四 加賀唯人

「兄さんを殺すの」

 彼女がそう言った瞬間、僕の頭の中でデジャブが起きた。

『あいつを殺そうって思った』

 遼の言葉がよみがえる。

 高校で知り合った彼はアライグマみたいにおっとりした顔をしているがその実、はらの中に溜め込んだ暗いものや気性の荒さを隠していた。普段はおとなしい優等生であり、クラスの輪に溶け込むのが上手くこれといって輪郭のない人間だったが、二人きりになると僕にしか見せない顔をする。

 それまでの僕らはクラスが違うものの何度か選択科目で顔を合わせる程度の仲。

 遼は英語が得意だった。僕も外国語分野に興味があったから図書室で調べ物をする際に話しかけたのが始まりだ。二年に進級してクラスが同じになれば、自然と二人で行動していた。

 彼は仏のごとく優しい人間で頼めばなんでも聞いてくれ、数人の友人たちとファミレスへ行った時なんかは気前よく全員のドリンクバー代を払うなど、ちょっとやりすぎなほどいいやつだった。彼が怒るところを見たことがなく、いつでも愛想よくしているものだからそういう人間なんだろうなと思っていたのだが──遼の本質を知ったのは、その年の夏休みだ。

 遼に借りた本を返すため会う約束をしていた日が家族旅行の日だということをすっかり失念していたので連絡もなしに来てしまった。

 家の近所まで自転車を走らせてようやくスマートフォンで遼を呼び出したら、彼が慌ててアパートから出てきた。僕は笑顔で手を振ったが、すぐに顔が引きつった。

 遼の顔に大きな青あざがあり、それは真夏の空の下にそぐわない鬱屈とした闇を伴っている。どうしたんだよそれ、と訊いたら彼は不機嫌たっぷりに歪んだ言葉を吐き出した。

『母親の彼氏にぶん殴られて。おまえが来てくれなきゃ、殺してたかもしんない』

 それは冗談が得意な彼にしては笑えない言葉だった。

 寝ていたら急に殴られたのでやり返したら大喧嘩に発展したらしい。まさかあの仏みたいな遼が裏ではおとなの男を相手にケンカしているなんて誰が思うだろうか。いいや、ケンカなんて生易しいものじゃない。この現実がフィクションのように思えてしまったが、その頃の僕はすでに遼のとりこになっていたから、たっぷりな同情で慰めたと思う。あまり覚えていない。遼がかすかに泣いたから義憤に駆られた。僕も見知らぬその男を殺したいと考えていた。

 二人がかりでやれば相手もおまえに手を出さないよ。そんなことしたら俺が母親に殺される。おまえんち、なんでそんなにヤバいんだよ。知らない、いつの間にかこうなってた。

 冗談なんかじゃなく真剣に話していくうちに僕の中で遼という存在が大きくなっていく。

 僕の好きな人はたった一面の存在でしかなかった。そして彼が抱えるものを受け入れるのに僕の器では容量が足りないことを悟り、一方的に傷ついた。

 他者を理解するには多面的な解釈が必要だ。表面を見ているだけじゃ、その人物のすべてを語ることはできない。僕は遼のすべてを知りたい。

 それから僕たちはより一層近い距離にいた。遼が誰に対しても人当たりよく接しているのは自衛のためだ。その弱みともいえる一面を勝手に引き出した僕を警戒しつつも心の拠りどころを求めていたし、僕は僕で遼を守る使命感を持っていたので、いつの間にか感情や思考すべてを共有するようになった。

 高校を出て同じ大学に通うこととなり、それなら一緒に住もうかとトントン拍子に事が進んだが、それはある日突然終わりを迎える。

 父親が死んだらしいと言い出した遼の横顔にはなんの感情も見いだせなかった。

 遼が五歳の時に父親が若い女と不倫し、その女と子供ができたから離婚したという話は聞いていたので僕も遼と同じ温度の感情しか湧かなかった。そもそも遼が生まれてから両親の仲が悪くなり、父親は片手で数えるほどしか遼と接することはなかったらしく離婚した後は一切会っていない。それでも渋々ながら父親の葬儀に参列しにでかけていった。

 やがて彼は蒼白な顔で帰ってくる。

『本当に死んでたよ、俺の親父』

 口では冗談めかして言うのだが、その奥底には他のものが潜んでいるように思えた僕は何があったのか訊く。すると彼は短く答えた。

『俺の妹がいた』

 それはろくでもない父親とろくでもない女から生まれた娘であり、遼の腹違いの妹だ。

 その子に何かしたのか、さらに問うと彼は顔を歪ませた。

 瞬時に悟る。あぁ、やったんだな。案の定、遼はうつむき加減に話し始めた。

『別に今さら父親に対する感情なんかないし、むしろまったく覚えてないから勝手に死んでてもいいんだけど、喪主やってるあの女と娘を見てたらさ、無性に怒りが湧いて。俺が苦しんでる時にあいつらはいい夢見てたんだなって。それほどいい葬儀だったんだよ。俺の親父はろくでもないくせに愛されてたんだ。だからまぁ、つい言っちゃったんだよ。妹に。五個も離れたクソガキに、おまえは二番目の子供だよってわざわざ教えたらさ、ものすごく怯えた顔したんだ』

 それから遼は深いため息をついてタバコに火をつけた。喪服に匂いがしみつくよ、そんな注意を言葉に置き換える間もなく遼は煙を吐き出して悲しそうに言った。

『悪いことしてしまった。おとなげなかった。あいつは悪くないのにな。でも、あいつを殺そうって思った。あいつがいなけりゃ、世界はまだ俺に優しかった可能性があっただろうに。なんで生まれちゃったんだろうな』

 妹ができなければ、遼の父親はやり直せたのかもしれない。元通りとはいかなくとも、遼のことを考えてくれたかもしれない。遼の母親も息子に無頓着ではなくもっと寄り添ってくれていたかもしれない。話し合えば解決できてたかもしれない。幻想的な希望論だけがどんどん生まれていき、ただただ虚しくなる。

 同時に異母妹の母親は出生について教えていなかったのだと気がついた。それもそうか。自分が生まれる前の話なんか聞かされなきゃ知りようがない。自分が存在する前にも物語があるなんて想像しながら生きている人はそうそういないだろうし、ましてや自分のプロローグがタブーによるものだったなんて知りたくないし知らせたくない。

 遼、おまえの感情は正しいよ。妹が憎いのは生理的なものなんだから、これ以上自分を責めないでくれよ。

 そう言えばよかったのに僕は諭すどころか遼の苦しみを共感したせいで咄嗟にひどいことを提案した。

『遼は何もしなくていいよ、僕がなんとかしてやる。おまえの望みは全部僕が叶えてやる』

『なんだよそれ。なんとかって、おまえがあいつを殺してくれるの?』

『あぁ』

 すると遼は静かに笑った。ただ笑うだけだった。

 数カ月後、大学を辞めた遼が僕の前から消えてしまうまで、僕は本気で彼の妹に対する殺意を持っていた。


 なんの因果か、遼の異母妹である椎葉愛凪も今、彼と同じ言葉を吐き出している。

 まったく君たちはそういう部分だけ似たもの兄妹なんだな。そんな意味を込めて、僕はそっけなく「何それ」とつぶやいた。

 すると愛凪は照れたように笑いながら言った。

「二年前に思いついた愚策だよ。殺してやりたいって思ってたんだけど、これがまた憎たらしいほどパパにそっくりな顔で……だから昔、仲良かった後輩に『代わりに殺してよ』って言っちゃった。死んでないけどね」

 確かに遼の顔は父親にそっくりだ。一度写真を見せてもらったけど、人は見かけによらないんだなという粗末な感想しか思い浮かべられない。

 愛凪は僕の心を読もうと目を凝らしていた。彼女の顔は一ミリも遼に似ていないが、思考がそっくりだから動揺してしまう。

 きっと彼女も遼と同じ苦しみを抱えているのだろう。やっぱり他人は多面的に見なければならない。本当に彼女と話せて良かった。

「それで、僕が君のお兄さんを殺せばいいんだね」

 気がつけば口がそう提案していた。

 きっとデジャブのせいだ。僕がそうすれば君たちは苦しまずに生きていけるんだろうか。その答えが知りたい。

 僕の言葉に彼女はしっかりと頷いた。


 ***


 愛凪ではなく遼を殺すことにした。これは正当な取捨選択の結果である。

 ただ彼女は僕の思惑を冗談だと軽んじているようで、真剣さがかけらもない。しかもなぜか懐かれてしまった。

 学校が終わって一度家に帰ろうとしたが、なんとなく繁華街の方面へ向かうと愛凪にばったり出くわした。ばったり、というのは語弊があるな。僕は彼女の行動範囲を知っていたのでわざと会えるように向かったら案の定出会えてしまったというのが正解だ。

 これも何かの縁だから、と彼女は機嫌よく言い、僕も都合が良かったので近くの喫茶店で話でもしようかと提案したら男子高校生に絡まれてしまい、なんと愛凪の彼氏らしく修羅場に発展しかけ──

「椎葉さん、彼氏くんが気の毒だよ。しかも別れの口実に使われるのは嫌だ」

 愛凪の彼氏が捨て台詞を吐いて帰ったあと、僕らは向かい合っていた。愛凪は足を組んでふんぞり返っている。

「だってこうでもしなきゃ、山瀬は私のことを許しちゃうもん。だからちょうど良かったんだよねぇ。加賀さんのおかげだよ。ありがと」

 にっこりと媚びるように笑う彼女に僕はげんなりとし、深いため息をついた。

 あーあ。山瀬くん、ごめんな。君の純粋な思いを裏切るようなことをして。だが、彼に僕のセクシャリティを明かしてまで誤解を解くほどでもない。それよりも彼女こっちだ。

「椎葉さん、悪いけど僕に懐くのはやめたほうがいいよ。ていうかやめてくれ」

「そんな嫌がらなくても……あーね、彼女いるんだ」

「彼女はいない」

 つい即答すると、愛凪は頬を膨らませた。

「なーんだ。略奪できるかと思ったのに」

「……君、そこまで親の真似がしたいの?」

 彼女は立派な彼氏がいながらおとなの男をターゲットに淫らな行為をする。それを知っているらしい山瀬の気持ちもよく分からない。たった五つ離れているのに年下の思考回路は理解不能だ。

 あるいは山瀬も愛凪の援助交際が本気じゃない行動だと知っていたのか……彼のあの嫉妬は本物のはずだが見当違いだったのかも。僕の罪悪感を返してほしい。

 そう考えていると、愛凪の唇が迷うように開いた。

「真似っていうか……ただ知りたいだけだよ。でないと私はいつまで経ってもママとパパを許せないから」

 彼女はさらに続ける。

「兄さんが出てくるまで、私はずっと騙され続けたんだと思うんだ。別にそれでもいいし、そうすれば私は自分を嫌いになる必要もなかったよね。誰かの不幸を踏み台にしてることも知らず悠々自適に暮らしてたんだろうなぁ……これでもいっぱい考えたんだよ。私がこれからどうやって生きていけばいいのかを」

 足りない頭で必死にね、と最後に自虐を添えると彼女は照れたように目を伏せて甘ったるい飲み物を吸い込んだ。それを僕は呆然と見つめた。

 率直に健気だなと思う。ただやり方が間違っている。ひどく哀れになると同時に苛立っていく。なぜか今、僕の頭では自衛のために身を削る遼を思い出していた。これもきっと自傷行為のひとつ。横で見てるこちらまで心がかき乱される。

「あのさ」

 声を落とすと、彼女は優しい顔で「ん?」と反応する。

「話を聞いてる限りだと、君のお兄さんより君のほうがたくさん愛されてるんじゃないかと思う。それなのに、そこまでしなきゃいけないのか? だって君のお父さんは君を選んだんだろ。それだけで十分じゃないの」

 愛されなかったほうに比べれば、君は幸せだったのに。何も率先して不幸にならなくてもいいのに。まぁ、それをぶち壊したのが遼なんだけど。

 すると、彼女は両目を見開かせて僕を凝視した。思いつかなかったんだろうか。必死に生き方を考えた割に、その部分はまったく見えていなかったのか。今初めてその解釈を得たとばかりに彼女は固まっている。

「……帰る」

 そう言って愛凪は慌ただしく僕の前から消えた。


 もし、彼女が僕の前に現れなくなったら──ここまでの計画がすべて台無しだ。あれは失言だった。どうしても遼に肩入れしてしまい感情が先走って仕方ない。

 僕だって遼を死なせたくはない。でもそうしなければいけない。そのために愛凪が必要で、準備を重ねてきたのに。

 家に帰ると、遼がベランダにいた。

「おかえり」

 やけに機嫌よく声をかけてくる。

 彼は二年前、僕の前から勝手に消えたくせに、突然戻ってきた。ほんの二週間前のことだ。

 僕の感情を無視して奔放にする。それでもいいと願っていたが、いざ目の前にすれば憎たらしさが湧き上がってくるのでやるせない。僕は黙ったままリビングに潜り込んだ。

「どうした唯人、機嫌悪いな」

 ベランダから部屋に上がってくる遼が不審そうに訊いた。

「椎葉愛凪に会ってた」

 意地悪に返すと、彼はわずかに息をのんだ。しかし、すぐに気を取り直して僕の背後に立つ。

「タイムリミットが近いからな……なるべく早くやってくれよ」

 おどけるように言う遼。どんな顔をしているかは知らない。僕は「分かってる」とそっけなく答えてテレビをつけた。

 やがて遼が「寝る」と言って寝室に消えていくと、詰まっていた息が無意識にこぼれた。

 もし、彼女が僕の前に現れなくなったら──その時はまた一からやり直すしかない。この二週間がすべて水の泡だが仕方ない。

 愛凪に会うためずっとあの団地付近を見張っていた。何度も彼女の母親と話をした。でも、何度会っても同じことの繰り返しだった。

 愛凪の母親は頑なに拒んでいた。それもまぁ、そのはずで夫の息子の友人がどれだけ頼み込んでも娘に会わせる気はなかった。

『お願いだから、あの子に関わらないで。愛凪がこれ以上つらい目に遭うのは嫌なの』

 何度言われただろうか。娘のことだけしか考えてなさそうだが、いい母親だと思う。

 その振る舞いももしかしたら娘に対する罪滅ぼしなのかもしれないが、それ以上の愛を感じられた。

 遼のことを話せば、最初こそ彼女は僕の話に応じてくれて二人で話すことができた。

 やや斜めに構えた様子で彼女は早口に言う。どうして望まれない子供を産んだのかを。

『私があの子を産むと決めたのは、私が十代の頃に堕ろしたことがあるから。人生で初めてできた子供を殺してしまったのよ。だから次の子は絶対に産みたかった。そりゃ夫にも最初は反対された。私たちの関係は許されないからね。でも、たとえ周囲から望まれてなくても私だけは望んだの』

 耳障りな身勝手さと同居した悪気のない親の愛情。それを真正面から浴びた僕は正直苛立っていた。「不倫でできた子だって知った娘さんは苦しんでるんじゃないですか?」と意地悪に訊くと彼女は怯まずにしっかり答えた。

『それはなんとかしたいけど……でもあの子は大丈夫よ。私は愛凪を信じてる』

 無責任にも思えるが、その意思には驚いた。

 この人の目は曇りのない芯の強さがあり、だから遼の父親も彼女を選んだのだろう。だからこの人たちは幸せだったんだろう。それを娘にも話せばいいだろうに、彼女はその選択をしない。

 ミルクティーに砂糖を足しながら椎葉愛凪の母親はぽつりとつぶやいた。

『これ以上、あの子に背負わせたくないから』

 親の愛情は本物だと思う。はじまりがどうであれ、愛凪は愛されている。それを彼女も分かっているから苦しい。こんなこと、遼には絶対に言えやしないけど。

 夕食とシャワーを済ませて、遼が占領している寝室を覗く。

「遼」

 声をかけてみるも、返事はない。僕のベッドに仰向けで眠っている。静かに近づき、彼の口元に耳を傾けると小さな寝息が聞こえてきた。規則正しくも微弱な音を確認し、その横に布団を敷いて眠りにつく。


 ***


 翌日、彼女を駅周辺のカラオケ店前で見かけたが、友達をはべらせていたので話しかけることはできなかった。おそらく彼女も僕との接触を避けようとするために友達と遊んでいたのだろう。

 仕方なくアルバイトに出かけ、今担当している家でたっぷり英語を教えたあと、家に帰るためクロスバイクを走らせた。

 ただただ遼のことを考える。なんて言おう。愛凪から警戒されてしまったと素直に言ったら怒るだろうか。失望させてしまうだろうか。僕に散々気を使わせて、何も言わずにいなくなって、自分勝手にまた居座り始めて。

 彼がいなくなってしばらく茫然自失だったが、なんとか立ち直ってバイトもたっぷり入れて忘れようとしていたところに帰って来るなんて都合がいいにも程がある。そんなひどい男から嫌われるのが怖いと考えてしまうなんて、僕もどこか悪いのかもしれない。

「加賀! 加賀唯人!」

 誰かを通り越した時、突然乱暴に声をかけられた。

 急ブレーキをかけて振り返ると、ストレートヘアをなびかせて小走りに駆け寄る愛凪の姿があった。驚いてバイクから降りてスタンドで停めると愛凪が到着した。

「ここ通るかなぁって思ったから。ほら、この公園」

 彼女は小さく呼吸を整えながら道路の向こうにある公園を指した。彼女と初めて話したあの暗い公園だ。

「呼び捨てってどうなんだよ」

「だって何度も『加賀さん』って呼んだのに気づいてくれなかったもん。必死に呼んだらやっと振り向いたよね」

 そりゃ、こんな夜道で若い女からフルネームを叫ばれたら振り向くに決まってる。

「ごめん、気づかなかった」

「いいよ別に。お疲れ様」

 そっけなく言う彼女は昨日あからさまに拒絶したような素振りを見せず、それでいてわずかに距離を取っているようなよそよそしさを醸し出しながら僕に近づいた。

「昨日、加賀さんに言われて考えたんだよ」

「ふーん。答えが出たの?」

 訊いてみると彼女は残念そうに首を横に振った。

「なんか、目からウロコが落ちた感覚だったけど、それでもパパとママを許せる材料にはならなかった」

「まだ足りないのか」

「ううん、そうじゃなくて……これってさ、もしかして時間が解決するやつじゃないかなって。二年前の私は確かに周りの人みんなが憎かった。みんな信用できないって思ってた。でも山瀬に会って、おじさんたちとも出会って考え方が変わったし、経験すれば分かることもあったし、それにパパが死んで二年も時間が経てば当時の感情がだんだん離れていったの」

 サドルをポンポン叩きながら彼女はやや興奮気味に話す。

 それはつい最近までどんよりと曇った目で見知らぬ男に体を明け渡そうとしていた人間と同一人物には思えなかった。もしかすると、僕のあの迂闊な言葉のせいで兄への執念が薄れてしまったのでは。

 そんなことを予感し、僕は言葉を迷いながら口を開いた。

「じゃあ、もうお兄さんのことはいいの?」

「うーん……」

 いや、まだ迷っている。だったらこちらに引きずり込むまで。

「僕は結構本気で君のお兄さんを殺すつもりなんだけど」

「そりゃ、やってくれるんなら万々歳だよね。あいつは絶対許さないし、そんな簡単に許せるはずがないよ。兄さんもそうでしょ、私のことを絶対許さない」

 迷った割には即答が返ってきた。

「だから計画は進めようよ。それで、兄さんの居場所は分かったの?」

 彼女はどうやら遼が失踪したと思い込んでいる。つい最近、母親が電話で話していたことを盗み聞きしたらしい。

 愛凪の父親が死んだあと、椎葉家と高松家は金のことで時折連絡を取り合っている。その際に遼の話題が出たのだろう。今、彼がどこへ消えたのかを知るのは世界中でただ一人、僕しかいない。

「あぁ、突き止めたよ。バイト中に情報をいろいろ探ったんだ」

「そんな簡単に情報を仕入れられるもんなのね。家庭教師、見くびってたわ」

 普通の家庭教師がそんな情報通なわけがないだろ。簡単に騙されてくれる彼女に申し訳なくなり苦笑を返す。

「教え子がたくさんいるから人脈は広いよ。それに高松くんとは学部も一緒だったからさ、共通の同級生がいるんだ」

「へぇぇ」

「高松くんの居場所は割と近くだよ。今からでもすぐ行けるけど、どうする?」

 まだ替えられていない電球はすでに息をしていない。車通りが減り、信号もそろそろ今日の役目を終えようとしている中、愛凪の顔色が青いLEDに照らされて白い。恐怖を浮かべる彼女だが、意を決したようにゴクリとつばを飲んで頷いた。

「行く」


 ***


 凶器はどうするの。それは僕に任せてくれればいいよ、君は何も知らないってことにしたいし。でも私のせいで捕まる。別にいいよ、君のヒーローになれるならこの経験は糧だ。

 そんな話をしっぽりしながら夜道を二人で歩く。

 まっすぐまっすぐ、長い道がまるで死への旅路のように思えていき、ハンドルを握る僕の手まで汗ばんでいた。隣にいる彼女は時折鳴るスマートフォンの通知に苛ついていた。

「出なくていいの? お母さんじゃない?」

 堪らず訊いてみると彼女は渋々、ジーンズのポケットからスマートフォンを出した。画面を見て「えっ」とつぶやく。

「何?」

「いや……なんか、元後輩から急に鬼電きてて。わ、メッセージもきてる。なんなの」

 元後輩──遼を殺すことを考えている中、突然出てくる登場人物を思いつくのに時間がかかった。愛凪は「今日、久しぶりに会ったんだよね。なんの用だったか分かんないけど呼び止められて。逃げちゃったけど」とブツブツ言いながら画面をスライドさせてメッセージを見た。

 僕は「ふーん」と思案しながら返事する。と、彼女が急に立ち止まった。反応が遅れてしまい、数歩先で振り返る。

「どうした?」

 歪んだ顔つきを見て、僕も急に「元後輩」という女の子のことを思い出す。過去に一度、臨時で家庭教師をした子。あの時は偶然の再会で、もし覚えられていたらどうしようと思ったものだが、どうも彼女は僕のことを忘れていたようなので警戒されることなく仕事ができた。あの緊張感を今、唐突に思い出している。

 それを悟ったか愛凪は早足で僕に詰め寄り、スマートフォンの画面を目の前に押し付けた。

「ねぇ、これほんと?」

 そこには僕が遼とつながっていることを知らせる警告文が並んでいた。

「じゃあ、ほんとなんだ。騙したの?」

 僕が何も言わないからか、彼女は激しく詰問する。

「私をどこに連れて行くつもり?」

 もうこうなったら手段を選んでいられない。

「僕の家。そこに遼がいる」

 自分でも驚くほど低い声が出た。それに対し、彼女は嫌悪をあらわにして怒る。

「そこで何をするつもりなの? 私を殺す? もしかして、遼があんたを使って私をおびき出してる? そうなの?」

「なんだよ、その想像力。たくましいな」

「ふざけんな! いいから答えてよ!」

 今にも掴みかかってきそうなほどの剣幕だ。しかし華奢な少女一人を相手にしたところで怖くもなんともない。無理やり連れ去ることだって可能だが、そこまでしてこの計画を実行するのは僕も遼も本意じゃない。

「……君のお兄さんを殺す。最初からそう言ってるだろ」

「どうしてよ。友達でしょ? しかもあんたの家にいるって、それくらい仲がいいってことじゃん。なのに殺すの?」

「殺すよ。僕ももう嫌気が差してるんだ。あいつを殺したい。そのために君を利用した。こう言えば信じてくれる?」

 淡々と答えると彼女は絶句した。目を見開いて僕を凝視する。その隙きを突いて彼女のスマートフォンを取り上げた。

「返して!」

「ダメ。終わるまで返さない」

 スマートフォンを掲げて彼女の手が届かない位置で素早く画面を見やった。木崎燐音。やっぱりあの子か。

 メッセージを送りつけてポケットにしまい込む姿はどう見ても愉快犯のようであり、その様子を愛凪は悔しげに見つめている。

「何を送ったの?」

「秘密」

「……意味分かんない」

 それでも彼女は逃げずに僕の横を歩く。スマートフォンを取り返したいだけとは思えないが。

「……私を利用して遼を殺すって、あんたたちに何があったの? それって遼の失踪に関係ある? あいつが消えたのはあんたが監禁してるから?」

「本当に想像力豊かだね。小説家になれるんじゃない?」

「小説家はあんたでしょ。ねぇ、もしかしてそれも嘘?」

「あぁ」

 平然と答えると彼女はまた黙り込んだ。顔をうつむける。

「……はぁ、最低。なんで私、こんなやつに騙されてんの」

「お兄さんを殺したい君に言われたくないな」

「私を助けてくれたのも嘘? 私に近づくために助けたってこと?」

「うん」

 まっすぐ前を向いているから彼女の顔は分からない。きっと僕の顔も分からない。

「そんな僕の素性を知っても逃げないんだね」

 静かに訊いてみると彼女はわずかに言いよどんだ。逡巡し、ため息をつく。

「そりゃ、あいつを殺してくれるんならね。私を利用していたんだとしても。だったら私も利用したいじゃない」

 その答えに僕はため息をついた。

「ブレないな」

 呆れて笑うと、彼女はひどく残念そうにつぶやく。

「……全然ヒーローじゃないじゃん」

「だから言ってるだろ。僕はヒーローになれないんだって」

 家に近づくたび喉が強張っていき、緊張で手が震えそうになる。それをどうにか見えないよう振る舞わなくてはいけないのが億劫だった。

 いくつかのアパートを通り過ぎていく間、もう僕らは無言になっていた。この時間が永遠に続けばいいのにと願っても家が見えてくる。

 ほのかな灯りが点々とある二階建てのアパート。その二階。角部屋。ベランダには遼の姿がなく、すでに就寝していることが窺える。彼は家に帰ってきてからほとんど外を出歩かず引きこもっている。

「あそこが僕の家」

 アパートを指差すと、傍らの彼女はビクッと肩を上げた。

「怖い?」

「まさか」

 嘘ばっかり。こんなの誰だって怖いに決まっている。

「やっぱ嘘。怖い」

 慌てて訂正する彼女に僕は思わず噴き出した。

「僕もだよ」

 笑いながら返すと彼女は「えっ」と驚いて僕を見上げる。

「ほら、手が震えてる」

「ほんとだ。それなのに、殺しちゃうの?」

「うん。そうしないといけない」

「……やっぱ意味分かんない」

 呆れる彼女の頭をポンと叩き、一歩踏み出した。家に入る。その後ろを彼女もついてくる。静かに忍び寄り、僕は台所に仕舞ってある包丁を出した。背後に控える彼女の顔はまったく分からないが、確認する間もなく電気をつけずに寝室へ向かった。

 心臓の音がうるさい。耳の奥にまで鼓動が迫っていて集中できない。

 いつものように遼の口元に耳を近づけて呼吸音を確認すると、背後でようやく彼女が近づいてきた。そして息を飲んだ音がはっきり響きわたった。

「椎葉さん」

 静かな空間で、僕の声が唐突にはっきりと輪郭を帯びる。これに愛凪は声を押し殺すように口元を両手で覆った。まるで自分の呼吸音すら漏らさないよう注意して。

「君のお兄さんを今から殺す。君の望みは今日、ここで叶うよ」

「やっ、まっ……て」

 その声は空気に触れることができなかった。僕は僕で鼓動がうるさく、立ち上がるのも一苦労だった。包丁が外の灯りでぬらりと光る。

 さぁ、やれ。

 そんな幻聴が遼の顔から聴こえてき、僕は刃物を両手で持ち振り下ろした。

「やめて! 待って!」

 寸前、愛凪が僕の背中に抱きついた。力いっぱい込めて僕を止めようとする。

「お願いだから! やめて……お願いだから!」

 急に取り乱す彼女の声が部屋中に響き渡る。その瞬間、玄関を激しく叩く音がした。

「愛凪! いるのか! おい、開けろ! いるんだろ!」

 それは山瀬くんの声だった。その後ろで「愛凪先輩!」と叫ぶ木崎さんの声もする。

「どうして二人が……」

 そう驚くのは愛凪であり、ひどく混乱している。僕は包丁をその場に捨てた。緊張がまだ解けない。すると遼のまぶたがうるさそうに動き、ゆっくりと起き上がった。

「……おい、何失敗してんだよ、唯人」

 その悪態は弱々しく枯れていて、声を出すのも一苦労のようで切なくなる。重く咳をし、異母妹をにらみつける遼は彼女に何も言わず僕を見上げた。

「玄関のあれ、なんだよ。近所迷惑だろ。どうにかしろ」

 そう言うも、僕はまだ身動きできずにいる。仕方なく愛凪が泣きながら玄関に向かった。

 愛凪、大丈夫か。先輩、大丈夫ですか。うん、大丈夫、私は。二人とも入るか帰るかどっちかにして。とにかく騒がないで。

 そんな会話が流れてくる。一方、僕と遼は重苦しく黙り込んだ。遼の責めるような視線が痛い。

「……だから反対だったんだ。こんなこと」

 やっとの思いで言うと、遼は布団にその身を預けて天井をぼんやりと眺めた。

 愛凪と山瀬くん、木崎さんが静かに入ってくる。二人も彼女と同じく唖然とした顔で僕らを見つめた。

「説明して」

 愛凪が涙を浮かべたまま訊く。すると、天井を眺めていた遼が代わりに答えた。

「ご覧の通り」

「病気ってこと?」

「そう。余命あとわずかの死にかけ」

 遼のそっけない説明に愛凪の目から涙が一筋落ちた。

 遼の病気が分かったのはどうやら父親の葬儀の数日前だった。白血病。ドナーが見つからなければあとわずかで死ぬと宣告され、彼は入院を余儀なくされた。

 その説明もなしに遼は静かに消え、ずっと一人で治療していたらしい。しかしドナーが見つからず、ただただ苦しい入院生活が続き、死を待つしかなかった遼はある日突然、僕の元へ帰ってきた。死ぬ前に会いに来たと言って、病院を抜け出してきた。

「それで、どうして殺すなんて……」

 そう訊いたのは木崎さんだった。愛凪はなぜかずっと泣きじゃくっていて話にならない。それを慰める山瀬くんと木崎さんは僕らに厳しい目を向け続けていた。

 遼は天井をぼんやり見つめながら唸る。もうその目も見えているのかどうか分からない。

「罪滅ぼしかなぁ」

 この計画を持ちかけたのは遼だった。自分を殺すように指示し、僕を愛凪に近づけさせた。

 その理由は──

「死ぬ前に愛凪に謝りたかった。でも、それじゃあスッキリしないだろ、お互いに。だから殺してもらおうと思ったんだ」

 殺したいくらい憎い相手が知らぬ間に病死したなんて、俺だったらスッキリしないからな。勝手に死んでんじゃねぇって思うだろう。俺がそうだったからさ。

 帰ってきた時、遼はそう言った。

 どうせ死にかけなんだから後腐れなく殺してほしかった。その時は唯人、おまえが手伝ってくれないか──と、普段あまりねだらない彼が力んで言うものだから僕はその要求を飲むしかなかった。

「こいつら誰? 愛凪の友達?」

 ようやく遼が訊く。僕は適当に「あぁ」と答えた。

「なるほど、こいつら呼んだのは唯人だな」

「ご明答」

 止めてもらうために呼んだ。でもまさか愛凪が止めてくれるなんて想定外だった。彼女はまだ泣いている。

「ごめんなさい」

 しきりにそう繰り返している。

「なんで謝るんだよ。おまえだって俺のこと死んでほしかったんじゃねぇの」

「そうだけど……ううん、そんなわけない。嫌いだけど、だいっ嫌いだけど、でもこんな風になってるなんて思わなかったし、それに、」

 顔をぐしゃぐしゃにして兄を見る妹は苦しそうに言った。

「パパを思い出したから。やっぱり、あんたはパパにそっくりで、殺しちゃうんだって思ったら、怖くて……」

「なんだよそれ」

 遼は呆れて笑った。寝返りを打ってみんなから背を向けてしまう。

「まぁ、安心しろ。ほっといてもすぐ死ぬから」

 そう投げやりに言い、彼はもう振り返ることはなかった。


 兄妹の和解は成立したのだろうか。こんな強引なやり方で和解させるなんて酷だったかもしれない。

 しばらくしたあと、僕らは外に出た。山瀬くんと木崎さんは愛凪をいまだ守るように囲んでおり、僕はさながら悪者扱いである。

「こんな展開アリかよ、意味分かんねぇ」

 山瀬くんが怒りをにじませて言う。一方、木崎さんも同じく涙目になりながら言った。

「愛凪先輩のお兄さん、変ですよ。愛凪先輩も変だし、わたしも意味が分かりません」

「君らに理解してもらおうとは思ってないよ。ただ、止めてほしかったから呼んだ。その役割を果たしてくれてありがとう」

 満身創痍で言うと、山瀬くんが鼻息荒く僕に詰め寄った。掴みかかろうとするも、それを愛凪が止めた。

「私が頼んだからこうなったの。もういいよ、やめて」

「でも」

「この人だって苦しんでるんだよ。分かるでしょ。なんで友達を殺さないといけないのよ。おかしいと思った。私とあいつの問題に巻き込まれただけなの」

 そうして彼女は「ごめんなさい」と深々頭を下げた。その様子に面食らう僕たちは互いに顔を見合わせて気まずく唸った。

「山瀬、燐音、ごめんね。もう今日は帰ってくれる? 今度、ゆっくり話すから」

 その願いを二人は素直に聞き入れるしかなかった。最後まで心配そうに彼女を振り返る二人を見送って、愛凪は僕を見上げた。そして、僕の頬を思い切り打った。

 突然訪れる衝撃に戸惑いつつ、ぼんやりしていた目が一気に冷めた。反射的に目尻が濡れる。

「なんでこんなことするの。なんで、あいつの言うことを素直に聞くの。友達なら止めてあげてよ」

「……君からそんな言葉を聞くなんて思わなかった」

 彼女の正論に打ちのめされる。返す言葉もない。

「そりゃ、私が提案したよ。それくらい嫌いだもん。でも、悔しいことに遼の言う通り……あいつが死んだら、勝手に死ぬなって思う。私にあんなトラウマ植え付けといて自分はさっさと死んじゃうなんて許せない。でも、だからって……」

 涙をたっぷり浮かべて彼女は悔しげに嗚咽を漏らす。僕の胸を叩いてもたれかかり、しゃくりあげながら言った。

「のうのうと生きてるんだと思ってた。だから許せなかった。それなのに、なんだよ。もうすぐ死ぬって。意味分かんない。なんで死んじゃうの」

 僕は呆然とした。すがりついて泣く彼女が羨ましいと思った。こうやって僕も遼にすがりつけば良かったんだろう。どうして彼の望みを絶対叶えると誓ってしまったんだろう。

「ねぇ、私がドナーになるのはどうなの? ダメなの? 一応血はつながってるんだし、できないこともないよね」

 思いつきもしなかったことを彼女は平気で言う。顔を上げて希望に満ちた笑みを向けてくるので僕は言葉に迷った。

「それでいこうよ! 今からでも遅くないよね?」

「いや、でもあいつのことが嫌いなのに、そんなことしていいの?」

 思わず訊いてみると、彼女は眉をひそめた。

「だって、あれでもパパの息子だもん。それに私たちの中で一番早くパパと天国で合流するの、ちょっと許せないし。なんでもかんでもあいつが一番なのが気に食わない」

 とても捻くれた答えに、僕は強張っていた頬がようやく緩んだ。目尻の涙がまだ残っている。それを見られないように空を見上げると、星がまたたいていた。

「……残念だけど、無理だよ」

「どうして?」

「ドナーになれるのは十八歳からだから」

 答えると彼女は押し黙った。もう何を言っても無駄なことは分かりきっており、遼がじきに死ぬことはどうやっても変えられない事実となった。

 それでも彼女の思いはとても暖かく、僕のしたことは無駄じゃなかったんだなと思える。

 きっと兄妹は和解した。これで遼も安心して死ねるだろう。

 彼女はゆっくりと僕から離れた。

「ごめん」

 間が持たずに言っただけの言葉が投げられ、僕はため息交じりに笑う。

「家まで送るよ」


 ***


 しばらく時間が経った。僕は相変わらずの生活を続けている。

 今日は朝から授業があるからサボれないので駅で電車を待っていた。ぼうっとする僕の背中に忍び寄る影にまったく気が付かない。

 思い切り背中を叩かれ、その衝撃に驚いているとなぜかその犯人も驚いて僕を見た。愛凪がスクールバッグで僕の背中を殴ったらしい。大げさにつんのめった僕を見て、彼女は気まずげに「ごめんねぇ」と笑った。

「久しぶりじゃん。あれからどうなの?」

「どうって、別にどうも」

 そっけなく答えるも、彼女はまったく動じず明るげに笑うばかり。その豹変ぶりを不思議に思い、まじまじ見ていると愛凪は上目遣いに僕を見た。

「なんか変わったね」

「そう? あー、まぁそうかもねぇ。いろいろ吹っ切れちゃってさぁ。悩んでるのもバカらしくなったよね」

 あっけらかんと言い放つので、僕も愉快になってしまう。

「学校も辞めないんだ?」

「うん。学校辞めるって言ったのはさ、ほら、私が万が一殺人犯になった場合に迷惑かけないようにって意味でね。山瀬も燐音も遠ざけたかったのはそのため。それを言ったら二人にめっちゃくちゃ怒られたけど」

 根は真面目なんだよな、この子。そういうところが遼に似ていて癪に障る。父親の遺伝子が強いのかもしれない。

「ねぇ、加賀さん」

 呆れていると彼女は僕と横並びになり、スクールバッグを肩にかけて言った。

「遼の望みを叶えるためにあんなことしたの? どうしてそこまでできるの?」

 その問いに僕は真剣に考えた。あれからずっと僕も考えていることで、その答えがようやくまとまったところである。僕は一息ついて答えた。

「遼のことが好きだから、遼が望むことはなんでもしてやりたい。愛情ってやつだよ」

 きっぱり答えるも押し黙られてしまう。なんだか恥ずかしくなりちらっと見やると、彼女は顔を歪めて笑っていた。

「きっしょい愛だな」

「えぇ……ひどっ。真剣に考えたのに」

「いや、別に加賀さんがあいつのこと好きなのはいいんだけどさ……愛って気持ち悪いな」

 彼女は真面目な顔で言い放った。そして電車が通り過ぎるちょうどに叫ぶ。

「あーあ、フラれちゃったなー!」

「……聞こえてるけど」

 僕は電車に乗るため一歩進んだ。彼女の学校とは違う方面なので、ここでお別れだ。

「加賀さん、遼に言っといて。葬式くらいは出てやるって」

 去り際に彼女は早口に言って僕の背中を押した。

「バイバイ!」

 振り返ると、彼女は手を振っていた。その顔はもう曇っていない。


【完】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君にまつわるプロローグ 小谷杏子 @kyoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説