最終話
祭りの賑わいから離れると、人の声より虫の声が目立つようになった。
電灯はほとんどないが、辺りは思った以上に明るい。
不思議に思って見上げると、今夜は満月だった。
「月、綺麗……」
私は思わず口にした。
ふと、夏目漱石が『I love you』を『月が綺麗ですね』と訳した逸話を思い出した。
文学部でもないリクは知らないだろうが、私は恥ずかしくなった。
「この街での生活はどうだった?」
「とても楽しかった」
「それは何より」
リクはわずかに私の先を歩く。
彼の背中を見つめながら、私は私のことを考えていた。
私が人と話すのが苦手なのは、自分の想いをうまく声に出せないからだと思っていた。
だからスマホを手に入れ、文字なら会話できると知った時、とても嬉しかった。
けど、適当な言葉を並べただけで、何も話していないのと同じだった。
人と話すのが苦手な本当の理由。
それは――自分や相手の想いに真剣に向き合ってこなかったからだ。
この街に来て、私は知った。
想いは、形となって現れることを。
美しい風景を見た時、美味しい物を食べた時、人に優しくされた時、小さな勇気を出した時――想いは表情や言葉となって溢れ出す。
どれだけ下手な表現でも、真剣であれば届くのだ。
彼のおかげで、そのことに気づいた。
だから伝えよう。この想いを。
「リク君」
「何?」
リクが振り返った。
月明かりに照らされ、彼が優しい笑みを浮かべていることを知る。
彼に負けないように私は笑い、想いを言葉にする。
「――ありがとう」
私はこれから少しマシな人間になれそうだ。
「お母さんにもよろしくね」
「はい。本当にお世話になりました」
翌日、サクラさんとリクが車で駅まで送ってくれた。
サクラさんが車に戻ろうとした時、リクが言う。
「母さん、僕はホームで見送るよ」
「そう。私は車で待ってる」
駅のホームに人影はなく、近くのベンチに二人で腰を下ろした。
こんな時、いつもならリクが気の利いた話をするのだが、今日は無言だった。
不思議に思っていると、踏切の音が聞こえてきた。
もうすぐ電車がやって来る。
「リク君、元気でね」
私が立ち上がった瞬間、
「待って!」
リクが緊張した面持ちで私を見ていた。
ふと、彼の右手が背中に隠れていることに気づく。
電車が到着し、ドアが開く音がした。
「これを受け取ってほしい」
隠していた右手に握られていたのは、一輪のひまわり。
「――すごく鮮やかな色。ありがとう、大事にする」
「次の夏、また来なよ。今度は一緒に花火を見よう」
「うん」
私は強くうなずいて、電車に乗った。
ホーム側を振り返ると同時に、ドアが閉まる。
発車を告げるベルが鳴り、リクの姿は私の視界から消えていった。
私は窓際の席に座ると、鞄の奥からスマホを取り出した。
恐る恐る電源を入れたが、特に体調の変化はなくホッとした。
駅を離れてすぐ、圏外の表示が消えた。
その瞬間――たくさんのメッセージが届く。
『ヒカリ、大丈夫?』
『話せなくなって寂しい』
『そろそろ戻ってくる頃だよね』
『みんなでお祝いだ!』
それは、夏休みの間に溜まっていた友達の想いだった。
私は思わず口に手を当てる。
――私はなんて愚かだったのだろう。
みんなは、こんなにも私に向き合ってくれていたのだ。
きっと、私は下手くそな返信しかできない。
それでも、自分なりの想いを伝えていこう。
私を見つめるひまわりに、そう誓った。
「そういえば、なんでひまわりだったのかな」
リクが意味もなく、この花を選んだとは思えない。
「えっと……『ひまわり』、『花言葉』と」
スマホで検索するとすぐに答えは分かったが、予想もしていなかった意味に驚く。
私は急いで電車の窓を開け、彼と別れた駅を探す。
けど、もうどこにも見当たらなかった。
ひまわりの花言葉。それは、
――私はあなただけを見つめる。
彼の本当の想いに気づき、私は叫ぶ。
「リク君、ありがとう!」
聞こえないことは分かっている。
けど、こんな私を好きになってくれたことへの想いが溢れ出した。
「ずっと……言えなかったのかな」
大人びた彼は、好きな人ができたらサラリと告白するのだと思っていた。
けど、それは勝手な思い込みだった。
本当の彼は、別れ際になっても告白できず、一輪の花に想いを込める――そんな恥ずかしがり屋の男の子だったのだ。
昨日まで、私がリクに感じていたのは感謝の想いだけだった。
彼が普通の男の子であることに気づいた今、不思議な想いが芽生える。
この想いの正体、街に戻ったら友達に相談してみよう。
きっと、自分のことのように真剣に向き合ってくれるだろう。
開け放たれた窓から、温かな風が吹く。
目を閉じ、私は想像する。
芽生えた想いに、ゆっくりと水を与えることを。
そして私は期待する。
次の夏、電波の届かないあの場所で、それが大きな花を咲かせることを。
この恋は、電波が届かない場所にある 篠也マシン @sasayamashin
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