だれにも言えない恋・後編

「――あれ小瀧こたきさん?」

「……おはよ」


 連休の初日である。

 時刻は八時十分。

 赤峰君は本当にいた。

 

「どうしたの」


 この後まっすぐ道場に行くのだろう、剣道部が背負っている何か馬鹿でかいリュックと、竹刀が入っているであろうやたら長いケースがベンチの上にある。


 黒いシャツにカーキ色のパーカーを羽織り、下は細身のブラックジーンズだ。いつも大きめの学ラン姿だからか、私服の赤峰君は何だか脱皮したみたいにすっきりしている。


「いや、その、手伝おうかな、って」

「もう終わるよ」

「そうなの?」


 だって八時くらいって言ってたじゃん! そんなすぐ終わるの?!


「それに、そんな恰好してたらさせらんないよ」

「えっ?」

「意外と泥とかはねるし、靴も汚れる」


 女子ってそういうの駄目でしょ、と言いつつ、水の出ているホースの先を持ったまま、蛇口の方へと向かう。そうか、一人だとその開け閉めが大変なんだ、と気付く。小走りで先回りして、蛇口を閉める。


「あ。ありがとう」

「ごめん、これくらいしか出来なかったけど」

「いや、助かった。水、もったいないしね」

「他に何かない?」

「他に――じゃ、ちょっとこっち持ってて。中の水が出るかもしれないから気をつけて」


 そう言ってホースを渡される。どうしたらいいんだろう、と思っていると、三メートルほど離れたところで、このホースが繋がっているリールのハンドルをくるくると回し始めた。ああそうか、巻き取っておかないと危ないもんな、とそれを見つめる。つい、と引っ張られる感覚があって、それにつられて彼に近付く。赤峰君との距離が縮まる度に、少しドキドキする。


「ありがとう、助かった」


 ホースを巻き終えた赤峰君が、ちょっとだけ口の端を緩める。よく考えたら、赤峰君が笑ってるところって見たことがない。


「助かったも何も、私ほとんど何もしてないけどね」

「蛇口閉めてくれたし、巻くのも手伝ってくれたじゃん」

「それだけだよ」

「まぁそうなんけど。ていうか、水撒くだけだから、そもそも人手なんて本当にいらないんだけどね」

「だけど、蛇口の開け閉めでもう一人はいた方が良いんでしょ?」

「……まぁ、いてくれた方が良いけど」


 でも、それだけのために来てなんて言えないし、と言いながら、赤峰君はベンチの上の荷物を背負った。そんな細い身体のどこにそんな力が――と思ったけれど、赤峰君は細いけれどもモヤシではないのだ。


「私も別に予定ないし、家も近いからさ。その、暇だったら明日も来る、と思う」


 それじゃ、俺行くね、と歩き始めた背中に向かって、そう声をかけると、彼は何だかものすごく驚いたような顔をして振り向いた。そして、私をじぃっと見つめた後、


「もし来るなら、汚れても良い恰好の方が良いかも。今日みたいに可愛い恰好してたら気遣っちゃうから」


 そう言って照れたように笑い、すたすたと行ってしまった。


「可愛い恰好……って」


 いや、そこまでは気合入れてませんけど?

 普通でしょ、普通!

 普通に最近の流行のやつだしね? 

 

 ――じゃなくて!

 わ、笑った……。ちょっと顔赤かった……。


 いや、もう普通に心臓に悪いし。

 ていうかマジで、こんな赤峰君、誰にも教えたくない。



 その翌日も、そのまた次の日も、私は朝八時きっかりにクラスの花壇に向かった。三日目からは赤峰君も私のことを待つようになった。花壇の前のベンチに座り、防具の入ったリュックに肘を置いて、静かに本を読んでいる。


「おはよう、赤峰君」

 

 そう声をかけると、彼はすぐに本を閉じて、


「おはよう、小瀧さん」


 と返してくれる。途中だろうに、何のためらいもなく閉じてくれるのもまた、ちょっと嬉しかったりして。


 ただ、ちょっと不満なのは、クラスの花壇の水やりなんていうものは、本当にあっという間に終わってしまうということである。もちろん赤峰君はこの後道場にも行くわけだから、引き止めることも出来ないし。まぁ引き止める口実もないんだけど。


 そんな日々が数日続き、結構長かった大型連休も残り二日である。

 明後日からは、また席が前と後ろというだけの関係に戻る。学校が始まればいまよりたくさん見ていられるけど、それは、野暮ったい学ランに身を包んだ、ボッチ眼鏡の赤峰君なのだ。そっちの方がたぶん彼の魅力は封じられるだろうから好都合ではあるんだけど、だけどちょっと寂しい気持ちはある。だって、学校での彼は、こんなに気さくに話しかけてくれたりしない。


 水やりを終えた後で、「小瀧さん」と声をかけられる。


「何?」

「何か今日元気ないね。やっぱり朝早いの大変なんじゃない? せっかくの連休だったのに」

「そんなことないよ! それにほら、明後日から学校だし? 生活のリズムが乱れなくて良かったっていうか?」


 あはは、と笑い飛ばすが、彼はそれにつられて笑ったりはしない。クラスの友達はこういう時、そう思っていなくても「だよね~」とか言ってくれるんだけど。


「小瀧さんあのさ」

「うぇ、何?」


 笑いもせず、同調もせず、いつもと変わらぬ淡々とした口調である。何か思わず「うぇ」とか言っちゃったわ。恥っず。


「明日も来る?」

「え、うん」

「明日はさ、俺、道場休みなんだよね」

「あ、そう、なんだ。あれ、じゃもしかして明日は来ない、とか?」


 うっそ、だとしたらぶっちゃけ私ここに来る理由ないんだけど。


「いや、来るけど」

「な、何だ。良かった……。私一人で水やりかと思って焦ったー」


 いや、それじゃ何? 道場が休みだから何?


「もし小瀧さんの予定が何もないんだったら、水やりの後、どっか行かない?」

「へ……?」

「予定がない者同士、水やり任務完了の打ち上げでもしようよ」


 時間が時間だから、ファミレス行くくらいだけど、と言って、赤峰君は目を逸らした。鼻の頭が赤くなっているのは日に焼けたからだろうか。この連休はとにかく天気が良かったから。


「小瀧さんが良ければ」


 見れば、鼻の頭だけじゃなく、顔全部を赤くしている。

 そんな顔を見れば、もしかして、と思わなくもない。


 衣替えなんて来なけりゃ良い。

 彼の、案外たくましい腕も、学ランを脱いでも実は広い背中も、誰も知らないままなら良い。


 だけど夏は来てしまう。


 だからせめて友達には、彼のことが気になるなんて口が裂けても言わない。

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赤峰君の脱皮 宇部 松清 @NiKaNa_DaDa

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