歩こう
東江間カリマ
歩こう
携帯がピロンと鳴ってみさ子はトーク画面を開いた。
「明日も8時からね」
「了解!」
「お昼はどうする?」
「じゃあ7時40分くらいにピンポンするから途中のコンビニで買ってこ!」
「いいね!おやすみなさい」
すぐに返信したらなんとなく恥ずかしいから時間を置いてから返そうと思うのになぜかいつも20分くらいで返してしまう。
保育園の頃から一緒のみさ子と海美。
同じ高校を志望していたが2人して落ちてしまい別々の高校に通っている。
今は週に一回、一緒に図書館で勉強するようになった。
ピンポーン
インターホンのモニターにはカメラに近づきすぎた海美の目がアップで映っている。私と同じ一重なのにどうしてこんなにぱっちりしているのだろう、そんなことを思いながらみさ子はドアを開けた。
「おはよう、やっぱまだ寒いね。」
「うん、花粉の野郎は早くも飛んでるのにねえ。」
「そうかな?私はまだ感じないけど、」
「ところでみさちゃん、ティッシュ持ってない?」
「ふふっ、花粉にやられてるならティッシュくらい持ち歩こうよ。はい、」
「ありがと」
コンビニで買うものはいつもそんなに変わらない。
みさ子は菓子パンとスムージー、最近は期間限定の苺フレーバー。海美はおにぎりとどら焼き、そしてサラダチキン。汁がこぼれるし食べにくいから出先ではやめた方がいいと毎回忠告するのに聞く耳を持たず、そして毎回こぼしては焦っている。
「そういえばみさちゃん今日はアイライン緑だね。」
「アイシャドウね、」
「あ、アイシャドウか。私は全然そういうのやらないから。」
「寒色って難しいけど好きだから挑戦してみたの。メイクは必ずやらないとダメってわけじゃないけど楽しいよ。」
「そうなんだー、でもやっぱ私はやらないかな。
そうそう、聞いて!クリスマス、私は経営学の本頼んだのに起きたら知らない雑誌と付録のなんかわからない化粧品があったの!」
「随分とそそっかしいサンタさんね…ねえ、うみちゃんまた汁こぼれてるよ、」
「え、ああっ、ちょ、ちょっと待って今口でキャッチするから、、」
「何そのきったない食べ方。」
笑いながらサラダチキンの肉汁をすする海美を見た。雫が顎まで垂れて、地面に落ちた。
海美は昔からいわゆる女性らしさとは無縁で見た目のこだわりが全くない。彼女の母親は娘に女の子らしくいてほしいようだがそれは海美はそれを苦々しく思っているようだ。
外を走り回って、着せられた可愛らしい服をドロドロに汚して帰ってくる、海美はそういう子だ。なのに本を読むことも絵を描くことも好きで勉強もできてしまうから不思議なものだが、それは彼女の極端な負けず嫌いが原因であることをみさ子はよく知っている。勉強のできるみさ子へのライバル心から急に優等生になったこともみさ子だけが知っていて、それがみさ子の誇りだったりもするのだ。
「じゃあまた来週ね!」
「うん、来週はサラダチキンはやめといた方がいいと思うよ」
「えー、あれもはや恒例行事じゃん」
毎週毎週とりとめもない会話を交わしながら田んぼと道路の間を歩いて、黙って隣で勉強して、帰ってくる。それが例えようもなく幸せで、わけもなく少しだけ切なかった。
まだ解けていない霜が陽の光を受けてきらきらと光っていた。
子供の人間関係は歩調で決まると言っても過言ではない。わらわらと集団で学校を出ても気づくと2,3人ごとにバラバラのスピードで歩いているものだ。
小学校の頃からいわゆる仲良しグループは存在したのに気づけば背の高いみさ子の隣にはいつも体力お化けの海美が歩いていた。
内気で不器用なみさ子と活発な海美。
正反対のふたりはまだ優等生でもなんでもなかった時代から何度もじゃれ合い、ふざけ、時にぶつかりながら成長してきた。
いつからだろう。他の子と喧嘩して庇ってもらったとき?中学に入ってから?それとも高校がバラバラになったときからだっけ。
偶然隣にいただけなのに、いつの間にか恋をしていた。
海美が他の誰かといると不安になった。
乗り換え駅でばったり会えないかと電車を1本見送った。
海美と暮らす未来を妄想した。
「みさちゃんってN大学行きたいんだっけ。」
「うん、地元で1番良いとこだし。家を出るだけのお金もうちにはないからね。教育学部にしようと思うの。」
「え?みさちゃんが教員になるのなんか違和感あるわあ。」
「まあ向いてないのは間違いないよ、子供苦手だし。でも憧れちゃったものは仕方ないんだよお。」
「あー、佐藤先生ね。みさちゃんって先生に出会って本当に変わったよね。」
「そうだけどなんか今思い出したくないことも思い出しちゃったよ恥ずかしい。うみちゃんは?」
「私はM大の農学部に行く。推薦ももらえそうなんだよね。」
胸の下辺りがぞわっとした。
なんとなく志望校も同じだと思っていたから、不意打ちをくらったような、
「県外じゃん、通えなくもなさそうだけどどうするの?」
「向こうに住もうかなって思ってる。ここより田舎だしやりたいことがあるから。」
いやだ、一緒がいい、
「そっか、私は虫とかいるのだめだなー。N大と遠いし。」
「なんでみさちゃんついてくる前提なの」
「あ、ほんとだ。違うからね!」
何も違わない。
一緒が、ずっと一緒がよかったな。
「おはよう、そっちはテストいつから?」
「私のところは再来週だよ。でもその前に模試が、、いやああああああっ!」
「あ、てんとう虫だ!可愛いー。」
「可愛くないよ早く取って!」
「はいはい、」
みさ子の肩にとまったてんとう虫を海美はふっと吹き飛ばした。
横顔がいつもより近くに寄って、みさ子は思わず息を止めた。
高校3年生になった。
季節が変わって最近田植えが終わった田んぼに水色の空と薄い雲が映ってゆらゆらと震えていた。
「冬って寒すぎて虫がいない道のありがたみを忘れてるんだよね。」
「なんか英語にそんな例文あったね。なんだっけ?」
「あれ、なんだっけ?着いたら確認しよ。」
手を繋ぎたかった。他の女の子たちはごく自然に友達同士で触れ合う。みさ子も昔は普通に海美に触っていた。
なぜだろう、今はそれにすごく勇気が要る。
「交差点のところに最近新しい唐揚げ屋さんできたよね。」
「ほんと?知らなかった!今度行こうよ!」
「ひいちゃんとゆりちゃんも誘って一緒に行こうね!」
「そうだね、来週とかどう?」
そうじゃないよ、そうじゃないの。
また季節がひとつ変わった。
背の伸びた稲が風に撫でられてカーテンをめくるように端からさらさらと波打っていた。
「みさちゃんみさちゃん、これ食べ終わったらちょっとだけ散歩しない?」
「いいけどちょっと曇ってるよ。」
「その辺1周するだけ!」
最近海美はこぼさずにサラダチキンを食べられるようになった。フィルムを少し剥がしたらすぐに口をつけて吸ってしまうのがコツだそうだ。はしたなさは増している気もするが。
「曇ってるといつもよりは涼しいね。」
「そう、だから歩きたいなーって思って。」
その時、みさ子の鼻先に冷たいものが落ちた。雨粒はたちまち増えて前髪を濡らす。
「神川のあそこ入ろ!」
「うん!」
小学校の頃によく行っていた神川公園には小さな石のテーブルと屋根があり、よくここを占領してクラスメイトの悪口で盛り上がっていた気がする。
あの時に比べて自分も海美も随分と大人になったように思う。
「そういえばお母さんがみさちゃんと恋バナしてこいとか何とか言ってたけどみさちゃん高校でそういうことあった?好きな子とかいるの?」
心臓がびくんと跳ねた。
「何にもないよ。そりゃあ中学よりみんな良い人ばっかりだけど好きな人とかは、、特にいないかな。」
「ふーん、」
元々色恋に興味などなさそうな海美は前髪を指に絡ませ、後ろを向いた。
臆病な嘘をついた。とても簡単なことなのに喉の奥に絡まって吐き出せなかった。
「うみちゃんは?」
「あるわけないじゃん、女子校だし。」
「そっか。」
あるわけない、か。女子校だし、か。
男子を好きになったことは、あるのかな。恋をしたことは、ないのかな。
「どうしたの?みさちゃんっていつも泣きそうなときしか唇噛まないよね?」
「それ何年前の話よ、恥ずかしい。
…ちょっと頭痛いだけ、雨降ってるからかな、でも大丈夫だから。」
「大丈夫じゃないでしょ、雨落ち着くまで寝よう?」
いつもより小さな声でそう言うと海美は着ていた上着をみさ子にかけ、授業中寝るときみたいにテーブルに突っ伏したみさ子の背中をゆっくりさすった。
また嘘をついた。優しさに罪悪感を感じた。
鼻を啜る音が聞こえないように、背中が波打たないように、濡れた袖は雨のせいにしてしまおう。
そうだ、最初から、今だって自分は海美の親友なのだ。それが変わったことは一度もない。いつの間にか自分が勝手に見る目を変えて、勝手に落ち込んでいるだけだ。
誰にでも優しい人に恋をしたのに、今度はその優しさを独占したくなった。なんて身勝手で気持ちの悪い話だろう。
恋をやめよう。そしたらこの手が離れることもない。
季節が変わった。
夕日に照らされ金色に染まった稲穂が秋風にそよそよと揺れていた。
「この前の模試どうだった?」
「相変わらず全然ダメ。」
「うみちゃんは大学卒業したらここに戻ってくるの?」
「どうだろう、もっと田舎の方で起業するかもしれないな。」
「この辺も十分田舎じゃない?」
「んー、まあそうだけどもっと不便なところから農業を支える会社をつくりたいの。海も山もあるところがいいな。」
「海近いと地震とかこわいからなあ。」
「私はそしたら波に呑まれる覚悟できてるからね。」
「そこは逃げようよ、私はまだそこまでの覚悟はできないな。」
「なんでまたついてくる前提なの」
「ほんとだ。違うからね、あれ?これ言うの2回目じゃない?」
無意識だった。まだ自分は友達以上を望んでいたのか。
「みさちゃんはここで就職するんでしょ?」
「そうだね、でも離れるのちょっと寂しいな。」
「いいじゃん、たまには会いに戻ってくるよ。」
あきらめたはずなのに喉に絡みついたものを飲み込むことができなかった。溺れては咳き込んで、苦しかった。
また冬が来た。まだ解けていない霜が陽の光を受けてきらきらと光っていた。
「あれ?今日はサラダチキン買わないの?」
「んー、今日はなんかこっちの気分だな。」
そう言って海美はスムージーを手に取った。
「じゃあ今日は私がチキン食べる。」
「いつもあんなにやめとけって言うのに?」
「たまには、だよ。」
入試前日。昨日から同級生たちも土のような顔色をしていた。
「買ったはいいけど全然食欲ないな。緊張してるからだよね多分。」
「私も。ねえ、ちょっと寒いけど神川のテーブルで食べない?」
「そうしよっか。」
高く上がった太陽が枯れた田んぼに覆いかぶさっていた。
「来たはいいけど思ってた数倍寒いんだけど。手袋外せないよ。」
「私も来たことをちょっと後悔しております…」
「ねえ、明日どうなっちゃうのかな…。」
「言わないでよ、きっと大丈夫、、とは言いきれないかな。でもうみちゃんは大丈夫でしょ、」
「みさちゃん、血出てるよ。」
海美に言われてはじめて血の滲んだ下唇が痛んだ。あわてて口を閉じようとしたが意思に反して歯はさらに強く唇を刺した。海美の顔がぼやけていく。
「私も大丈夫じゃないよ、みさちゃんと同じくらい不安で、、不安でたまらないよ、」
海美の大きな瞳が揺れてぽろりと溢れた。
そのまま涙は顎まで垂れて、地面に落ちた。
海美の涙を見るのは何回目だろう。
泣き虫のみさ子と違って人前ではまず泣かない海美が目元も隠さずに声を震わせるところを初めて見た。きれいだと、思った。
その光景もだんだんぼやけて地面に落ちた。
自分が嫌だった。
「みさちゃんが泣くから私までおかしくなっちゃったじゃん。」
「私も今のでちょっと暑くなったよ、もう早いとこ食べよう、」
サラダチキンのフィルムをめくって口をつけ、下品に汁をじゅるりと吸った。思ったよりもずっと塩辛かった。散々虐めた下唇に塩分がひどく染みた。
「思ったよりこれ甘いんだね。残りみさちゃん飲んでくれる?」
「うん、ねえやっぱりサラダチキンは外で食べるものじゃないよ。うみちゃんが残り食べて。」
さっきまで海美のものだった飲み口に口をつけてそっと上に傾けた。いつも通り甘酸っぱくて、下唇にひどく染みた。
恋を自分で止めることはできないと確信した。
枯れた田んぼに雪がちらちらと降り注いでいた。
春になって駅のホームを水色の空と薄い雲が覆っていた。
「うみちゃん、今から私が言うこと電車に乗ったら忘れてね。」
「なにそれ、言う意味ないじゃない。」
「私ね、うみちゃんと2人で作ったご飯を食べて、公園で時々座って、図書館まで一緒に歩きたい。うみちゃんが私を好きにならなくてもいいから、うみちゃんが恋をしたときにはすぐに遠くに行くから!夏に好きな子いないって言ったの嘘だから!今言ったの絶対忘れてよ!」
急に喉から溢れて止まらなくなった言葉にみさ子自身が1番驚いていた。
海美は前髪を指に巻きつけながら聞いていた。
「みさちゃん、私たち似てないけど私もみさちゃんもきっと同じくらい嘘つきだったんだよ。でも私が嘘をつく相手はみさちゃんだけ。恋バナでも他の子には好きな子いるって言うから、今度はあの唐揚げ屋も2人で行きたいって誘うから、それまでN大ボーイに誘われても行っちゃだめだよ!」
春風が顔に当たって下唇にひどく染みた。
「そっちこそ留年とかしないでよね、M大生!あとやっぱうみちゃんが恋をしたときはその相手の目にサラダチキンの汁ぶち込むから!」
「おかえり」
「ただいま」
「よかったの?戻って来ちゃって。もっと田舎に行くんじゃないの?」
「ここも十分田舎だから。あと、波に呑まれる覚悟が揺らいだから。」
「嘘つき。…愛してる。」
「唐揚げ食べに行って、図書館行って、神川公園で休んでからまた歩こう、」
「コンビニにも寄りたいな。」
海美が左手を差し出した。右の中指と薬指の間がひんやりして、徐々に温まってゆく。
季節が変わって最近田植えが終わった田んぼに水色の空と薄い雲が映ってゆらゆらと震えていた。
歩こう 東江間カリマ @1704mm
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