赤峰君の脱皮

宇部 松清

だれにも言えない恋・前編

 その背中を見つめて、一つため息を吐く。

 衣替えなんて来なければ良いのに、と思う。


 微動だにしない、ぴんと伸びたその大きな背中が、もぞり、と動いてこちらを向く。手には数枚重ねられたプリント。


「これ、回して」


 それが教師から配られたプリントだと気付くのに要した時間は0コンマ数秒。それでいまがLHRロングホームルーム中だったということを思い出す。


「あ、うん」


 それだけを返して自分の分をとり、後ろの席へと回す。

 

 内容は、明日から始まる大型連休ゴールデンウィーク中の心得、みたいな、まぁ正直こんなの誰が読むの? って感じのやつだ。辺りを見回してみても、そのプリントをじっくり読んでいる人なんてやっぱりいない。机の下に隠したスマホをいじっていたり、漫画を読んでいたりする。担任は気付いていないのか、それとも黙認しているのか、注意もしない。彼はドラマや漫画に出て来るような熱血教師じゃない。


 その彼が、ぼそぼそとプリントの内容を読み上げる。それを子守唄代わりにしてウトウトしていると――、


「それで、これは、強制ではもちろんないんですけど、もし出来れば、休み期間中にどなたか、クラスの花壇に水をやりに来てもらえると助かるのですが」


 そんな声が聞こえた。


 誰かが「そんなやつ、いるわけねぇじゃん」と言った。私もそう思う。だけれども、たぶん、彼は行くんだろうな。そんなことを思う。


 彼、というのは、私の前の席の男子だ。

 

 赤峰あかみねしゅうという名前の、ボッチ眼鏡君である。ハブられてるとか、そういうのではないと思う。特定の友人とつるんでいないだけで、お昼もたまに一人じゃないし、授業で組を作る時だって割とあっさり相手が決まる。選択的ボッチ、っていうのかな。いつも静かに本を読んでいて、そういう時は誰も彼に近付かない。近寄りがたいっていうか、なんか、邪魔しちゃいけない気になるのだ。


 それで、である。

 この赤峰君がなぜ花壇の水やりに来るだろうと思ったかというと、それは、彼が園芸委員だからだ。正しくは美化委員っていうんだけど、活動内容がほぼ学校周辺の花壇の手入れなので、何となく『園芸委員』と呼ばれている。

 

 もちろん委員会なので、他クラス、他学年にも委員はいる。だけど、真面目にこなしているのは彼だけという噂である。何せ、一番下っ端の一年生だ。他のクラスは女子が多く、日焼けが嫌、土いじりは嫌と何だかんだ理由をつけてはサボるらしい。


 園芸委員がいるんだから、園芸委員にやらせりゃ良いじゃん、そんな声も上がる。すると担任は、まぁ、そうなんですけど、とはっきりしない声で言ったのち、


「たまには美化委員ではなく、というか。仕事とはいえ、その、美化委員は毎日しているわけですから」


 とやっぱりもごもごとしゃべった。

 そんな態度だから、生徒に舐められるんだよ、とは思う。いっそ強制で、班でも何でも作って割り振れば良いものを、それもしない。


「だけどさ、赤峰は結構好きでやってんじゃん? 花壇の手入れさぁ」


 赤峰君の斜め前に座るお調子者の原田君が、こちらを向いて言った。

 私の前の広い背中が、もぞ、と動く。


「うん、まぁ。あの、先生。水やりくらいなら俺別に来ますよ、学校」

「それは、まぁ……助かるけど……。でも、せっかくの連休なのに」

「だけどそれを言ったら、俺らだってそうじゃん? せっかくの連休だしさ~。俺、家も遠いし~」


 確かにそうなのだ。

 せっかくの連休だし、バスや電車で通っている生徒にしてみれば、定期があるとはいえ、学校に来るだけでもかなり大変なのである。


「俺、家も近いし、別に大丈夫なんで」

「まぁ……じゃあ……」


 じゃあ、の先を濁してその話は終わった。

 じゃあ悪いけどとか、じゃあ頼むとか、その続きはあるべきなんじゃないのか。そこにイラついて、後の話は全部聞いていない。



「赤峰君さ」

「何」


 LHRが終わり、明日からの連休に浮足立っているクラスメイトがバタバタと帰り仕度を始める中、おっとりゆっくりと机の中のものを鞄にしまっている赤峰君に声をかける。


「ほんとに良いの?」

「何が」

「明日からの花壇の水やり」

「別に良いよ。慣れてるし」

「そうだろうけどさ」

「特に予定もないし」


 それを特に残念がる風でもなく、さらりと言って、じぃぃ、とチャックを閉める。


「何時くらいに来る感じ?」

「何時? あぁ、水やりね。そうだな、朝……八時くらいかな」

「早っ!? そんなの登校時間いつもと変わんないじゃん!」

「休みの日でも関係なく目が覚めちゃうから。それに、終わったらそのまま行くところあるし」


 よいしょ、と言って、ずしりと重そうな鞄を肩にかける。それじゃ、と言うのに被せて「あるんじゃん」と割り込めば、赤峰君は怪訝そうな顔で「何が」と首を傾げた。


「予定。水やり終わった後、行くところあるんでしょ?」


 もう帰る気だったのだろう、赤峰君は歩き始めたけれども、まだ会話の途中だからとその隣をついて行く。大丈夫、これくらいは全然クラスメイトならよくあるコミュニケーションだ。


「あぁ。まぁ、行くところっていうか、道場」

「道場? 空手とか? 連休なのに?」

「いや、剣道。連休とかあんまり関係ないから」

「赤峰君、剣道やってんの?」

「うん」

「学校の剣道部じゃなくて?」

「そっちに入っても良かったんだけど、剣道部の顧問の先生って、ウチの道場の師範のお弟子さんらしくて。だから、高校でも続けるならそのまま道場の方に通えって、師範から顧問の先生に話してくれたんだ」

「へぇ」

「道場は学校のすぐ近くだし、どっちにしろ毎朝通うからさ。ついでに水撒くくらい、なんてことないよ」


 それじゃ、と今度こそはっきり告げられ、すたすたと行ってしまう。

 彼の背中がぴんと伸びている理由がわかった気がした。そうか、剣道をしているからなんだ。


 その背中を見て、誰一人、彼の魅力に気付かなければ良いのに、と思う。


 中学生ほどではないけれど、高校一年生もまだ、親からすれば伸び盛りの子どもだから、私も含めて皆、制服はまだちょっと大きい。特に男子は、着せられている、という言葉がしっくりくるほど大きな学ランを着ている子もいたりする。赤峰君もそこまでではないものの、やはり成長を見越して大きめの学ランを着ている。背中が大きく見えるのはほとんどそのせいだ。


 だけど私は見てしまったのだ。

 

 入学して数週間が経ち、四月にしてはかなり気温が高かった日のことだ。園芸委員である彼が、花壇の手入れをしているのをたまたま見かけたのである。真新しい学ランを丁寧に畳んでベンチに置き、下に着ているワイシャツの袖を捲って、ぶちぶちと雑草を引き抜いているところだった。


 一般的に『眼鏡君』のイメージといえば、色白で、ガリ勉で、ひょろひょろのモヤシみたいな身体で、運動はからっきしで――、って感じだと思う。確かに彼は色白ではあるし、着せられてる感満載の学ラン姿から推察される彼の身体はモヤシそのものだったし、勉強も結構出来るっぽかったから(体育は男女別なので運動神経はよくわからなかったけど)、そのイメージ通りの『眼鏡君』だと思ったのである。


 けれど、そうじゃなかった。


 学ランを脱ぎ、サイズのきちんと合ったシャツを肘まで捲った彼は、何ていうか、普通にたくましい男の子だった。針金みたいと勝手に思い込んでいた腕も案外太かった。絶対に重いだろうと断言出来る肥料の入った袋も軽々と持ち上げている。


 我ながら、本当にチョロいやつだとは思う。

 その自覚はある。

 だけれども、本当に嘘みたいに、彼のことが気になるようになってしまった。気になる――というか、たぶん好きなんだと思う。多分でも何でも、好きなら恋。


 連休が明けて六月が来たら衣替えだ。

 赤峰君が学ランを脱いで、実はイメージ通りの『眼鏡君』じゃないとわかったら、もしかしたら、私みたいに彼に注目する子が現れるかもしれない。


「最近、〇〇君が恰好良いって思うんだよね」


 これくらいの軽い話でも、女子という生き物は、その〇〇君に興味を持つ。最初はもちろんただの『興味』だ。えぇ、〇〇君? 私はそう思わないけどな。でも、あの子が言うならそうなのかも。どういうところが良いんだろう。そんな気持ちでそれとなく注目するうち、いままで気付かなかった彼の良さを知ってしまったりして、それで、最終的には――、


「ごめん、私も〇〇君、好きになっちゃったかも」


 こうなるのだ。

 これまで、それで何人取られて来たか。


 だから、絶対にこの恋は誰にも言えない。言わないと決めたのだ。彼はまだ野暮ったい学ラン姿の、ボッチ眼鏡君で、園芸委員なんて地味な委員会で、花壇の手入れなんて面倒なだけの仕事を押し付けられている目立たないクラスメイトなのだ。

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