第104話 新任捜査員
ミケランジェロは旧市街を歩いた。
日曜の朝でも開いているバールを探していた。宿泊先の朝食に飽きて、久しぶりに外で
大通りの角に営業中の店を見つけた。注文して待つあいだにポケットからスマートフォンを出し、思わず苦笑する。画面上にはもう、例のアプリのアイコンはない。寝る前に思い切って削除したのに、いつもの習慣でつい立ち上げようとしてしまう。
客は常連と思しき数人の男と、観光客らしい老年のカップル、そしてカウンターに軽くもたれている黒髪の女だ。
ずっと電話で話している。
「……ええ、フィレンツェは大好き。何年ぶりかしら」
ノースリーブの白いワンピースに同じ色のつば広の帽子。顔は見えなかったが、気品のある立ち姿はのどかな日曜のバールで異彩を放ち、他の客もちらちら彼女を見ている。
「夫がこっちで仕事だから、ついてきたの。そう、例の代議士の弁護よ。驚いたわよね、あの人が麻薬密輸なんて」
ミケランジェロは粉砂糖がかかったブリオッシュとカプチーノを持って外に出た。テーブルがひとつだけ空いていたのでそこに置いた。
大学教授殺人とそれに続く事件の犯人の逮捕は、もうオンラインニュースの記事になっている。
月曜からの仕事をモレッリ警部に渡されたときは戸惑った。来週も
記事の要約に目を通していると、前の椅子に白い手が触れた。
「ここ、よろしいかしら」
さっきの女の声だった。
「どうぞ」
笑みを浮かべて言おうとし、ミケランジェロはその手から目が離せなくなった。
見慣れたアクセサリーが手首に
イルカのチャームがついた金のブレスレット――彼女が投稿でいつも身につけていたのと同じだ。
女は電話しながらミケランジェロの向かい側に横向きに腰掛けた。
「……ええ、ホテルに泊まってる。夫は今日帰るけど、私はもう2、3日いようと思って。最近ちょっと慌ただしかったし……ゆっくりするつもり。これから散歩するの」
ミケランジェロは女の横顔を見つめた。また別人と間違えているのだろうか、いや、もうそんなことはない。
2日前の投稿が頭に浮かんだ。
ふたつ並んだスーツケース。搭乗前のひととき。
夫は弁護士だ。
てっきりエーゲ海でバカンスだと思ったのに……けど、考えてみれば行き先はどこにも書かれていなかった。海に行ったというのは単なる思い込みで……
画像の背景がフィレンツェの空と似ているように見えたのは、実際に彼女もこの街にいたからで……
女は通話を終えた。電話をバッグにしまいながら腰を上げ、ミケランジェロを見てふふっと笑みを浮かべる。
「坊や、顔に粉砂糖がついてるわよ」
口が半開きで何も言えないでいるミケランジェロを残し、女は日差しの中に姿を消した。
―― 了 ――
万年警部と殺しの流儀 橋本圭以 @KH_
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