G氏の館
湾多珠巳
G氏の館
G氏の館
家から駅へと向かう道半ば。住宅街まっただ中のとある角に、その家はある。
かつて、そこはとことん殺風景な家だった。金網フェンス越しに見える庭には、運動場のような土があるだけ。花壇どころか植木一つない。時々、珍しく華やいでいるなと思ったら、セイタカアワダチソウが自然繁茂している姿だったりする。住宅そのものもどことなくすさんでいて、ベランダに面したガラス戸の内側には破れ放題の障子がいつも無惨な姿をさらしている、という具合。
聞けば、どうやらそこに住んでいる一家は正式な所有者でなく、オーナーの留守に仮住まいさせてもらっているだけらしい。ゆえに、園芸趣味も遠慮がちで、外観も徹底的に無頓着を決め込んでいるとのことだった。
けれどもそんな家が、実は通行人一同のちょっとした心のオアシスだったのである。
そこには犬がいた。月並みなゴールデンレトリーバーではあったけれども、実におとなしい犬で(以下、G氏と呼ぼう)、私はG氏が吠えるのを聞いたことがない。一方で堂々とした存在感もにじみ出ていたから、番犬として無能なわけではなかったはずだ。だいたいが、夜闇によそ様を驚かすのを快楽にしているような「勘違い犬」がはびこっているわが町である。G氏のような落ち着いた寡黙ぶりは、聡明さすら醸し出しているように感じたものだ。
何よりもこのG氏は、「通行人は犬をなでたがる」という万古不変の法則をよくご存じだ。近づいてくる人間を目にすると、おもむろにフェンスに体を横にしてくっつけ、人々が金網越しにふかふかの体毛を楽しむのに便宜を図ってくれるのである。みなその賢さに感嘆し、G氏の株はますます上がる。そしてますます多くのファンがG氏の周りに集まってくる。
たまたま通行人が、なでずに通り過ぎていくとしても、別にG氏は不満げな様子を見せたりはしない。やはりフェンス面に待機した上で、〝ん? いいの?〟という表情でやり過ごしてくれるだけだ。ことさら自分からなでてもらえるのを求めているわけではないのだ。クールな振る舞いでいながら、G氏は根っからの奉仕犬なのである。
もちろん、相手が成人男性でも、その対応方針は揺るがない。私などどうしても、「大人だし男だから」という自覚が開けっぴろげな行動を抑制する方にする方に働いてしまうので、ほとんどG氏に触れたことがなかった。にもかかわらず、G氏はいつも――雨の時でさえ――私が通りかかると、軒先からすっと身を起こして、いつでもフェンスに寄れるように、こちらの呼吸を窺ってくれたのである。
しっぽを振るでもない。舌を出して跳ねるでもない。キャンキャン鳴いて媚びを売るでもない。〝触りたいならいつでも触っていいよ〟と微笑むかのような、押しつけがましさと対極にある、落ち着いた身のこなし。
無関心を装いながらその実、私は毎回感動に近い気持ちを味わっていたものだ。あるいは、そんな私の心の動きをこそ、G氏は敏感に感じ取っていたのかも知れないが。
二年ほど前から、その家は元のオーナーが戻ってきたと見え、瞬く間に付近でも有数のこぎれいな邸宅に変身してしまった。庭にはレンガを組んで菜園と花壇が作られ、春先にはチューリップが、夏には向日葵が、というふうに、さながら天然色のデコレーションである。さりげないインテリアもなかなか洒落ていて、それはそれで通りかかる者の目を楽しませているのは事実だ。
けれどもG氏はもういない。
その角を曲がる時には、今でもG氏の茶色の巻き毛を期待している自分に気がつく。意識の底にどうしても喪失感を感じ続けてしまう。一生懸命庭の手入れに励んでいる現居住者御一同には申し訳ないけれど、どれだけ瀟洒なリニューアルを施そうと、今のその家はかつての〝G氏の館〟には遠く及ばない。百点満点の邸宅は、超人気スターを住まわせる廃墟に劣るのである。
あるいはG氏も、引っ越した先で、また多くのファンに囲まれた生活を送っているのだろうか。新しい生活に幸多からんことを願う一方で、またあの穏やかな黒い目と対面できたらなあ、と思う。そして、今度こそはふさふさの巻き毛に両手を埋め、心ゆくまでG氏との触れ合いを堪能したいものだ。
G氏の館 湾多珠巳 @wonder_tamami
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