洋行

 日が暮れたころ、誠太郎は我が家の玄関に上がった。「お帰りなさい」という御静の声に幾分か救われた気がして履物と洋服を脱いだ。居間に上がって、行李こうりに畳まれた服を取って兵児帯へこおびを締めたあたりで、奥の部屋から脱いだ洋服へ刷毛ブラシを掛ける音が聞こえてきた。どうしてか彼はむず痒いものを感じた。彼は教師の端くれとして、洋行の命を賜って独逸ドイツで学んだことがあるが、どうも西洋の自由な気風に触れてしまうと、こう違和感を覚えるらしい。襖をあけて、

「御静、今日はおれがやるから。途中かけの縫物があるだろう、そっちをやりなさい」と声をかけると、いくらか当惑したように、

「でも良くって? 今日は御疲れでしょう。休んだ方がいいわ」と答えた。

 誠太郎は無言で手を突き出すと、しぶしぶといった様子で手渡された。

 その日の晩飯を、彼は落ち着かない様子で手早く済ませたあと、すぐに書斎に引きこもった。先だって活けた百合の花が甘く香っていた。書棚から洋書や、向こうで遣り交わした横文字の書簡をいくらか取り出して目を通してみて、気づかぬうちにそれなりに時間を過ごしてしまった。襖を開ける音に振り返ってみると、洋燈ランプを手に御静が顔を覗かせて、

「御勉強? もう御休みにならなくって?」と声を掛けるから、本を適当に片付けて立ち上がりながら、

「独逸のをいくつか読んでいた」と答えると、

「何か面白いことは書いてあって?」と訊くから、

「まあ、向こうの人たちにとってはそれが当たり前なんだから、特別書いたりはしないだろうな」と半分独り言ちるように答えると、判じかねて答えに窮したとみえて、少し黙ってから、

「男の人は難しいことを言うのね」と苦笑して、誠太郎を廊下に通した。

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