、炎のように燃えている。

 これは、モノオさんの瞳だ。

 きっと、モノオさんの魂も、トリィさんと同じようにテトラさんのもとに帰ったんだ。

 だから、今はテトラさんのままでモノオさんの力を――その暴力を引き出せる。

「――く、そっ」

 と言いながら、瀧が慌てて起き上がろうとした瞬間に、

 その顔面はテトラの拳に殴り倒されていた。

 歯が数本抜けて、血反吐とともに、その場に飛び散っていく。

 有無を言わさない暴力だった。痛みを感じないというなら、脳を揺らして動きそのものを鈍らせて、トドメを刺してやる。

 そういう感じだった。

「あたしのことを責めたいなら、いくらでも責めてくれていい――弁解はしない、でも」

 とテトラは言った。

 それから、自分のこめかみをコンコンと指で叩く。


「あたしの、オレの、私の――ヒデアキを傷つける、テメエは――ここからいなくなれ、クズ野郎!!」


 右拳。べきり、と音を立ててセンシュウの下顎が頭蓋骨から外れる。ブチブチと、上顎と下顎を繋ぐ筋肉が剥がれ、血が飛び散る。

 左拳。頬骨にヒビが入り、鼻の軟骨が砕ける。彼に施されていたささやかな整形のための液体が、その鼻孔から鮮血とともに流れ落ちる。

 みぞおちを左の膝で突き上げる。べき、べき、べき――と、肋骨が体の内側に向かって折れて内臓を傷つける。

「がはっ!」

 そんな風に、やっと真っ赤な血を吐いた瀧千秋の、

 そのグラグラに外れかけた顎を、今度はかかとで蹴り上げた。力の勢いに任せて、彼はほとんど意識を失いながら直立不動になる。

 藍沢テトラは――トリィと、ジーイと、モノオも――息を吸って腰を下ろすと、


「ああああああああッ!!!!」


 そんな怒鳴り声とともに、最後の顔面ストレートで、瀧を完全に打ち倒した。

 ――それが、一連の連続通り魔殺人事件が終わった瞬間だった。


  ※※※※


 藍沢テトラが、瀧とヒデアキのいるホテルに辿り着く数分前の会話。

「オレもテトラのところに帰る」とモノオが言った。

 テトラは振り返る。

 そこに、全く同じ容姿の自分自身――ただ、別の人格を持った存在である、モノオが立っていた。

「オレはお前の怒りと、憎しみそのものだ。でも、これが終われば、お前はなにも憎まなくていい。なににも怒らなくていいんだ。だから、もうオレは要らなくなる。オレは消えたほうがいいだろ」

「モノオ――」

「悪かったな。お前を守るつもりで、余計なこともしたかもしれねえから。ま、お前自身の産物ってことで諦めるんだな?」

 そう言ってモノオは笑った。

 それに対して、テトラは、

「違うよ」と答えた。

「あたし自身が憎んで、あたし自身が怒るべきだったんだと思う。そのなかで自分の感情を清算して、前に進むべきだったんだ。

 それをモノオに押しつけて、閉じ込めて、立ち止まってたの。ジーイに対しても、トリィに対しても、あたしは、駄目だった。

 だからモノオは、消えるんじゃないくて、なんていうか、さ。

 ――これからは、あたしといっしょに、考えよう? この気持ちを、どうやって克服していけばいいのか」

「――そうかよ」

 モノオは頷いてから、頭をボサボサとかき、

「ヒデアキによろしくな。オレもあいつが気に入った」

 と言った。

 そして、すぐ後ろにいるジーイに「お前はどうする?」と呼びかけた。

「トリィは気が早えから先に行っちまった。オレも、テトラのところに帰るよ。

 別に怖かないぜ。

 あらゆる生物は進化の渦に取り込まれて、個体としての活動を終える。

 それと同じだ。それだけだ。

 ――死はただの自然現象だ。

 幸せだったり不幸だったりは、もっと、デカい流れのほうにあんのさ」

「あたし、は」

 ジーイはもじもじとしてから、テトラとモノオを交互に見つめると、最後に、

「モノオに付いてくよ」

 と言った。

「オレに? なんで?」

「モノオは、乱暴だったり、怒りっぽかったりしたけど、すごく怖かったけど、でも、本当はみんなのなかでみんなのことをいちばん思ってるって、大切にしてるって、あたしはずっと知ってたよ。

 だからね、モノオといっしょに行って、モノオといっしょにヒデアキくんを見ていられるなら、寂しくないって、そう思うんだ?」

「――そうかよ」


 不意に、テトラが両手を広げる。

 その左手をモノオが、右手をジーイが掴んだ。

「ひとつの心に帰ろう」とテトラは囁いた。「ふたりの力を、あたしに貸してほしい」

 あたしたちのことを助けてくれるヒデアキくんのことを、助けにいこう。

 守ってもらってばっかりは、やっぱりダメなんだよ。

 もうちょっとくらい、またお姉さんぶってみようよ。

 彼女は、そう言った。


  ※※※※


 そして、現在。

 瀧は気絶して、もう動かない。

 テトラのほうも早めの活動限界が来て、その場に崩れ落ちた。

 静寂。

 数分後、沖田レインがエレベーターから現れた。

 状況を把握したレインは、まずヒデアキのそばにしゃがんで容態を確かめる。

「命に別状はないね」とレインは言った。「相手をすぐに屠らず、長くいたぶる瀧の趣味が幸いしたんだな。これなら数時間ほっといてもいいくらいさ。まずは病院へと運ぼう。あとは那覇からの老夫婦がなんとかしてくれるよ」

「――沖縄支店の?」

 ヒデアキが訊くと、沖田レインは微笑んだ。

「八木さんには色々な知り合いがいるということさ。君は知らなくていい」

 そうして、今度は藍沢テトラに歩み寄った。

「もう歩けないなら、今から来るジュンギに――僕の部下に運ばせますよ、テトラ先輩」

「――うん、ごめんね。ありがと」

 次に黒井サワコに「お手柄だねえ?」と軽口を叩いた。彼女はフンと鼻を鳴らす。

 そうして最後に、レインは横たわる瀧千秋に近寄ると、脈と呼吸を指で確かめた。

「まだ息がありますよ、テトラ先輩。

 つまり、あなたはこの人を殺していないということになります。

 なので、今から起こることについて責任を感じる必要はありません。気に病まないでくださいね?」

 直後、

 レインは直立すると、男装用のスーツから取り出したリボルバー(スタールガーのブラックホークだ)を数発ほど立て続けに撃って、瀧千秋の顔面を完全に粉砕した。

 血が飛び散り、脳漿が噴き出し、眼球が破裂すると、砕かれた骨の破片がホテルの壁にパラパラとぶつかって音を立てる。

 絶命。


「――僕の親友を傷つけたら、どうなるか分かったか」


 とレインは言った。その顔は暗黒に染まっていた。

「《帝国》の王に逆らう者は、みんなこうなるんだ」


 こうして、久米島の長い一夜が終わった。

 ヒデアキとテトラは病院に運ばれ、死体は老夫婦の派遣したスタッフに処理される。おそらく、瀧千秋たちは、表向きには永遠に行方不明ということになるだろう。

 ヒデアキとテトラの運搬を手伝っていたジュンギが、沖田レインのそばに寄る。

 彼はウィンストンを咥えた。

 レインも同じ銘柄だ。互いに火を付け合う。

 ――ジュンギの傍らには、一人の少女が横たわっていた。時雨という名前の女の子で、彼が始末したらしい。彼女も「凛」や「聖里伽」と呼ばれた他の子たちと同じように、闇に葬られることになる。

 少し離れたところで、黒井サワコもピースを吸っていた。

「済まなかったね」とレインは言った。「随分とこちら側にも犠牲が出た」

「気にしなくていいですよ」とジュンギは答える。

「そういう仕事ですし、それに、あなたが知らないだけで、俺はもっとヤバい死線をいくらでもくぐり抜けてきた。ただ、あいつらは今日が寿命だったってことです」

「そうかい?」

「こんなことは、これからいくらでもありますよ」

 ジュンギは、そう言うとレインに真剣な表情で向き直った。

「もっと人の死に対してタフになって下さい。そうでなければ困ります」

「善処するよ」

 レインは、ジュンギが額から血を流しているのを見た。

「君も怪我をしているねえ? その女の子はそんなに強かったのか? それともまさか洗脳された人形を、みんな峰打ちで済ませようとしたのか?」

「両方です」

 ――だって、良い島じゃないですか。ここは。ずっと平和であるべきですから。

 そうジュンギは答えた。その表情に、レインは少し感心した。


 どんな土地にも固有の呪いがあり、どんな人間にも個別の恨みがある。世界は、どれだけ時間を経ても、その全てを癒すことはできないのだろう。いや、却ってその痛みは蓄積されていくかもしれない。

 でも、祈りはある。誰かに幸せでいてほしいという祈りなら。

 そういう祈りの総体を、《僕》たちは「音楽」と呼んでいる。


 そんなとき、レインのスマートフォンに連絡が入る。

「もしもし」

『あ、レインさん!?』と声がした。トワの女のひとり、仕切り屋のミンミだ。

『トワ様が、目を覚ましたよ。リハビリは必要だけど、音楽活動もいつか、ちゃんと元通りにできるようになるってお医者さんが言ってた! ねえ、レインさん、トワ様が無事だったよ!』

 ミンミは涙声だった。たぶん、他の女たちもそうだろうなと思った。

「それはよかった。休暇ができたら、すぐに見舞いに行くとするかな」

『よかった、よかったよお! 本当に、トワ様も、レインさんもお!』

「――え、僕?」

『だってえ、だって、すごい思い詰めてて、いつも怖い顔してたんだからあ――』

「ははは。大袈裟だなあ」とレインは笑った。

 自分が泣いていることを、自覚していない。

 ジュンギだけがそれを黙って見つめていた。

「またみんなでごはんでも食べようよ。――うん、それじゃね?」

 そう言って電話を切り、レインは再びジュンギに振り返る。

「僕の親友のほうは一命を取りとめたそうだ。まったく世話が焼けるよ。憎まれっこ世にはばかるって言うべきかな」

 そのとき、夜が明けた。

 太陽が群青の向こうから昇って、世界そのものを、明るく照らしていった。

 こういう朝焼けを迎えてみると、ニライカナイの神話を信じたかつての人々の気持ちが分かる気もする。全ての人間の魂は海に導かれて光とともに消えていくのだ。

 美しいメドゥーサに魅入られたように二人は動きを止め、その恒星を眺めていた。

 エヴリアリ。

 その向こう側で報われた人間は何人いただろう?

 こちら側で幸せになれる人間は何人いるだろう?

「レインさん、涙を拭いてくれ」とジュンギが言うと、沖田レインは初めて、自分が泣き続けていることに気がづいた。

「おや、参ったな。ははは――」

 そう笑おうとしたらしいが、

 やっと耐えられなくなって、

「は――あ、ああ、あああ、ひっ、あ、く、ああああああ――!!」

 と泣き崩れ、ジュンギに抱き止められた。

「おい、王様、俺は言ったぞ?」とジュンギは呆れる。「もっと人の命にタフになれ」

「だ、だって、だっ、だってえ――!」とレインは泣きじゃくる。

 もう子供みたいだ。

《えーんえーん》って喚いてるガキだ。

「ぼ、僕のせいで、トワが、酷い目に遭って、だから、僕が、トワを――うう、す、あ、死なせちゃうんじゃないかって、え――怖くて――ええええ!!」

「おいおい」

 これが無慈悲な作戦を立てる大将のツラか?

 ジュンギはレインの頭を撫でた。

 ――なあ、ペギン、スンハ。

 俺たちの新しい王様はとんでもない泣き虫みたいだぜ。これ、まさか、俺ひとりで面倒見るんじゃないだろうな?

 お前ら、物事が面倒になる前に勝手に死にやがって。油断しすぎなんだよ。

 ジュンギはそう思い、ただ、

 ――まあ、お前の女のサランはちゃんと追いかけに行ったぜ、ペギン。あの世のデートはちゃんと楽しませてやれよ?

 そんな感じで、ほんの少しだけ笑えた。

「トワ――ああああ!!」とレインは泣きじゃくり続けていた。

 きっと、ずっと、こうやって、泣きたかったのだろう。しょうがねえヤツだ。

 しょうがねえヤツだ、という言葉は、最大限の親愛の表現だ。

「僕を、許してぇ、う、ううう――トワ、生きてて、よかっ、よ、良かった――!」

「ああ、そうだな」とジュンギは言う。

「よしよし、王様。泣きやんだら、明日が来るぜ」

 

 こうして、太陽が完全に昇った。

 ――その日、八木啓音楽事業部本部長が、裏の顔から撤退を決めた。

 つまりはそのとき、沖田レインは新しい《帝国》の王の座についたわけだが、新しい王政の幕開けが、まさか、親友のためにベソかいてる場面なんて――なあ?


  ※※※※


 さて、《僕》が語り部となっていたこの物語も、そろそろ終わりだ。

 だから、最初の問いに帰ろう。《僕》はかつて、こう書いた。


「これは、かつて歌声を奪われた少女が、自分の歌を取り戻そうとする物語だ。

 もちろん結局なにも取り返せないかもしれない。取り返すまでの過程で失うものが、得るものよりも多いかもしれない。いずれにせよ犠牲になった十数年は帰らない。だから、最初からなにもしなければよかった、という結論に収まっても《僕》は反論をしないだろう」


 ――どうだろう。

 ときどき思い返すことがある。もし、2月1日(火)のあの日に浜辺ヒデアキが藍沢テトラと出会わなかったら?

 いや、出会ったとして、無視したり、粛々と警察に連絡したりしていたら――?

 全ては《たられば》だ。

 でも、いいかい。

《たられば》を考えることは、他者を愛することと同じだ。

 もし浜辺ヒデアキが藍沢テトラと出会っていなければ、彼は、たぶん柿ノ木キョウカに振られた傷心をどこかのタイミングで伊角タエコに癒され、または、もっと数年後に別の女の子に慰められ、その後は普通の人生を送ったかもしれない。

 藍沢テトラのほうはズルズルと音楽業界に残り続けたとしても、あるいは、執筆業のほうでハネて新しい生き甲斐を見つけたかもしれない。

 それに比べて、どうだろう。

 浜辺ヒデアキ藍沢がテトラを拾って、彼女の歌を聴いて、乃木坂の新国立美術館に行ったから二月の惨劇が起きたんだ。

 彼の言葉に心を動かされて、横浜の合同ライブで復帰することを決めたから、三月の虐殺が発生したんだ。

 そして、この四月、とうとう沖縄県の久米島でも殺戮が起きた。

 よく考えてみれば、柿ノ木キョウカというお嬢さんも傷ついた。

 もしかしたら、瀧千秋は、もっと穏当な方法で始末されたかもしれない。

 その場合、キョウカはこんな風に彼の裏切りに気づかされて酷く心を痛めたりはしなかっただろう。

 もちろんだけど、悪いのは瀧千秋であって、テトラに責任があると言いたいわけでは決してないんだ。

 でも、考えてほしい。

 

 ――藍沢テトラは、かつて、十年以上前に奪われた自分の歌声を取り戻そうとしてよかったんだろうか?


 その答えは、もう《僕》は書かない。答えはそれぞれに委ねたほうがいいし、《僕》自身の答えも、たぶん分かっていると思う。

 だから、ちょいとしたエピローグと蛇足を添えて、この物語を締めくくることにしよう。


  ※※※※


 2022年9月30日(金)09:00

 季節が巡り、秋になった。

 ヒデアキはシャワーから出ると、服を着て、黒の眼帯を右目部分に当てた。あれから、左目だけの生活にもだいぶ慣れることができた。

 ただひとつの救いは、左目だけの視力で審査を突破したおかげで、自動車免許の取得には困らなかったということだ。

 今日は、休学を取り下げたあとW大秋期の始まりの日だった。

 ちょうど藍沢テトラと出発時間が同じだということで、いっしょに出ようという話になっていた。

 ――二人は、今は阿佐ヶ谷の大きな部屋を引き払い、もう少しこじんまりとした飯田橋のマンションでいっしょに暮らしている。

 2LDKの良いとこだ。

 もう、四つの部屋は必要なくなっていた。

 ――もちろん、完全に回復したというわけではない。今まで別の人格に感情を押しつけていた藍沢テトラは、悪夢にうなされることもあるし、まっとうなカウンセラーのもとに定期的に通わなければならなくなった。

 ある意味では、彼女の本当の戦いはこれからなのだ。

 本当ならば、ヒデアキはすぐにでもマイヤーズミュージックに用意されたテトラのための仕事に打ち込みたかったのだが、彼女に、

「だめ、大学はちゃんと出なさい」

 と叱られてしまったので、今後は予定が空いた日に仕事をしながらゼミと講義に出席する日々を送ることになった。

「じゃ、行きましょう、テトラさん」

「うん」

 テトラは外に出て玄関の鍵を閉めてから、彼の手を握った。テトラが右側だ。ヒデアキには右目がもうないから彼女がそちらに立ち、見張ってあげなくちゃいけない、と彼女は考えていた。

 本当は別にそんなことしなくてもいいんだけど。

 ――でも、そういう行動でテトラさんが俺の目について後ろめたくならないなら、それでいいとヒデアキは思った。

 で、

「今日は、どんな仕事なんですか?」

「雑誌の対談みたい。

 ほら、前のライブで柊タスクくんっていたでしょ? 彼が色んな女性アーティストと音楽の話とかをするっていうちょっと変わった企画があってね――」

「――へえ?」

「彼って、女性恐怖症なんだけど、そういうの乗り越えたいって。

 雑誌とかレコード会社は面白がって扱ってるみたいなんだけど、あたしは、そういうの笑いたくないよ。

 立派だよね?」

「いいですね、なんか、そういうの」

「ね?」

 テトラは微笑んで歩いていく。ヒデアキもそれに付いていく。

 ――新曲『エヴリアリの群青』は、ブランクの長いアーティストにしては、まあ、大いに不満がある、というほどではない程度のセールスを上げ、彼女は、ささやかにキャリアを再スタートさせていた。

 音楽批評家からの主な評価は、基本、あんまり芳しくない。「さんざん待たせたあげくこれか?」だとか、「長いブランクのなかでアイデアを溜め込みすぎたのだろう。複数のジャンルやモチーフを行ったり来たりして、統一感に欠けている」だとか、「かつて天才少女だった一人の歌姫は邦楽界の浦島太郎になってしまった」だとか。

「犯罪の被害には同情するが、二度目の輝きは来ない」だとか。

 そういう評価を受けながらも、古参のリスナーや、あるいは目耳の鋭い若い聴き手たちにチマチマと売れていた。

 ――そしてその音楽批評家たちのリストのなかに、新進気鋭の評論家である瀧千秋の名前はどこにもなかった。

 彼は世間的には行方不明のままで、忘れ去られようとしていた。

 覚えているのは、テトラを含む数人だけになるのかもしれない。

「そういえば」とテトラは言った。「久米島観光で、行きそびれたところがあったの」

「そうなんですか?」

「『ミーフガー』っていうの。――そこでお祈りすると、子宝に恵まれるんだって?」

「えっ、こだっ!?」

 ヒデアキは真っ赤になる。

 テトラは、それを見てくすくす笑った。

「もお、ヒデアキくん」

 テトラは、じっとヒデアキを見つめる。

 その瞳にはかつてのモノオさんの心も、トリィさんの心も、ジーイさんの心も、今度こそぜんぶ含まれているみたいだった。


「ヒデアキくん、やっぱちょっとエッチだよね?」

「――テトラさんにだけですよ、俺がエロなのは」

「ふふ」


 なら、いいかな。許します。


 そう彼女は言って、歩いていた。ヒデアキも、その隣を歩いている。少し、肩が触れ合ったりもする。

 この世界に、二人で生きている。

 二人で幸せになる。

 ――俺はテトラさんと幸せになりたい。

 もしテトラさんと幸せになれないなら、不幸なままでも別にいい。

 そう思える自分がヒデアキは嬉しくて、新緑の太陽が眩しかった。

「ああ、そのミーフガーなんだけど、さ」

 とテトラは言った。

「ヒデアキくんは、赤ちゃん、ほしい?」


  ※※※※


 9月30日(金)09:30

 キョウカは朴セツナのアルバムを聴きながら、電車を降りて駅のロータリーに向かった。そこには、実物の朴セツナがスマートフォンをいじりながら待っている。真っ白に染めた長髪と、蛍光色が目に痛いファッション。いつもどおりだ。

 ――今日はシンガーソングライターとしてのセツナではなく、キョウカの親友としてのセツナだった。

「お待たせ」

「ういうい、ほんじゃ行きまっか」

 セツナは笑ってキョウカの手を取ると、歩き出した。

「お昼ごはんどうする?」とキョウカが訊くと、

「あ、ごめん、駅ナカの立ち食いそば屋で食っちった」

 とセツナは目をそらした。

「ああいうところ、ひとりで入れるの?」

「ええっ、キョウカ食べたことないの?」

「おそばなら他にも美味しいところいっぱいあるし、なんか、ああいうお店って男の人が多くて――」

「へへへ、キョウカはビビりですなあ~」

「び、ビビッてないし!」

「今度連れてってやるよ、そしたら怖くねえじゃん」

 セツナはキョウカの手を握ったまま、半歩だけ前の隣を歩いている。

 歩いてくれている。

 ――あの日からセツナはときどきこうやってキョウカを外に連れ出して、少しずつ、日常に戻そうとしてくれていた。キョウカがまだ世界を怖がっているのを知っているから、ちゃんと手を握ってくれている。

 仕事で忙しいはずなのに。

 でも、そのおかげで、休学は半期だけで済みそうだった。秋期からはまた、講義にもゼミにも出るだろう。


 批評雑誌『アルキメデス』にも詫びの電話を入れた。

 電話先の編集長は《助かるよお!》と大声を出した。

《ほら、瀧くんが事件に巻き込まれて行方不明になっちゃったでしょ? そのせいで編集委員も欠けちゃって今すげえ大変なんだから! 彼、ああ見えて一人で三人分くらい働いてくれてたからさあ!》

「そ、そうなんですか」

《インタビューとかも、相手のアーティストからの評判すげえ良くって最高だったんだよなあ! 表現者に対する思いやりっていうかな、そういう文章を書かせたら批評家としてはナンバーワンだったと思うよ、俺、今でも! まあ、それでグサグサやられてるバンドもあるらしいけど》

「はい」

 キョウカが曖昧な言葉を返していると、不意に、編集長は声のトーンを落とした。

《――瀧くんがなにをやったっていうんだよ。そりゃ、人付き合いはちょっと悪かったかもしんないけど、アイツが本当は良い奴だなんてことは文章を見りゃ分かるんだ。あんな事件に巻き込まれていい人間じゃないんだよ。

 俺さあ、あの連続通り魔殺人事件だっけ? あの黒幕まだ見つかってないみたいだけど、死ぬまで許せないと思う。死刑だよ死刑、あんなの》

「――そう、ですね」

 キョウカは顎をぐっと引いて、泣き喚きたくなるのをこらえた。

「――センシュウ兄さんは、私にもよくしてくれました。優しい人でした」

 そう言って、本当のことは黙る。たぶん、このことは、生きている間は誰にも言えない秘密になるのだろう。

 余計な真実を伝えて、瀧千秋という人間を信じていた編集長のような人を傷つける必要はない。

 そんな風に傷つくのは私だけで充分だ、と思った。

《ごめんね、キョウカちゃんのほうが辛いか》

 と編集長は落ち着いて、それから、

《瀧くんに頼まれてたんだよ。もしも人手不足なら、柿ノ木キョウカという書き手は今後も良いものを書くから、紙面と、立場を与えてやってくれって》

 と切り出した。

「え?」

《大学卒業したら、うちに来ないか? 経験者扱いだ。編集委員の立場は今からでもお願いしたいし、瀧くんの連載枠も空いちゃったからなんか書いてほしいんだけど――》

 こうして柿ノ木キョウカは、あっさりと、新進気鋭の批評家としてのステップアップを決めてしまった。


 キョウカはそんなことを思い出しながら、セツナの背中を見つめた。

「セツナ、ありがと」

 と小声で呟くと、ちゃんと聞いていた彼女は振り返る。

「友達じゃん、当たり前」


  ※※※※


 9月30日(金)10:00

 タエコは新しい彼氏と街を歩きながら、藍沢テトラ新曲の街頭広告に気づき、少しだけ寂しいと感じた。

「どうした?」

 と彼氏がタエコの顔色を覗き込み、彼女の視線をたどって同じ広告に気づいた。

「おお~、誰だっけ? 音楽じゃん、音楽」

「うん」

「タエコ、ああいうの好きなん?」

「ちょっとね」

「ふうん」

 彼氏は「オレ音楽のことサッパリだわ~」みたいなことをボヤいたあと、

「タエコのオススメ教えてくれよ。したら聴くわ」

「ほんと?」

「そりゃ聴くでしょ。オレ、タエコにガチ恋だし」

「あはは、なにそれ」

 気の抜けた会話をしていると、彼氏が不意に、「自分で曲をつくって、歌を歌って、みんなに聴いてもらうってどんなヤツらなんだろな」と言った。

「やっぱ、生きてる世界も違うのかね? 見えてるもんっていうか、オレたちとは違うんだろうな色々」

「違わないんじゃない?」

「え?」

「案外、会ってみたら普通の人だったりするよ、きっと」

 タエコはそう答えると、あの日のアヲイやテトラやハジメさんの姿を思い出して、やっぱりちょっと寂しいと思った。

 でも、

 ――有名な歌姫がライバルなんだからどうせ敵わないよ。

 とは、感じなかった。

 ちゃんと悔しくて、ちゃんとヒデアキに失恋できたのだと今は思う。

 昔だったら、そうじゃなかったかもしれない。

「そういうもんかね」

 と彼氏は言って、それから、タエコにしっかりと優しい顔を向けた。

「タエコがそう言うなら、そうなんだな」


  ※※※※


 9月30日(金)10:30

 ハスタとチヨコはネットカフェの個室で、アヲイ主演映画の公開日を検索していた。

「うわ、すご、マジで出る系じゃん」

「予告もあるぜ。見てみる?」

「いや、うーん、案外ぜんぶ本番まで取っておきたい系?」

「ハハハ」


  ※※※※


 9月30日(金)11:00

 東京都上野にある長尾芸能の東京第二支社、その対談ブースで柊タスクはガチガチに緊張しながら、目の前にいる藍沢テトラと握手をしていた。

「あ、あの、本日は、よろ、よろしくお願いいたします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 テトラが微笑むと、タスクは、ひいっ、と思う。

 ――まだ、女性恐怖症は全く克服できていない。


 プロデューサにこの企画を提案されたときも、どうせ、寄ってたかってオレを見世物にして笑いもんにする気だ、と思って断りかけていた。

 でも、なんだかモヤモヤして、連絡先を交換したネネネに相談をしてみた。

《女性アーティストと連続で対談?》

「そ、そうです」

《タスクはどう思うの?》

「怖い」

《じゃあ、やめちゃう?》

「それが、よく分かんなくて」

《?》

 ネネネが黙ったので、タスクが言葉を繋いだ。

「オレ、今度ネネネさんと話し、話したこと、曲にしようと思ってて。あの、オレ、自分のことでいっぱいいっぱいだったけど――でも、あの、その、音楽やるやつらみんな悩んでるって分かって。だから、その、そういう、頑張ろうぜみたいな、やつ」

《そうなんだ》

「ネネネさんはどう思う?」

《なにが?》

 ネネネは会話を自分のペースに巻き込んだりしなかった。ずっとタスクの返事を待っている。

 それは優しさや同情じゃない、と分かった。

 この人も、自分にないなにかを他人のなかに見つけたいからだ。

「ネネネさんから逃げ出してたら、こういう気持ち、オレになかったし。その、あの、なんて言えばいいか、もっと色んな人と話したら、またなんかあるのかな?」

《タスクはそれが欲しいの?》

「でも、怖くて」

《うん》

「うああ、マジで怖くってえ。お、オレどうしたらいいっすか?」

《怖いことなら、なおさら自分で決断しなくちゃ》

「そんなあ」

《悩んで、苦しんで、生きかたを決めるとき、心はいつもひとりぼっちだよ》

「うう」

《でも、そんな風に暗闇を歩いているのが自分だけじゃないって、確かめたくなることもあるから。タスクは、そういうのが欲しいんじゃないの?》

「はい」

《私が言えるのはそれだけ。だって対等なライバルなんだから、行きすぎた助言なんてしないし、背中も押さないよ?》

「えええ~、でも」

《私たちより1st売れたくせに弱音吐くな。こっちだってすぐ追いついてやるからね。オッケー?》


 そして、現在。

 タスクは汗を拭き、目の前の藍沢テトラに向き直った。相手は十数年前に世間全部を騒がせた怪物だ。長い活動休止を挟んでいても、向こうがどんな風に思っていても、オレからしたらオレが弱いんだ。

 ていうか、すげー美人。美人ほんと怖いんだよ。女の美人は他の人類より税金多めに収めててほしい。

 でも、

 タスクは頭のなかで自分じゃない声で自分を奮い立たせた。

《オッケー?》

 はい。

 オッケーです。今のところは。


  ※※※※


 ――その様子を、ちょうど近くに寄っていた斉藤ネネネと谷崎ハジメが、肩をすくめて見守っていた。二人も、長尾芸能のアーティストを含めたコラボ企画の打ち合わせだった。

「タスクくん、大丈夫かなあ」

 とハジメが苦笑いを浮かべると、

「私たちは自分の心配をしないと」とネネネは軽口を叩いた。「オラクルオブガゼルのリーダーさんはともかく、こっちは次のアルバムのコンセプトもぜんぶ空白なんですから」

「そうかい」

 ハジメはあれからまた髪を伸ばしてうしろでくくり、髭も整えた形で生やしていた。もう昔には戻らないという意志表示みたいに、彼女には見えた。

「おじさんも、もうちょっとだけ頑張ってみるか」

「会社勤めだったら定年退職までどれだけあると思ってるんですか。その『おじさん』っていうのやめてください」

「手厳しいね」

「ええ、格上には歯向かうタチなんです」

 そうネネネが笑うと、ハジメも笑顔を返した。

「まだお嬢ちゃんたちには国内トップアーティストの座は譲らないよ。まずはDEADの1日目のほうに上がってきてくれないと、かな」

 そう言うと彼は顎を撫でる。

「実力派だとか本格派だとかいうのは、半分くらいは、売れないやつの言い訳さ」

 ピリピリとする。

 彼が久しぶりに覇気を取り戻しているのを、ネネネだけではなく、誰もが感じていた。


  ※※※※


 9月30日(金)11:30

 沖田レインはトワの病室を訪れて彼の手を握っていた。部屋にはトワの女たち6人も揃っている。

 担当医の住吉キキによれば、瀕死の重傷を負ったにもかかわらずここ半年間の回復力は異常そのもので、来週には車椅子で外出もできるだろう、とのことだった。リハビリはそれ以降のことになるが、目立った後遺症はないらしい。

 ――世話の焼ける連中だ。

 廊下には、ジュンギがカタギ風のスーツ姿で立っていた。


  ※※※※


 9月30日(金)12:00

 佐倉兄弟と七峰ミチルが、東京ディズニーランドでシンデレラ城をバックに記念撮影。


  ※※※※


 9月30日(金)12:30

 オンラインで通話する、蛇誅羅童子の鹿部ノアと、西園学派のリーダー兼ボーカルギター、西園カハル。

「なんやの、事件はもう終わりなん?」とノアが訊いてみると、

「まあ、十中八九はな」とカハルは答えた。「アタシの見立てが正しかったら、今ごろ瀧千秋もその部下も、ボディはヤクザの巨大電子レンジで粉々だよ。骨粉は山か海かに撒かれてそれでしまいだ」

「――おっかないわあ」

 おっかないけど、でも、なんやしまらんなあ、とノアは言った。

「全部を知ってるのは当事者だけかあ。ほな、ふっと事件が途切れて、ニュースにもならんくなって、みんな忘れてまうわな、こんなん」

「――ま、そんなもんさ」

 カハルは椅子の背もたれに体を預けた。


 ――犯人が瀧千秋だと気づいたのは、THE DEADよりも前のことだった。

 ハインリヒ・K・キュルテンのナイフを使った連続通り魔殺人事件。美術館でだけ贋作が使われたということを突き止めたカハルは、次に、もっと根本的なことに目を向けるべきだと考えていた。

 なぜわざわざ凶器を統一して、黒幕の存在を示唆する?

 答えは単純だった。あらゆる劇場型犯罪がそうであるように、自分自身の存在を誇示したいからだ。

 では、そこまで周到に凶器を整えていた黒幕は、なぜ美術館の一件では贋作のほうを用いたのか。ミス? 違う。

 この事件こそが他とは違う本命だと示すためだ。

 真作のナイフを製作したハインリヒ・K・キュルテンはしみったれた狂気に囚われた刀鍛冶だったが、贋作を製作し続けたのは――ジェフ・シャウクロスという名前らしいが、彼の本名が記されているのは数あるノンフィクションのなかでも一冊だけだった――しがない音楽批評家だったという。

 音楽批評家。そして、美術館で襲われた被害者のなかにはアーティストがいる。藍沢テトラだ。

 そこまで分かってから、西園カハルはいちど実家に帰り、自室に溜めていた直近十数年のあらゆる音楽雑誌をめくった。そして、全て録画している音楽番組を13個のモニターで同時に流し続けた。

「見つけた」

 瀧千秋。

 この音楽批評家だけが、奇妙なことに、どの場所でも藍沢テトラについて一言も言及していなかった。

 今はほとんど名の消えた歌姫とはいえ、そんなことがありうるのか?

 ダメ押ししたのは、とあるネット番組の対談企画だった。

 相手の女性が、

《消えたアーティストといえば、藍沢テトラさん、いましたよね。不幸な事件に巻き込まれて今はキャリアを断たれていますが、彼女の音楽は唯一無二だったと思います。瀧さんはどんな風に考えていますか?》

 そう訊いた。

 それに対して瀧千秋はにこやかにこう答えた。

《たしかに、十四年くらい前でしたっけ? あの頃は才覚溢れるアーティストが多数輩出された豊作の年だったと思います。まあ、僕は当時学生でしたから、今ほど本格的にシーンを追いかけていたわけではありませんが。ビジブルライトというアイドルユニットがデビューしたのもこの年です。世間ではアイドル楽曲への偏見がまだまだ根強いですが、プロフェッショナルの作曲家と、コンセプトを設定するプロデューサと、演者としてのアイドルたちが分業制で繰り広げるパフォーマンスは、やはり一聴の価値があると思います。若い聴き手といえば、最新の楽曲か、そうでなければ古典に近しい60~70年代の音楽を追いかけがちですが、ちょっと昔の作品に目を向けるのも意義あることだと僕は思いますよ》


 答えになってねえよ、センシュウ先生。とカハルは思った。


 そのときの瀧千秋の表情を彼女は忘れない。整った顔立ち、眼鏡の奥で、左目だけが苛立たしげに痙攣していた。おそらく、対談相手も気づかない数秒間で。

 決まりだ、とカハルは感じた。

 そして次に調べたのは、瀧千秋が仕事のなかでマイヤーズミュージック本社か支社に出入りした記録だった。

 ある。

 瀧千秋は何度かアーティストとのセッションという形でマイヤーズミュージックに出入りしている。ばっちり雑誌に収録場所は書かれていた。

「まずいな」とカハルは思った。

 今回の黒幕はハインリヒ・K・キュルテンのナイフを使って人間を操っている。他に説明しようがない。だが、だとすれば、もはや瀧千秋はマイヤーズミュージックの社員の何人かを操作できる状況にあるんだ。

 そして、今回の強引な藍沢テトラ復帰劇。なんのために? もちろん瀧千秋を捕獲するためだろう。ここまで来れば簡単に推測できる話だ。

 ――生死を問わずか? 始末する構成員は誰だ? そういう些末な疑問をカハルはいったん頭から追い払った。

 藍沢テトラをエサに瀧千秋をおびき寄せたとしても、この男を捕らえる作戦は絶対に失敗に終わるだろう、ということだけは確実だった。

 そして、そんな物騒な作戦を立てられる人間はただ一人。マイヤーズミュージックの実権を握っている八木啓だ。

 そこまで思い至ったあと、カハルはTHE DEADのステージを終えたあと、リンドウに声をかけた。

「打ち上げで飲みすぎるな。八木さんがヤバい。あいつの部屋は調べておくから、頃合いを見て助けに行け。お前ならできるだろ?」

「分かった」

 リンドウは躊躇なく応じた。

 ――八木啓の命が助かったのは、要は、こういう事情があったからだ。


 そして、現在。

 西園カハルは色々と思い出しながら、しかし、自分がほとんどなにもできなかったことに無力感を覚えていた。

 まあ、いいさ。

 アタシは別に名探偵じゃなくて、ロックスターだからな。

 そのデスクに鷹橋リンドウがカップを置く。

 リンゴジュースのおかわりだった――カハルはコーヒーを飲めないので、いつも甘ったるい清涼飲料水を口にしている。

「んん?」とノアは言う。「おふたり、ホテル、同じ部屋で暮らしてんの――?」

「当たり前だろ」

 カハルは言った。「二部屋分も金払う必要あるのか?」

「――はあ」

 ノアは苦笑した。その距離感でまだ正式には付き合ってない言い張っとるん、なかなかにバグってんなあ。

「んじゃ、ま、また暇なったら連絡するよって。カハルちゃんも、ロンドン観光たのしんでな?」

「おう」

 とカハルは微笑む。

「ノアの新作、楽しみにしてる。今度は――下らない邪魔が入らねえように、アタシたちだけでなんかやろう」

 電話が終わった。

 蛇誅羅童子のメンバーをいったん解散し、ソロプロジェクトとして再始動することにした鹿部ノアと、ロックミュージックの本場、ロンドンで羽根を伸ばしている西園カハルの会話だった。

 彼女は立ち上がり、ホテルの窓から景色を見る。イギリス特有の美しい曇天が、湿った空気のなかでボンヤリとした陽光だけを街に与えていた。

「いいところだな、リンドウ」

「ああ」

 そうしてウェリントンタイプのサングラスをかけて、空を睨んだ。

「アタシはここにいるぜ――ロンドン」

 今度来るときは、海外凱旋のときだ。


  ※※※※


 9月30日(金)13:00

 川原ユーヒチ、山本ガロウ、篠宮リョウ、そして野村シシスケ――オルタナティブロックバンド『感傷的なシンセシス』のメンバーが、たまの休みを取って遊び歩いていた。そこにはユーヒチの妹である川原シキも、山本ガロウのギター弟子兼彼女である三島モモコも、アヲイの妹である九条ヱチカもみんな揃っている。

 アヲイは空を見上げながら、ぶらぶらと全員のあとをついていた。

 不意に、ビルの屋上あたりに立て掛けられた広告用看板に気づく。

 藍沢テトラの新曲の広告だった。

 曲のタイトルは『エヴリアリの群青』。

 写真のなかのテトラは、大人びた笑みを浮かべて街を見つめている。

 表面的な曲の小難しさに対して色んな評判があるらしいけれど、いちど聴いたアヲイにとっては、それはどうでもいいことだった。

 その歌は要するに、

 初心で、健気で、一途で、自分のために走り続けてくれた一人の男の子のために、もういちどだけ自分の足で歩き出そうとする、ただの恋と勇気の物語――言ってしまえば、そんな単純なラブソングでしかなかったから。

 その歌の意味は、ちゃんと彼女にも伝わっていた。

 アヲイは、広告のなかの藍沢テトラに微笑み返す。

「かっけえじゃん。先輩」


 そう呟いたあと、彼女も、ユーヒチたちのもとに駆けて行った。




 synthesis/altanative:My EVRYALI for Ultramarine.

 END.

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エヴリアリの群青 synthesis/altanative 籠原スナヲ @suna_kago

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