番外編1 ある冬の日の一夜



自分の初恋はもう死にました。


 凍てつく空気を纏う十二月の末、高架下のおでん屋で思わずこぼしてしまった。これはきっと寒さのせいだ。風が冷たいからと温もりを求めて入ったおでんの屋台の客は僕だけだったから気が緩んだのかもしれない。

「…そうですか」

と大将は優しく答えてくれた。否定も肯定も、深掘りもせずただ一言そう言って鍋を見つめている。

「大将は恋ってしたことあります?」

「まぁ人並みには…」

「それはいい思い出ですか?それとも悪い思い出?」

自分でも何を聞いているのか正直さっぱりだ。

「自分はいい思い出でした」

「そうですか」

「綺麗だったなぁ…今でもハッキリ思い出せます。あの子と初めて出会ったあの日のの事を」

いかん、酔が本格的に回ってきた。つい口が話したがってしまう。それほどまでに僕の記憶を占有しているものであると、そう突きつけられる。

「あの子…さやかちゃんと初めて会ったのは小学3年生の桜が綺麗な3月の始めの頃。自分が転校して初めて友達になったのが彼女でした…それから自分達はずっと一緒に過ごして…それから…」

それから、どうしたのだろうか。うまく思い出せない、靄が掛かっているような感覚を覚える。酔いのせいだろうか。僕は一度、出汁のよく染みた大根をぱくりと口に含み考える。僕たちはどうして会わなくなってしまったのだろうか。壇ノ浦小学校6年3組だった僕たち、壇ノ浦中学校3年1組だった僕たち、いつも横には彼女の笑顔があって…夏はプールに行って、秋は体育祭があってあの子の走る姿は美しくて、今日みたいに寒い冬の日は部屋でゲームをしたり…。

「さやかちゃんは僕の憧れだったんです」

「憧れ?」

「はい、強くて美しくてまっすぐな女の子でした。自分もあんな風になりたいと、そう思うほどで…」

あれ?どうして今まで忘れていたのだろうか。このおでん屋で話し始めてようやく思い出すような思い出にしては余りにも強烈で鮮烈だ。ずっとずっと忘れていた初恋の記憶がこんな何でもない平日の夜に蘇るのだろうか。今日は何か特別な日だっただろうか、それともこの大将が何かの魔法使いで僕にこんな話をさせているのかもしれない。

いや、これは寒さのせいだ。この寒さが僕を饒舌させ記憶を掘り返しているだけだ。

「そういえば寒い中桜を見に行ったこともあったなぁ」

「寒い中、てすか?」

「えぇ、知ってます?ヒカンザクラって。3月のはじめに咲く赤い桜、自分達はそれが好きでよく2人で観に行ったものです」

壇ノ浦小学校にもヒカンザクラが植えられていて中学校に上がってからもしょっちゅう観に行っていた。

「あぁ、そういえば壇ノ浦小学校の桜この前撤去されてましたね、条例が変わったか何かで」

「え…」

 あ、思い出した。そうだあのヒカンザクラはもう無いのだ。丁度数日前小学校の近くを通りかかった時。13年前の今日またここで会おうと約束した筈なのに。目当ての桜が無いんじゃと僕は諦めた。そして無かった事にしたんだ。桜もあの子も、あの子に関する思い出全部。だから

「自分の初恋はもう死にました」なんて言ってしまったのだ。愚かな事をしているのは分かっている、でももう桜は生えていないしどうせあの子も約束の事なんて覚えていないだろう。だから僕も忘れてしまおう。僕の手で初恋を殺すのだ、この感情を、思い出を押し殺す。明日になればきっと忘れている。

「大将、熱燗もう一杯」

 泥濘化する世界をぼんやりと眺めながら酒とおでんを煽る、こんな日があっても良い。初恋の感傷に浸りながら過ごす冬の1ページも悪くはない。そんな風に思考を巡らせているといつの間にか客が一人増えていた。何処かで見たような顔の女性だ。その人は僕を見るなりこう言った。

「全然変わってないのね。久しぶり、探したのよ」

自分の初恋はもう死にました。でも

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海人と山女 望月朔菜 @suzumeiro

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