三 木崎燐音

 なんの前触れもなく彼女が現れた。

 放課後、このところわたしは友達と一緒にファストフード店へ寄って勉強する。中学のセーラー服とは違うパリパリの灰色ブレザーは、この辺りでは進学校とうたわれるものであり、入学してしばらくは誇らしげにこの制服姿を見せつけて街を歩いたものだ。しかし最初の学力テストで力が振るわず、夏休み明けの試験対策をしなければ落ちこぼれるのが目に見えている。そうして同じような思考を持つ友人三人と今日も並んで歩いていた。その矢先だ。

 紺色のスカートとたゆんだセーターをまとった愛凪先輩が再びわたしの視界に登場した。

 忘れもしないあのサラサラした黒髪と不機嫌そうな横顔が中三の時と変わらない。変わったと言えば先輩の身なりや周囲にいる人だろう。遊び呆けてそうな風貌の男女とつるんでカラオケ店へ吸い込まれていく。

木崎きさきー? どうしたー?」

 先を行く友人がわたしを呼び、ハッと我に返る。なんでもないとそっけなく言い放ち、わたしは愛凪先輩からもらったストラップを無意識に握りつぶして歩いた。

 今ではもう無関係なわたしたち。彼女を助けることはできない。

 人が堕ちる時間というのはあっという間であっけないものだということを、わたしは中学二年のときに思い知った。もっとも落ちこぼれる人というのはその素質があったからそうなったのだと思う。わたしがそうだし、彼女もその素質があった。でも彼女には落ちこぼれという言葉は似合わない。堕天使といったほうがしっくりくる。

 一年の時、足が遅いせいか反復横跳びが部活内で最下位だったからか、わたしがバドミントン部で落ちこぼれるのはあっという間だった。でもその当時、バカなわたしは自分が落ちこぼれているとは思っておらず、同級生たちの小馬鹿にしたような冗談にヘラヘラと笑っていた。

 でもある日、私のこの様子を見て苦言を呈した人がいた。

「ねぇ、無理して笑わないほうがいいよ。バカにされてるの分かってるでしょ」

 帰り道、椎葉愛凪先輩は静かに言った。その日、同じ方向の吉永さんが風邪で休んだからわたしと愛凪先輩の二人で夜道を歩いていた。今でもよく覚えている。それから彼女は優しい声音で前方の道をまっすぐ見つめながら言った。

「嫌な時は嫌ってはっきり言わないと。それができないなら泣いていいんだよ、ってうちのお父さんが言ってた」

 わたしは何も言えなくなった。自分が部活内で浮いていることや同級生に〝鈍くさい〟からくる「どんこちゃん」っていう渾名あだなで呼ばれていることも愛凪先輩が知るはずない──当時、先輩と後輩の関係というのはきっちりした上下関係で構成されており、大会前でカリカリしている先輩たちが下級生の人間関係を把握しているらしい素振りがまったくなかった──から、わたしは目を白黒させて困惑した。

「やだなぁ、愛凪先輩。わたしは嫌な思いしてませんよ」

「本当にそう?」

「はい、そりゃ毎日練習は大変だし、わたしなんか基礎がまったくできてないから辛いなぁって思うこともありますけど、自分が選んで入ったので嫌じゃないんです」

 そう答えると彼女は小さく笑ってわたしの腕を自分のもとに引き寄せた。そのまま抱き寄せてくれ、えらいえらいと褒めてくれた。

 そうしたらなぜだかわたしの目から涙がこぼれ落ちた。そこでようやく気がついた。わたしは今まで嫌な思いをしてたんだなぁと。関わりのなかった先輩から心配されるほどに哀れで出来損ないの後輩だったんだなぁと。

 先輩の優しさに触れて初めて自分の感情を知り、それでも涙を見せたくないから汗を拭うフリをしてタオルで顔を覆い涙を吸い取らせた。それすらもきっと先輩には見透かされていたんじゃないかな。そんな気がする。

 一つ年上の愛凪先輩はとても明るく優しい人で勉強もできたらしい。活発とまではいかないけれど体育祭ではクラスの徒競走に問答無用で抜擢されていた。しかし部活内ではトップクラスにバドミントンが上手いわけではなくいつも中間の位置にいた。

 先輩は努力家というよりも、その時その時を楽しく素敵に過ごすことが大事だったようで、時折平日に学校を休んでいた。昼休みにわざわざわたしのクラスまで来て、旅行のお土産をもらうことがしばしばあり、その意味が分かったのはわたしたちが仲良くなった頃だった。

「先輩、もしかしてこの前休んでたのって……」

「そうそう、うちお父さんが平日休みだから旅行に行ってきたの、大分の温泉」

「へー、いいなぁ、羨ましいです」

「だからお土産買ってきたんだよ、燐音りんねにだけね」

 温泉卵を模したかわいいキャラクターのストラップ。牛柄のスマホケース。わたしが好きな水色のご当地タオル。安いつくりだけどかわいいシャープペンシル、消しにくいけどかわいい形状の消しゴム。先輩からもらったものでわたしの部屋は満たされていく。

 次第にわたしと愛凪先輩が仲良しだということが他の部員たちに知れ、同級生たちは相変わらず「どんこちゃん」と呼んでいたけれど、わざとらしく片付けや掃除などの雑務をわたしに丸投げするようなことがなくなった。

 わたしはいつも誰よりも朝早く来て朝練の準備をしていた。その様子を監督や先輩たちが徐々に認めてくれ、同級生たちに釘を刺したそうだ。そうして一年生の夏までにはわたしの居場所はとても心地良いものになった。

 大会前、わたしは愛凪先輩のためにミサンガを編んだ。愛凪先輩が好きな色である白と紫で編み込んだそれを渡すと先輩はとても嬉しそうに受け取ってくれた。

 あぁ、あの日みたいにあれも渡せたら良かったのに──


 愛凪先輩との日々を思い出せば当然勉強が捗らず、ただしっかりとハンバーガーのセットをお腹におさめたあと、わたしは友人らに「用事がある」と告げて先に店を出た。

 先輩はまだこの街にいるだろうか。ここは車の通行ができない道で、その真ん中にはベンチがいくつか置かれている。左右にはあらゆるお店があり、その中でいくつか建ち並ぶカラオケ店のうち、はたして先輩が入ったのはどこだったか思い出せない。

 まぁ、この制服でカラオケに行くのは問題なので入れないんだけれど、それでも久しぶりに見かけたあの顔が頭から離れないので確かめたくなった。

 制服で一人だと目立ってしまい、道行く人にジロジロと見られているような気がした。進学校のお嬢さんがこんな繁華街になんの用だと言わんばかりに。それはきっと被害妄想だけれど、恥ずかしさが勝ってしまい次のカラオケ店の様子を見たら帰ろうと諦めた。その時、

「愛凪!」

 男の人がそう呼ぶ声がし、咄嗟に探せば右端の建物の真下に高校生の男女がいた。

 会社帰りのサラリーマンや若い学生たちが行き交うなかで見劣りしないアイドルみたいな髪型の男子が、おずおずと躍り出る。前を歩く女子たちは「山瀬じゃん、どうしたのー」と知り合いの様子でケラケラ笑っている。対して鋭い黒髪の女子のみ冷酷なまなざしで男子を捉えていた。愛凪先輩だ。

 女子集団はニヤニヤと微笑ましそうに二人を見たあと、そそくさと離れていった。

 あたしらお邪魔だよね、ごゆっくりー。愛凪、そろそろ許してやんなよー。仲良くしろー。

 口々に好き勝手言って彼女たちは駅の中へにぎやかに消えた。痴話喧嘩の最中なのか、それを察して消えていく仲間たちに礼も言わず照れがちに笑いもせず、愛凪先輩は冷ややかに男子を見つめている。仲直りできそうな雰囲気じゃない。修羅場ってやつだ。恋愛に疎いわたしが導き出した残念な解がそう言っている。

 そんな状況に割って入れるほど心臓が分厚くないので、彼らの声が聞こえるか聞こえないかくらいの距離にあるベンチに腰掛けた。背中越しに様子を窺う。

「あのさ、愛凪、昨日のことなんだけど」

「昨日……あぁ。私たち、別れたはずなのにどうしてついてくるんだろうって思ってたら。山瀬、あんたから別れるって言ったくせになんなの? キモいんですけど」

「言ったけど! でも、あんなのあの場の空気に飲まれてみたいな? つい言ったけど、あれから俺なりにちゃんと考えてみたんだよ。おまえが人殺しにならないように止めたいんだ」

 単なる修羅場ではなかった。わたしは抱えていたスクールバッグをさらにきつく抱きしめて固唾を飲んだ。

「うわー、あんた本当に空気読めないんだね。こんな場所で言っちゃう? 引くわ……」

「あぁ、ゴメンッ! 悪かったよ! でも今ここで言わないとおまえ、逃げるだろ。俺だってこういうの苦手だけどいろいろ考えてみたんだぜ。そしたらおまえを止めるしかないなって。あいつの言う通りなのが癪だけど」

「あいつ? 加賀のこと?」

「そう、加賀に言われたんだよ。俺はバカだからさ、裏でコソコソ立ち回るなんてできねぇし嘘をつくのも苦手だ。どうせすぐバレるしな。だから包み隠さず言うし、聞いてほしい」

 なんて真剣な告白。まっすぐな言葉はまるでドラマのワンシーンみたいで、わたしはひっそりと彼を応援する。話してる内容は物騒だけれども。

「……あんたに何ができんの」

 愛凪先輩は寂しそうに言い返した。深いため息がここまで聞こえてきてドキドキする。

「あーもう、分かった。この際だから教えてあげるけど、私はね、山瀬のこと好きじゃないの。あんたが前言ってたような関係になれなかったし、なれそうもなかったからね。それに私みたいなのと一緒にいない方がいいんじゃない?」

 すると元カレもとい山瀬さんは黙り込んだ。それだけで二人の関係がつぶさに読み取れてしまい、わたしはまたも息を殺して聞き耳を立てる。

 やがて愛凪先輩は、はぁと苦しそうにまたため息を吐いた。

「私のことは忘れて。お願いだから。それがあんたのできることだよ……ごめんね、山瀬」

 その数秒後、山瀬さんが「愛凪!」と叫んだことで愛凪先輩が走り去って行ったことを悟った。ただ、彼はその場に立ちすくんでいるだけで追いかけようとはしない。だからわたしが立ち上がり、愛凪先輩の後ろ姿を捉えて走り出す。 

「先輩! 愛凪先輩!」

 鍛えた喉から飛び出る大声はビルとビルの間で跳ね、前を走る愛凪先輩の足を止めることも容易だった。恥ずかしそうに振り返る彼女の目がわたしの姿を探す。

 人波が割れてわたしと愛凪先輩は数メートルほどの距離で向かい合う。ざわめく人々がすぐ無関心になり、わたしたちだけの空間ができ上がると、わたしは近づいた。

「愛凪先輩、お久しぶりです」

 あんな会話を盗み聞きしておいてその出だしは間抜けだったろう。でも愛凪先輩が知るわけないのでそう言うしかなかった。

「燐音か……久しぶり」

「元気そうで良かったです」

 気休めの言葉だということはよく分かっており、愛凪先輩も「まぁね」と適当な相槌を返してくる。そして先ほどあった出来事を悟られまいと精一杯に強がりながら唇をめくって笑った。

「それで、アルバムは持ってきてくれたの?」

 アルバム──わたしが先輩に渡せなかったアルバム。別にそんなの欲しくもないくせに言う先輩にわたしはいつものようにうつむいた。

「すみません、今日は持ってきてないんです。だって、ここで会えたのは偶然ですから」

「そうだよね。ごめん。いいんだよ、別に。私はもらう資格ないし」

 愛凪先輩は冷ややかに嘲笑を浮かべるもすぐに気まずげな顔をして目をそらした。やや沈黙したあと、彼女はじゃあねと逃げていく。髪の毛をなびかせて人混みの中へ足を踏み出した。

 あぁ、まだ先輩は苦しいんですね。そうやってわたしたちを遠ざけるんですね。でも、前よりはマシな顔になりましたよ。

 そんな偉そうなセリフを投げることなどできず、わたしはあの哀れな元カレさんと同じように彼女を見送った。

 当時の先輩は、踏めばすぐに潰れてしまいそうなほど薄い膜に覆われた幼虫みたいだった。どうやらサナギになったばかりらしく、まだ出てこないみたいだ。

 ずっと殻に閉じこもっているのは、この世に飛び交う嘲りあるいは慰めの言葉が彼女の心を壊す刃物になり得そうだったからだろう。また幼いわたしは彼女の深い傷を癒やすどころか触れるのも怖かった。

 そんな当時の地獄に足を引っ張られそうになりその場で呆然としていると、ふいに肩を叩かれた。

 振り返ると頬に誰かの人差し指が突き刺さる。この感傷的な場にそぐわない罠に引っかかり、わたしは硬直した。それに対し、罠を引っかけた張本人もぎこちなく人差し指をおろした。

「……あんた、愛凪の友達?」

 先ほど愛凪先輩にこっぴどくフラれた山瀬さんが訊く。

「後輩です。中学の」

 彼の人差し指を恨んでそっけなく答えると、山瀬さんはほっと安堵して息をついた。そして、へらりと笑ったまま軽い口調で言う。

「カラオケ、好き?」


 ***


 カラオケは趣味じゃない。好きなアニメの曲しか歌えないので決まった友達としか行かない。けれど、彼がフラれた腹いせに彼女の後輩をナンパしたわけではないということは分かる。

 ただ、この制服でカラオケ店には行けないので、家まで送ってくださいと言えば彼は快く引き受けてくれた。それだけで彼の人柄が窺える。なんだか彼も自分のキャラ付けを失敗したようなちぐはぐ感があり、だから愛凪先輩が選んだ人なんだろうなと思いつく。

 彼女もそうだ。自分に似合わないキャラをかぶっている。それはおそらくわたしも。そうやって本当の自分がなんなのか分からずにしっくりこないままおとなになっていくんだろう。あるいは気づいていながらも自分を騙し続ける。だから、わたしたちはすぐに間違える。

「愛凪先輩は真面目な優等生だったんです。バドミントン部では目立たないながらも後輩に優しくて慕われてましたし、みんな愛凪先輩のことが好きでした。ちょっとワガママなところもありますけど、愛嬌があるから憎めないみたいな」

 彼が聞きたいであろう話をわたしはゆっくり歩きながら語った。

 山瀬さんはあの街から離れた途端うつむいていた。まるで本来の自分に戻ったかのよう。それまでの自分を構成するものはそうそう隠せるものではない。わたしもうつむき加減に歩き、淡々と思い出話を続ける。

 わたしは愛凪先輩が大好きだった。先輩さえいればわたしは無敵で、部活でどんな嫌なことがあっても明日にはケロッと忘れられた。毎日先輩に会えるならどんなにつらい練習でも耐えてみせる。そして先輩と一緒に帰る時間が特別で、家までの三十分が一日のメインでもあった。だから先輩が急に部活を辞めた時は傷ついた。

 それは二年に上がったばかりの五月だった。先輩は三年生になり、最後の大会前という大事な時期に先輩のお父さんが亡くなった。平日の学校をサボってまで家族との時間を大事にしていた愛凪先輩のお父さんが死んでしまった。

 わたしはそれまで親戚の葬儀にすら行ったことがなく、突然身近に迫った他人の死をおそろしく感じた。当事者の先輩はもっとこわくてつらかっただろう。でもあの先輩のことだからまた元気に学校に戻ってくるだろうと考えていた。

 そんな日は二度と来なかった。

「先輩は学校に来ませんでした。一学期中は一度も顔を見せませんでしたよ。大好きなお父さんが亡くなったんですから当然でしょうけど、それでも長すぎる……って他の先輩とか同級生とか後輩もざわつき始めて。何度も担任と監督が家庭訪問したようですけど追い返されちゃうから話もできなくて。そして、大会前になって愛凪先輩は部活を辞めました」

 退部は先輩の意思だったのか、それとも監督が勧めたのかはっきりしないけど、ただ事務的に口頭でその事項を告げられた時、わたしの心にヒビが入った。

 周囲が「ほら、やっぱりね」と冷めた態度でいたことがさらに追い打ちとなって、その日は早退した。正直頭が真っ白で覚えていない。

 どのみち三年生は夏の大会が終われば部活を辞めなければいけないんだけど、最後の日は全員でバーベキューして先輩たちに「お疲れさまでした」と感謝を込めて挨拶をし手作りプレゼントを贈るのが通例だ。愛凪先輩にアルバムを贈るのはわたしの役目だと信じて疑わず、楽しい最後の日を迎えることが叶わないことに落ち込んだし、先輩と一緒に帰る時間も強制的に終了させられたのが悔しくて認めたくなくて、その足で先輩の家に向かった。ただ先輩と話がしたかった。わたしを納得させる理由を本人の口から聞きたかった。

 家の中は線香のにおいが漂っていて、優しそうなお父さんの顔写真がリビングに置いてあった。

 あぁ、この人は家族を残して死んでしまったんだなと重く受け止めて短く合掌したあと、先輩のお母さんと一緒に彼女が閉じこもっているという寝室の前に立った。

 愛ちゃん、燐音ちゃんが来てくれたよ。

 そう言っても先輩はふすまを開けてくれない。

 お願いだから出てきてよ。

 まだ若いお母さんは泣きながら訴える。この状況から見て、わたしも先輩たちが何か別の問題を抱えているんじゃないかと気づいた。

 お母さんは諦めて、仕事に行く支度を始めたけれどわたしは動かなかった。絶対に今日、先輩と話をするんだと強情な思いでその場に留まる。やがてお母さんがでかけたあと、わたしは許可を得ずにふすまを開けた。

 愛凪先輩は寝室の隅で丸まって寝ていた。ろくに食事せず、ただ呼吸だけしている状態の何かだった。

「それから先輩はわたしに気づいて、静かに話し始めました」

 ──私、パパとママが不倫してできた子だったんだ。

 山瀬さんは掠れた喉で唸った。改めて咳払いし、それは聞いたよと苦々しくつぶやく。

 葬儀であった事件の模様を語る愛凪先輩はとても痛々しくて見ていられなかった。

 あの優しそうなお父さんとキレイなお母さんはもともと不倫してて、またお父さんの方には息子がいて、その息子が愛凪先輩をなじって、葬儀場の空気はさらに重たくなって、愛凪先輩のお母さんはショックを受ける先輩の前に立ちふさがって「お願いします」と泣きながら訴えたそうだ。「私はどんなに恨まれようが何を言われようが構いません。でも愛凪は知らないんです。お願いします。この子だけはどうか許してください」と。

 許してください、だって。私はそういう存在なんだって。私が生まれなければパパもやり直せただろうし、ママも別の道を歩めたはずなのに、私ができちゃったせいで何もかも変わったのよ。

 そう言って彼女は膝の中に顔をうずめて、さらに続けた。

 その話を聞いてさ、私は受け入れられなかったんだよね……それまでは貧乏だけど仲がいい超幸せ家族って思ってたの。パパもママも優しいし自慢だし、こんなおとなになりたいなって思ってたの。笑っちゃうでしょ、いっぱいいろんな人を傷つけて作った家族なんだよ。そうまでして私を生んだ意味は何? そう訊いたの。そしたらママは、愛凪に会いたかったから生んだんだよって言うの。

 それを聞いた愛凪先輩はお母さんを突き飛ばしたという。それは先輩の中で納得のいく理由じゃなかったらしい。

 両親のそういう話はなんとなく薄ら寒い。その感覚はわたしにもあり、隣を歩く山瀬さんを見ると彼もまた口の端を掻いて白けていた。

 ちなみに私の出生のいきさつは、いわゆる授かり婚だったらしい。わたしができたから結婚したのだと熱っぽく語る両親に冷たい笑いを浮かべるのが常であり、それに関しては愛凪先輩と通じるものがある。

 先輩もきっと確固たる理由を説明してほしかったのかもしれない。どうしてわたしたちが生まれるに至ったのか、そこに愛があったから、愛の結晶があなたなのよ、という共感できない綺麗事ではなく、わたしたちが生きる意味みたいな、そういう壮大なものを欲しているから。無計画に生み出されたなんて思いたくないから。その瞬間が気持ち良かったからできたなんて思いたくないから。

 でも、そのうち分かることなんだ。わたしも先輩もおとなになって誰かを一途に愛して、このお腹に命を宿して初めて分かるんだろう。その時になってようやく実感するんだろう。選択すれば今すぐにでも実感できることだけれど、世間の目が怖いし覚悟もないからまだ手に入れることができない。だから、苦しい。

 そんな先輩の苦しみを、二年前のわたしは理解できなかった。ただ先輩が部活を辞めた理由を聞きたいのであって、彼女の重たいプロローグなどどうでも良かった。

 その日はもう打ちのめされるしかなく、慰めの言葉もかけずに退散した。わたしは一方的に傷ついていた。なぜか分からないけれど涙が止まらなかった。

 わたしが大好きだった愛凪先輩はもう二度と戻ってこない。そう感じたのは涙が枯れた頃だった。

「──山瀬さんは、愛凪先輩が人殺しするって思ってるんですか?」

 不意に訊いてみる。それまでわたしの話に茶々を入れずじっくり聞いていた山瀬さんは「えっ」と驚いて顔を上げた。

「盗み聞きしたので」

「あぁ……うん。昨日、愛凪から両親のこととか自分のことを教えてもらってさ。そしたらあいつ、どうやら父親の息子のことを恨んでるみたいで」

「私の兄さんを殺して、って?」

「そう、それそれ」

 山瀬さんは急に元気を取り戻し、人差し指を振った。動きがオーバーなので噴き出しそうになる。

「なんで木崎さんが知ってんの? まさか、昨日のも盗み聞きしてた?」

 彼は素っ頓狂に言った。わたしは隠しもせず笑いながら短く返した。

「いえ、そんなに暇じゃないんで」

「じゃあなんで?」

「わたしも二年前、言われたんです」

 笑いながら出る言葉が夜の道に根を下ろす。じわじわとゆっくり這っていき、山瀬さんの全身を縛った。まるで当時のわたしのようで気の毒になる。

 部活に戻らなくてもいい、いつか立ち直ったらまた一緒に帰って話をするんだと意気込んでいたわたしをことごとく裏切ってくる愛凪先輩は二学期に復帰したあと、学校をサボるようになった。出席したと思えば保健室に行き、昼休み頃に帰る。

 まだ立ち直れてないんだろうなと思い、そっとしておこうと思ったら二学期の暮れになって先輩はガラの悪い同級生を引き連れて部活中のバドミントン部に声をかけてきた。

 すでにその頃、バドミントン部の元部長あたりは推薦が決まっていたし、他の先輩たちも進路が確定してきていた。それなのに愛凪先輩は投げやりにその日を生きていた。

 変わってしまった先輩に近づくことができないわたしは、他の部員たちが愛凪先輩のもとへ駆け寄っていくのを遠巻きに眺める。そして、ひとりの部員が「どんこちゃん」と呼んだ。「ねぇ、愛凪先輩にアルバム渡したの?」って訊いてくる。

 実は引退最後の日に渡す手作りアルバムは愛凪先輩にも渡すことが決まっていて、わたしが担当していた。でもあんな抜け殻状態の先輩を見たあとにアルバムなど渡せるはずがなくて、ずっと部屋の戸棚に仕舞っていた。

 アルバム? 何それ、私の分もあるの?

 愛凪先輩がそう首をかしげている。でもわたしは近づくことができずに投げやりに返した。渡したよって嘘をついた。

 だからか先輩は部活が終わるまで、わざわざわたしが通る道で待っていた。

 アルバム、もらってないんだけど。

 すっかり尖ってしまった口調で詰め寄られては逃げ場がなく、わたしはうつむいて謝った。

 今日は持ってきてないんです、すみません。そんなことを言った気がする。先輩は、あーそっかぁ、じゃあまた今度ねと大して残念そうでもなく笑った。

 しばらくわたしたちは無言で歩く。あんなに楽しかった道のりが重苦しくて逃げ出したかった。

 先輩がふとつぶやく。懐かしいね。そうですねと返すわたしがそっけないからか、先輩は鼻で笑った。

 あぁ、愛凪先輩はもういないんだ。本当にいなくなっちゃったんだ。悲しくなったわたしの涙腺が緩む。何泣いてんのと訊かれて、わたしは先輩に言葉をぶつけた。

 先輩、帰ってきてください。わたしが好きだった先輩を返してください。どうしてそんなふうになっちゃうんですか。しっかりしてくださいよ。わたしはあなたみたいになりたかったのに。

 先輩の苦しみを理解せず、自分の気持ちを勝手に押し付けた。それは彼女の心に響かず、何を思ったのか先輩は泣いてるわたしの顔を覗き込んで言う。

「じゃああんた、私の代わりに兄さんを殺してよ。そしたら元に戻れるかもしれない」


 ***


 長い話をしたら疲れてしまった。山瀬さんは律儀に家まで送ってくれ、せっかくだからと連絡先を交換した。

 きっと彼は愛凪先輩の一パーセントも理解してなかったのだろう。ぐんぐん吸収していき、彼女が企てるあの愚策を壊したいのだろう。そのために昔を知るわたしが必要なのだ。

 あぁ、羨ましいな。わたしもそうなれたら良かったのにな。

 わたしは山瀬さんの味方をする。ずるい考え方かもしれないけれど、わたしも愛凪先輩がこれ以上腐っていくのを見ていられない。こうしていろいろ考えて自分なりに答えを導き出してもなお愛凪先輩の思考や感情に寄り添うことができないので、それならば一番近くにいる彼に任せるほうが妥当だ。

 夕飯もそこそこに部屋へ入り、冷たい自室の雑貨をじいっと眺める。ベッド脇に置いた棚の上段には愛凪先輩からもらったお土産を置いてある。その後ろに不格好なアルバムがあるのを覚えているけど、確認せずに着替えてベッドに寝転んだ。そして、山瀬さんにしなかった話の続きをゆっくり思い出す。

 きっと正気じゃない。ううん、絶対正気じゃなかった。先輩も、わたしも。

 ゴクリとつばを飲んでわたしは答えた。

『そうしたら本当に戻ってくれるんですね? 分かりました。その人、どこにいるんですか?』

 愛凪先輩の異母兄である高松たかまつりょうは、緑王大学の二年生で人文学部だという。

 お父さんが亡くなったからその数カ月後に大学を中退したらしいけれど、本当かどうかあやしい。だって、ほかにもお金を借りて卒業するという道がいくつかあるはずだから。

 高松遼は愛凪先輩が言うようにお父さん似だった。友達の前では優しそうな笑顔を浮かべ、彼のその口から暴言が出るなど想像できない。冗談がうまくて面白い人だなと思う。第一印象は愛凪先輩の言うような恨みなど微塵も感じなかった。それを隠すのがとても上手なのかもしれないけれど。

 彼をこの手で殺す。そうすれば愛凪先輩の憂さを晴らすことができる。そう信じたわたしは確実に愚かで、これからの人生を舐めていた。未成年だから罰も軽いはずだろう、なんて。事故に見せかければ大丈夫、なんて。

 信号待ちしている彼の背中を押す。そう決めてしばらく毎日、彼の背後に立っていた。でもいつもあと一歩のところでできなかった。何度試みてもできず、とうとう彼がその道を通らなくなったら、むしろ安心していた。それきり高松遼の行方は知らない。

 あぁ、そう言えばあの人の顔──どこかで見たことあるなと思ったら高松遼の友達だ。いつも横にいたし、時折振り返ってはわたしの幼稚な殺意に気づいているかのように高松遼を守っていた。そうだ、あの人だ──名前は加賀唯人。

 去年の二学期、私に一週間だけ英語を教えてくれた家庭教師。担当するはずだった先生が急病になり、臨時で入ったという加賀先生は人当たりのいい人で、受験に必死だった私の背中を優しく押してくれた。お母さんがすごく気に入っていた人でもあったからなんとなく印象にある。

 そんな彼と先日、駅前で偶然会ったから立ち話をしたんだけれど、そこでなぜか愛凪先輩に似た話が出てきた。

 どうして思い出さなかったんだろう。加賀先生が高松遼の友達だって、どうして去年気が付かなかったんだろう。彼が「友達の妹を探している」という話をするからうっかり教えてしまったけれど、よくよく考えたら奇妙な話だ。

 高松遼だって愛凪先輩のことが大嫌いなはずで、今さら妹を探すという動機が分からない。それに、どうして高松遼本人じゃなく加賀先生が探しているのかも分からない。そもそも高松遼が愛凪先輩のお母さんの連絡先を知っているはずだ。考えれば考えるほど不自然。

 このこと、山瀬さんに言ったほうがいい。

 そう決めた瞬間、すぐに起き上がってスマートフォンのメッセージアプリを起動した。

 緑王大学の加賀唯人という男に注意してほしい。愛凪先輩があの人と関わっていると知ったのはそれから数秒後のことで、わたしは手のひらのしわがじっとりと汗ばんでいくのを感じた。

 一刻も早く愛凪先輩に気づいてもらわなくちゃ。

 逃げ出したわたしが今さらになってこんな忠告をするのは筋違いだろう。それでも理性より感情が先走り、わたしの指は二年ぶりに愛凪先輩のトーク画面に文字を打ち込んだ。

 止まっていた時が再び動き出す。

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