二 山瀬洸
放課後、先に帰ったはずの
真っ直ぐ整った黒髪、細すぎず太すぎないちょうどいいボディラインがあらわになったシャツとデニムのミニスカート、黒いキャスケットをかぶっても愛凪のオーラは隠しきれない。白い顔にはバランスよく配置されたパーツ、小さい鼻に不機嫌そうな唇、この世を見下すかのような冷たい瞳がスマートフォンに釘付けであり、俺が前方にいることに気づく素振りが微塵もなかった。
俺はいつも愛凪から置いていかれ、放課後デートをしたのも片手で数えるほどしかない。
「
仲間たちは狭い筐体に群がって格闘ゲームに興じていたが、俺は頑なにシューティングゲームをしていた。一度、愛凪と一緒に帰った時、あいつにゲームを教えた。ボタンを連打するだけの簡単なゲームを愛凪が目をキラキラさせて楽しんでいたから俺も得意になって楽しんだ。あれが唯一楽しい幸せな時間だったかもしれない。そんなことを考えていると一気に興醒めしてしまい、俺は仲間たちに何も言わずゲームセンターを出た。
都心にある高校からさほど近い場所にあり、同じ制服のやつらがチラホラと町の中を泳いでいる。俺も同じように紛れ込んで流れに沿い、時折ビルの窓に映る自分の髪型を気にしながら歩いていた。
駅前にあるデパートの窓で前髪を見ていると、店内で愛凪が早足で歩いていく姿を見た。なぜか忍ぶようにあいつの後ろをついていき、そっと様子を窺う。ほどなくして愛凪の前に冴えないサラリーマンがやってきた。考えている間もなく二人は仲良さそうに手をつないで歩きだす。
「おい、愛凪」
俺は人波をかき分けて二人の前に躍り出た。
声をかけてすぐ、愛凪は「
「こいつ、なに?」
俺は横にいる男をにらみつける。浅黒い肌にたるんだ頬、情けない顔をして俺と愛凪を交互に見てはオロオロしている。すぐさま愛凪の手を振りほどき、辺りをキョロキョロ見回した。そんな男の足を踏むと、そいつはヒィっと短く悲鳴を上げて逃げた。
「んだよ、ダセェなぁ! あははっ、見ろよあいつ、気色悪りぃ」
たかが足を踏んだだけで逃げるくらいなら最初から俺の女に手を出すんじゃねぇよ。
もうどこへ消えたのか分からない背中に一瞥をくれてやる。そして、今しがた不貞を働こうとした彼女の顔を覗き込んだ。
「愛凪、何してんだよ。俺と遊ぶ時間ないくせにあんなキモいおっさんと遊ぶ余裕あんのかよ」
すると、すかさず突風が吹いた。頬にぶつかる衝撃がまさか愛凪の手のひらから生み出されたものだとはすぐに思い付かず、呆然としてしまう。強い熱が広がり、反射的に目尻が濡れた。
「『何してんだよ』はこっちのセリフ」
驚く俺に構わず、ぐいっとネクタイを引っ張る愛凪。バランスを崩しかけ、俺は情けなく前につんのめる。愛凪の不機嫌たっぷりな唇が近い。
「今日のご飯代が逃げてっちゃったじゃん。あんたに関係ないでしょ。邪魔するんならさっさと消えて」
そう言い放つと、愛凪は俺のネクタイを乱暴に離した。こんな人の多い場所でこんなことをされれば並の男なら逆上するだろうが俺は違う。だって、こんなの日常茶飯事だし。
「飯なら俺が奢るよ。だからさ、そういう変なことはやめろよな」
ヘラヘラとなだめすかすも、愛凪はますます不快あらわな表情をした。
「別にそういう意味じゃないから。あんたの金でご飯食べたって意味ないし、金ないでしょ」
確かに金はないが……じゃあどういう意味なんだよ。俺のことほったらかしでこんなことする意味、ちゃんと教えてくんない?
言葉が喉元まで出かかって渋滞し、声にならない。俺はおっさんの足を踏み潰すことはできても、愛凪に強気な態度を見せることができない。それは──
「愛ちゃん! 洸くん!」
タイミングがいいのか悪いのか、ハイテンションなハイトーンの声が俺と愛凪の間に割り込んでくる。向かいの横断歩道からグラマラスな女が危なっかしいピンヒールで走ってくる。赤っぽい茶髪を巻き、厚めの化粧で覆っている目鼻立ちはほとんど愛凪と同じだ。
「ママ……」
愛凪がげんなりとつぶやいた。俺も居心地が悪くなり、わずかに愛凪から離れる。
そんな俺たちに構わず、愛凪の母親はフウフウ息を切らしつつ愛嬌たっぷりの笑顔で到着した。
「やだ、ぐうぜーん! 愛ちゃんが動いてるとこ久しぶりに見たぁ! やーん、こんな時間に会えるなんて超ラッキー!」
そう言って愛凪の母親は、しかめっ面の娘に抱きついた。髪の毛をくんくん嗅ぎ、頬ずりしようとするので愛凪が顔をそらして嫌がる。目のやり場に困る俺は手をポケットに突っ込む。愛凪の母親は娘の後ろに回って首に巻き付いた。それは愛凪が普段相手にしているクラスメイトの女子と同じような密着度で。はたから見れば仲良し親子か友達に見えなくもないが、愛凪は俺に「余計なこと言ったら殺す」と言わんばかりの視線を向けていた。
「それで、今日はどうしたの? デート? でも洸くんは制服だねぇ。なんか遠くから見てたけど、ちょっと揉めてたみたいな? ねぇ、洸くん」
母親が愛凪の後ろから俺をじっと見る。顔は笑っているのに身にまとう空気が愛凪とは別の殺意を持っている。なんで俺が責められなきゃいけないんだ! と大声で叫びたくなったがここは我慢しよう。
「分かってるとは思うけどー、愛凪のこと傷つけたら許さないからねー?」
「あ、はい。大丈夫です。任せてください」
俺は慌てて答えた。すると愛凪の母親は「そっかそっか」と軽く頷いてまた愛凪にベタベタする。
「もうしばらく愛ちゃんと話してないから寂しくて寂しくて」
「ママ、もういいでしょ。仕事遅れるよ」
愛凪もこの母親には強気な態度を見せることができないのか、それとも諦めているのか気だるそうに腕をほどいた。しかし母親は手強いししつこい。
「まだ時間に余裕あるもん。ね、ちょっとお茶しない? 洸くんも良かったらおいで」
「おぉ、いいっすね! そうしましょう!」
すかさず賛同すれば、愛凪が俺をにらみつけた。しかし、俺はこの母親が望む通り愛凪を傷つけるわけにはいかないし、道を踏み外さないように注意しなくてはいけないのだ。どこぞのおっさんとご飯を食べに行くなどという蛮行を阻止しなくては、あとでこの母親から変な言いがかりをつけられかねないと思う。
うちの娘がそんなことするわけない、とか。あるいは、うちの娘がこんなにただれたのはあんたのせいよ、とか。あんたが構ってあげないから変なおっさんとふしだらなことをするのよ、とか言いそうじゃん? 構ってもらってないの、俺の方なんですけど。
デパートの地下にあるコーヒーチェーン店へ向かうと、運良く四人掛けソファが空いていたので席をとり、愛凪はクラッシュストロベリーフラッペ、俺は豆乳アイスラテ、愛凪の母親はキャラメルマキアートを頼んで腰を落ち着けた。愛凪の母親が金を出してくれたので寂しい財布の中身を知られずに済んだ。
「最近どんな感じ? 愛凪ったら高校のこと全然話してくれないんだもん。洸くんのこともあんまり話してくれないから寂しくてねぇ」
「あー、そうなんすね……愛凪さん、学校でもまぁそんな感じっすけど」
「昔はもっとキャピキャピしてて可愛かったのにねぇ。今でも可愛いんだけどね、おとなになってきちゃったのかなぁ。ねぇ、愛ちゃん」
どうでもいいが、この母親は愛凪に対しては「愛ちゃん」と呼ぶ。それがまるでご機嫌伺いのような猫なで声なので、クールな愛凪とミスマッチだ。愛凪は「んー」と適当に返事するだけで答えないし。
すると母親は俺を見る。仕方なく愛凪に代わって学校生活でのことを話した。
愛凪とは高校の入学式で出会った。その頃から愛凪はどこか他人を寄せ付けないオーラをまとっていて、目が合っただけで殺されそうな威圧感があった。切れ味抜群な刃物みたいだと思ったのは繊細な髪の毛先がつややかで鋭かったからだ。
俺は中学までパッとしない部類の男だったが、髪型や制服の着こなしを研究してみればあっという間に一軍認定された。しかも最初のテストで高順位をとったものだから目立っていた。しかし、そんな俺を遥かに上回ったのはほかでもない愛凪である。
学年で二位の成績をとった愛凪が教室で一目置かれるのは当然のことであり、俺たちはキャラの差はあれどクラスの連中から遠巻きに見られる存在になる。この学校で勉強ができても意味がないのだ。
そりゃ教師受けはいいだろうが、生徒からすれば近寄りがたいわけで輪の中に入れてもらえるわけではない。ただ期末試験前の板書かカンニング対策に活用されるだけである。
そういうパシリ要員になるのが嫌だった俺は次のテストでわざと成績を落とした。他の連中と同じように授業中は寝るか騒ぐかをしていたらあっという間に教師から嫌われていく。
一方の愛凪も授業はほとんど出ずにどこかでサボるようになり、これまた遊び呆けている一軍女子たちの目に止まり、そのうち愛凪はそいつらとつるんでいった。何度か一緒にカラオケに行ったが、愛凪はそのグループの中にいてもひときわ異彩を放つ存在に思えたし今もなおそう思う。
それからはまたたく間に誰が愛凪と付き合えるかという論争に発展した。しかもこれは女子の間でも噂になっていたらしい。愛凪と付き合うということは、このクラスで最上のステータスであり永久一軍の称号を得られるんだとか、そんな雰囲気まで漂い、俺たちはこぞって愛凪に交際を申し込んだ。
「これで五人目」
俺の告白に愛凪はそっけなく放ったが、わずかに勢いをなくした。
「あんまり覚えてないけど、あんたで五人目……だと思う。ユウミがカウントしてたから」
ユウミというのは愛凪と極めて仲がいい女子だ。ユウミもかわいい顔をしており、山中と付き合っている。そういえば、山中が一番最初に愛凪へ告って瞬殺されたような。
「ユウミの彼氏も私に告ってきたよね。あんたと仲いい山中ってやつ」
タイミングよく愛凪も思い出す。その言葉で、一応、俺の存在が愛凪に認識されていることを知り嬉しくなった。たぶんフラれたのにも関わらず笑って答える。
「たぶんあれじゃね、愛凪にフラれたからユウミと付き合うことになった的な」
「あー、そういう……ってことは別に私が好きで告ったわけじゃないんだ」
そうつぶやく愛凪は意外にも寂しげな目をした。カーディガンの両ポケットに手を突っ込んで、はぁとため息をつく。
「あんたもそうでしょ。私のこと好きじゃないのに罰ゲームで告ってるんでしょ。いいよ、そういうの。めんどくさいからやめようよ」
「違う、罰ゲームじゃない! 愛凪は美人だし、みんなが付き合いたがってる!」
慌てて言うと愛凪は目を丸くし、また寂しげな目に戻すと俺を見上げた。
「『愛凪は美人だし』? 何それ、結局見た目かよ。好きじゃないじゃん」
「別に顔が好きなのは悪いことじゃないだろ。それに、内面とかそういうのは付き合ってみなきゃ分かんねぇし」
俺はあまり深く考えずに言い返した。すると愛凪はキョトンとし、ポケットから手を出して思案めくように顎に手を当てて唸った。そしておずおず切り出してくる。
「……山瀬にとって恋愛ってどういうモノ?」
その問いに、俺はしばらく使ってなかった頭をフル回転させた。
実際、付き合うってどういうことか分かってない。でも甘い時間を夢見るのはこの年頃なら当然だろう。かわいい彼女と手をつないでデートするだけで周りから羨まれ、祝福される。それに何より周りが彼女持ちだと焦るものだ。早く童貞卒業しろと言わんばかりに煽ってくるから余計に焦る。しかし、ここでそういう本音を言うのはよろしくない──本能レベルで危険を察知した俺はヘラリと笑ってブナンな答えを出した。
「ずっと一緒にいることかなぁ。好きになれば一緒にいられるし、どっちかが辛い時は励まし合うみたいなウィンウィンな関係」
「ふーん……」
これで納得してもらえたのかどうかは分からない。というか愛凪の思考はよく分からない。まだ見ぬ女子の裸体と同じく未知の領域だ。
やがて愛凪は俺をチラリと見て優しく微笑んだ。
「じゃあ、付き合ってみる?」
何がどうしてそうなったのかは不明だが、どうやら俺は合格したらしい。それは高校受験に失敗して以降初めて訪れる幸福だった。まぁ、そのあとはお察しの通りですが。
愛凪の母親に普段の話をたっぷりしたあと、すでに外は夕日が沈んで色めき立つ夜がきていた。
一時間ほどは俺が一人で喋っていたに違いない。母親は満悦の様子で娘を抱きしめて仕事へ向かった。その勢いでもしキスしたとしても驚きはしないほどの溺愛ぶりに慣れている自分にひっそりと拍手を贈る。
帰り際、愛凪は珍しく俺の手をぎゅっと握っていた。ただし互いに無言だった。
俺は別に頭がいいわけではない。底辺高校の中ではちょっと勉強ができるってだけであり所詮は井の中の蛙である。だから愛凪が期待するような知的たっぷりな会話はできないのだが、愛凪はそもそも口数が少ないので話術で彼女を喜ばせるというイベントは一切発生しない。最初のうちはそれなりに頑張ってきたが、愛凪はノリが悪いので早々に諦めた次第だ。
「──ねぇ、山瀬」
信号を渡りながら愛凪が静かに話す。
「なんでママに余計なこと言うの」
「知らないおっさんと飯食ってるって話はしてないじゃん」
「んまぁ、それはそうだけど……」
愛凪はしどろもどろになった。夕方、俺の横っ面を思い切り叩いといてこの沈みよう。
愛凪は母親を前にするとなんだか萎縮していく。さながらパンパンで弾けそうな風船が静かにしぼむようであり、それもまた母親から中身を吸い取られているみたいな。
親とうまくいってないのだと告白されたのは高二に上ってからだった。愛凪を家に送ったちょうど母親とばったり出くわし、それから俺は親公認の彼氏になった。母親は愛凪のことが大好き──というか見てるだけで恥ずかしくなるくらいの溺愛ぶりだが、愛凪はそう思っていないらしい。きっと双方、気持ちにズレがあって噛み合ってないのだろう。そういうことは俺もたまに両親なり友達なり発生する問題だから分かる。
ああいう愛し方は嫌なんだろ。だから俺はほどよくおまえを突き放すし、優しく見守ってやる。おまえが俺の彼女でいてくれるなら気持ちを察してやるし、なんでも言うこと聞くから。
そんな感情を込めて愛凪の手をきつく握ると「痛い」とそっけなく叱られた。
「愛凪、もう変なことすんなよ?」
「………」
「愛凪?」
たしなめるように呼ぶと、愛凪は俺の手を握ったまま前へずんずん歩いていった。そして暗い道に入り込んで唐突に立ち止まり、こちらを振り向いた。おもむろに俺の腰に手を回して抱きしめる。
「山瀬、ごめんね」
胸に顔をうずめると愛凪は寂しげにつぶやいた。今にも消えてしまいそうなほど弱々しい謝罪に俺はため息を落とす。抱きしめ返すと、愛凪はまた「痛い」と言ってわずかに身動いだ。
「なんであんなことしたんだよ」
「なんとなく」
「そんな理由があるか。俺を傷つけて楽しい?」
「……そんなふうに言わないでよ」
愛凪の声がだんだん涙で混じっていく。まったく、泣くくらいなら最初からやるなっての。
「こういう時、山瀬は絶対怒らないよね……どうして? どうしてそんなに優しいの?」
「俺、怒ってるんだよ。でも愛凪が泣いてたら怒れねぇじゃん。それに愛凪を傷つけたら、あの母ちゃんに殺されるし」
本音は後者だったが、おどけて言ったからか愛凪が小さく笑うのでホッと安堵した。
***
俺は心が寛大だから許してやれるんだと思う。だって、愛凪だってあんなおっさんたちのことなんか本気なわけがないし、見た目からすれば俺のほうが釣り合ってるはずだし。現に愛凪はおっさんたちとの援交を「飯代」と呼んでるし。
学校では俺の彼女としてそばにいてくれるから、許してあげなきゃいけないんだ。中身がすっからかんな俺が愛凪に選ばれたこと自体キセキなんだから。それに、おとなの真似事をして愛凪とひとつになってみたら見えない糸で縛られていくような感覚があった。それは愛凪だって感じているはずで、この糸を引きちぎる気がないので都合がいい。俺は恋愛にこだわりがないし、友達と遊ぶのも好きだから愛凪が普段、何を考えてどう生きてようが構わないのだ。束縛なんてかっこ悪いしめんどくさい──なんて考えていたからバチが当たったのかもしれない。
翌日、俺は愛凪がまた見知らぬ男と二人でいるのを目撃した。ほんと懲りないな、あいつも。軽く考えていたのだが、横にいる男の顔を見て顔中に火がついたかのようにカッと熱くなった。
それは俺がカンニングを疑われて高校受験に失敗した時と同じ悔しさがほとばしっていくようだった。冤罪だというのが後で明らかになったが、一度疑われたら死んだも同然だった。あの時以上のことはもう訪れないと思っていたのに、まさかこんなところで再燃するとは自分でも驚く。
同時に俺は愛凪が誰にもなびかないと高をくくっていたことに気がついた。あいつがほかの誰のものにもならないと油断していたのだ。
「愛凪!」
愛凪の肩をぐいっと掴んだら前を歩いていた男も気が付き、こちらを振り向いた。
「山瀬……またか」
「『またか』はこっちのセリフ。おまえ、昨日あんだけ言ったのに同じことして」
俺は燃える嫉妬心を男に向けた。大学生くらいの男だ。色素の薄い髪に涼しげな顔立ちが鼻につく。愛凪にベタベタせず自然な様子で突っ立っているからますます気に食わない。
そうか、俺と近い歳の男だから嫉妬しているのかもしれない。いや、どうだろう。愛凪の表情が珍しく甘いからかもしれない。自分の気持ちが急に分からなくなり、足元が崩れていくような錯覚に陥った。そんな俺の戸惑いを見抜いたか、愛凪は一歩引いてなめらかに言った。
「今日はやけに感情的だね。どうしたの?」
「どうしたのじゃねぇよ」
「嫉妬? 山瀬もそんな顔するんだね」
そう言うと愛凪は嬉しそうに笑った。困ったことにその笑顔がシューティングゲームで的を撃ち抜く時の笑顔だったので、心臓がドキリと跳ね上がる。そう、その笑顔が見たかったんだ。そんなふうに笑ってほしかったんだ。シチュエーションは最悪だけど。
「私のこと、好きなんだね」
どうして今そんなセリフが出てくるんだろう。彼女の浮気を怒る彼氏に対して物怖じせず笑う愛凪の得体のしれなさが不気味なのに……好きだと思ってしまう。
「あー、君。勘違いさせて悪いんだけど、僕はそういうのじゃないから」
ようやく後ろから主張する間男も愛凪と同様に不気味だった。俺は情けなくも後ずさってしまい、にらみつけた。
「じゃあなんなんだよ」
「ちょっと前、この椎葉さんに説教しただけの大学生。ちょうどいい、君にも協力してほしいことがあるんだ」
男はこの近辺の大学に通う二十一歳で名前を加賀唯人といった。
加賀は胡散臭い笑みを俺に向けており、愛凪にはあまり興味がないような態度だった。そんな加賀に愛凪はなぜか懐いている──ように見えるから面白くない。
俺たちは愛凪の母親と行ったカフェに入った。愛凪はダブル抹茶フラッペ、俺と加賀はアイスコーヒーを選んで席につく。加賀が金を出そうとしたので俺が愛凪の分まで支払った。おかげで全財産が消滅した。
「ずいぶん敵視されてるな……本当になんでもないんだってば」
加賀は困ったように笑い、傍らにいる愛凪を一瞥した。
「彼女、本当に困った子だよね。君も苦労してるんだろうなぁ」
「そういう知ったような口で語るのやめろよ。ムカつくから」
このやろう、苛立ちを煽ることを承知で言ってるのか。ぶん殴ってやりたいところだが公衆の面前なので我慢するしかない。俺が良識のある人間で命拾いしたな。
加賀は笑みを解くと、一口アイスコーヒーを飲んで話しだした。
「ごめん。たまたま会ったからさ、椎葉さんと話をしようと思っただけなんだ。この前、彼女が変な男に絡まれてたから助けたんだけど、その時にいろいろと事情を聞いてね。彼氏くんがいるなら、この子に頼めばいいじゃないか」
最後の言葉は愛凪に向かって言ったものだった。愛凪は不敵な笑みを見せる。
「山瀬はねぇ……ちょっと頼りないもん。ていうか、本気であれ実行すんのヤバくない?」
「君らが正当なヒーローとヒロインだよ。君たちの行動を見て考えるのも悪くないなと思って」
「おい、俺を置いて話すんな。意味が分かんねぇんだよ。ていうか何? 愛凪、また変な男に絡まれたのか? そういうことやめろって言ってんだろ」
俺の乱暴な声に愛凪は肩をすくめた。ダブル抹茶フラッペを飲んで素知らぬふりをする。その横っ面を叩いてやりたくなるほど憎い。
「加賀さんね、小説書いてるんだって。で、私のことをモデルにしたいらしい」
ストローを噛んでいると愛凪が簡潔に説明した。
小説? なんだそりゃ。すぐさま思い浮かぶ行儀よくお高く留まったご令嬢を思い浮かべてしまい、安っぽいイメージだなと呆れて鼻で笑う。それがバカにしたように見えたのか、愛凪と加賀が同時に眉をひそめた。
なんで俺ばかり責められるんだよ! 大声で言いたい。
知らない他人の前ではある程度行儀よくできるのだが、あからさまな不快を表情に出せば愛凪の笑顔が薄ら笑いに変わっていった。あとで何を言われるか分からないから仕方なく咳払いして態度を改める。
「なんでまた愛凪をモデルに?」
「私が不幸だから」
俺はおまえに聞いてんじゃねぇんだよ。加賀を見て話しているはずなのに愛凪が取り繕うように口を挟むから、俺の目はさらに鋭く加賀をにらみつけた。
「どうして愛凪が不幸なんだよ」
この場で一番要領を得ていないのは俺だけだ。こんな屈辱があってたまるか。今すぐにでもここから愛凪を連れ出したい衝動に駆られるもなぜか足が動かなかった。
さらりと流れるように告げられた愛凪の不幸とやらが気になる。それはこれまで目をそらしてきた真実であり、現状なのかもしれない。もしかしたら俺は今、愛凪のすべてを知る機会を得ているのかもしれない。だが、それは愛凪と二人きりに訪れるはずのシチュエーションであり、こんなどこの馬の骨とも分からない男を介して聞くなんて許されない。
加賀は自分から話そうとはしなかった。愛凪も加賀をチラリと見やるだけで話すかどうか迷っている。愛凪は加賀がすべて説明してくれると思ったのだろう。
少し間が空き、俺のアイスコーヒーが底をついてきたと同時に加賀が口を開いた。
「こういうのは二人で話したほうがいいんじゃないかな。椎葉さん、彼氏くんにはちゃんと話しておきなよ」
そう言って加賀は席を立って別の席に移動した。愛凪の口が「えっ」と固まったまま俺の方を向く。
しばらく無言が続いた。愛凪が椅子の背にもたれかかり、不機嫌をあらわにした。
「──で?」
俺の方から訊くと、愛凪は伏せていた目をぐいっと上げた。手元に置いたダブル抹茶フラッペの緑色が白いホイップと同化しようとしている。ドロドロとした飲み物を愛凪はつまらなさそうに飲み、ため息をついて口を開いた。
「……私さぁ、中三の時に父親が死んでるんだよね」
重い言葉が俺の耳にねじこまれていく。無意識に前のめりになると、愛凪はわずかに安堵した様子で同じトーンのまま続けた。
「その父親さ、バツイチなわけ。ていうか、うちのママと不倫してたの。それで私が生まれたんだって」
「そう、なんだ……」
「そう。でね、父親には息子がいてね……あの加賀さんと同い年。葬式の時に初めて会った。私のことめっちゃ恨んでるの」
愛凪の淡々とした声が重い。どんな不幸だって受け止めてやるなんていう懐の深さは持ち合わせてなかったようで、俺は当然怯んでいた。冗談だよなと訊き返したいが愛凪の顔を見ると何も言えなくなる。
また愛凪が母親とうまくいってないというのはもしかしたらこういう事情があったからなのか、愛凪が誰も寄せ付けないように踏ん張っていたのはそういう意味だったのかとじわじわ腑に落ちていく。同時に愛凪が何度も知らない男たちと援交を繰り返しているのも、あの母親と不倫男の娘だからなのかとあっさり納得していく自分がいた。
なぜかここで蛙の子は蛙という言葉を思い出し、思わず口の端が緩む。愛凪が噴き出すまで笑いをこらえる。
しかし待てども愛凪は笑わなかったので、俺は仕方なく氷だけになったアイスコーヒーをストローですすった。
「その話を俺にする前にあの加賀ってやつにしたわけ?」
「そう。だって山瀬はこういう話嫌いでしょ?」
確かに俺はこういう真面目な話は嫌いだ。自分のことも話したくない。どういう生き方をしてきたか、どういう家族でどういう人間かなんて教えたくもない。
ただ今日の授業だりぃなとか、友達の誰かが別れたとか、一週間後には忘れているような会話しか好まないので愛凪もそれに合わせて適当な相槌を打つ。そんな浅い付き合い方しか知らず、やることだけはやっている俺たちだから突然降りかかる異常事態に慣れていない。
俺の口は緩んでいた。真剣な顔ができない。事実はまったく面白くないのに自然と顔が笑ってしまう。それを隠すのも面倒になったのでアイスコーヒーをテーブルに置き、椅子の背にもたれる。
「どう? 私がおじさんたちと遊ぶ意味、分かった?」
「あぁ。おまえがろくでもない親から譲り受けたものがそれだってことが」
愛凪は自虐を好む習性があるから、そういうふうに言ってやれば喜ぶ。やはり愛凪は愛しそうに笑って俺の手に手を重ねた。
「山瀬ってそういうのを見ても怒んないから、私っててっきり愛されてないんだなーって思ってたんだよねぇ。さすが顔だけで選ばれただけあるなって。でもさ今日、加賀さんと歩いてたら山瀬が怒るから、ちょっと嬉しい」
「なんだよそれ」
性悪だなと率直に思った。でも俺は怒ることができない。現に愛凪のことを真剣に好きだと感じていたわけでなくファッションアイテムみたいな感覚で付き合っていたからだ。
今まで俺が吐いてきたセリフは偽物だったのだとようやく気がついた。それを愛凪はとっくに気がついていて、だから俺をずっと試していたのかもしれない。どっちもどっちかなと思えてげんなりする。
「俺が怒ったのは、おまえがあいつに乗り換えるんじゃないかと焦ったからだよ」
「だからそれが嫉妬ってやつじゃん。おかげで私もやっと本物の罪悪感を手に入れた感じする」
そう優しく言う愛凪の顔は何やら一つ雲が晴れたようだった。その顔が、またあのシューティングゲームをしていた時の顔とダブって見えた。
「本物の罪悪感って?」
ねだるように訊くと愛凪はふふっと笑みをこぼした。
「うちの親が感じていたものを私も感じたいの。でないと私はこの体が気持ち悪くて嫌なんだ。私という存在が汚くて嫌なの。だって……ねぇ? 不倫してできた子供だよ? 普通にダメでしょ、こんなの」
そんなことを笑いながら言うから背筋が凍った。思考が狂っている。
当事者じゃない俺には想像がつかないので同情するのが難しく、ただ今後この子とこれからどう付き合っていけばいいのか不安になってきた。それでも学校で他の連中にどう言い訳したらいいのか咄嗟には思いつかず、愛凪と別れる気にはなれない。
確かに気まずい不快感もあれば愛凪を守りたいという感情もあり、これが複雑に交錯してしまい何も答えられない。ただ漠然とこの椎葉愛凪という人間がかわいそうだなと思う。
その視線を感じたか愛凪はため息をひとつ吐き出して明るげに言った。
「山瀬、別れよっか」
「えっ」
「だって山瀬、別れたそうな顔してる」
愛凪は俺の手をほどき、両手を膝に乗せる。そのかわいらしい仕草がよく似合うほど完璧で、俺は息が詰まった。
「あ、山瀬と別れたいから話を作ったわけじゃないからね。全部本当のことだから。あれならみんなに言いふらしてもいいよ。私、学校辞めるし」
「は? おい、どういうことだよ、愛凪。話が急すぎてついてけねーよ」
またも前のめりになると愛凪は寂しそうに眉を下げて笑った。
「あー、そうだねぇ……でも山瀬を巻き込むのは私も胸が痛むというか」
「はっきり言えよ。そんな急に別れようなんて言われたら俺……」
今後どうやってあの学校に通えばいいんだよ。そんな最低な言葉を飲み込むと、愛凪は俺の感情を勘違いしたまま愛しそうに笑って言った。
「私の兄さんを殺すの」
天使の笑顔で悪魔みたいなことをサラリと言う。
呆然としていると、いつの間にか愛凪は俺から離れていき、加賀と入れ替わった。加賀はもともと座っていた場所に来て俺の様子を同情的に眺める。
「いきなり言われたら困るよね。僕もああ言われて困ってるんだ」
「冗談だよな、あれ」
俺は喘ぐように訊いた。すると加賀は力なく首を横に振った。
「どうだか。自分の父親の息子、要するに椎葉さんの異母兄だけど、そいつを殺したら自分は本物の子供になれるんだって」
「なんだよそれ、意味分かんねぇ。どうかしてるだろ」
「あぁ、どうかしてる。バカげてる。でも自分が救われるのはそれしかないって」
加賀は深い溜め息をついた。こいつもこいつであの言葉をすんなり受け止めているフシがあるので甚だ不気味だ。
なるほど、こいつから漂う不気味さは愛凪の言葉をすべて受け止めているからなのだろう。混乱しきっている俺が真っ当なはずだ。
「あの子の前じゃ乗り気な風を装ってるんだけどさ、そしたら懐かれて困ってる。だから君が彼女を説得してくれないかな」
それが彼氏の役割だろとでも言いたげに加賀がすがってくる。俺は一歩引き、加賀をにらんだ。
ここで俺はこいつに条件を出してもいいはずだ。
分かった、俺が愛凪を止めるからおまえはもう二度とあいつに近づくなよ、と言えばいい。でもそれはおそらく加賀の理想的な「ヒーローとヒロイン」になりそうだなと考えた。
加賀がどういうつもりで俺たちを観察し、モデルにした小説を書くのか謎だが、とにかくこいつの言うとおりに事が運ぶのは不本意だ。それはこれまでのように愛凪とぬるい関係を続けられなくなったことへの報復に近い直情的な思考だった。
「俺、愛凪と別れることになったから。もう知らねぇ。好きにしろよ」
そう言って席を立ち、愛凪から逃げるように店をあとにした。
***
本当に自分の兄を殺すのだろうか。
あの加賀と一緒に異母兄を殺す計画を立て、学校も辞めてそのうちニュースになってしまうのか。愛凪の歪んだ心をケアするのは俺では不十分であり、逃げ出すのが正解な気がしてくる。だって、俺は安い人間だし。
でももし近いうち、若い男が死ぬような事件が起きたら俺はその度に愛凪を疑って生きていくのだろうか。俺が受けてきたような仕打ちよりももっと強いバッシングに遭うのだろうか。俺の場合、大きな事件にはならず、ただ挙動不審さを咎められただけで終わったが一緒に受験した同中のやつらは知っているし今でも蔑みのネタにされる。それよりももっとひどい状況になるのは目に見えており、だったら加賀の言うとおり愛凪のヒーローになるしかなかったのではないか。いやでも──同じことを延々頭の中でループさせる。
ただ、これだけははっきり言える。
「愛凪がかわいそうだ」
そう思えるだけ、俺もあいつへの情がある。同時にこれまでの感情と思い出が壊れていくようで、情けなくベッドにしがみついた。
そう言えば家族が誰もいない時間に愛凪をこの部屋に連れてきたことがある。その時、愛凪はこのベッドで震えていた。おとなの真似事をしようと誘ったのは愛凪からなのに。
初めての瞬間は互いに緊張していたから、どうにも思い出せない。本当に自分のことで頭がいっぱいで、ろくに愛凪のことを考えていなかった。
あの時、あいつはどんな顔をしていたんだろう。笑っていなかったことは確かだ。
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