君にまつわるプロローグ

小谷杏子

一 椎葉愛凪

 どうせなら全部、抜いてしまえたらいいのに。吸い取られていく血液を凝視しながら心底そう思う。

 放課後、約束の時間まで暇になり、ちょうど目についた献血ルームにフラッと立ち寄った。血液を提供し、しばらくお菓子やジュースを飲み食いして休んだあと、駅構内へ向かう。トイレの個室に行き、スクールバッグからホットパンツと黒のオフショルシャツを引っ張り出し、着替えて街に繰り出した。しばらくゲームセンターで時間をつぶす。シューティングゲームをして気分爽快。的に照準を合わせてボタンを連打していけばドゴンと大きな音を立てて爆発した。それを何度も繰り返す。

【未成年のお客様は十九時以降のご利用をおことわりしております】とアナウンスが流れても私は動かなかった。

 繁華街のここは夜になれば乱れていき、男も女も老いも若きも皆一様に同じ色を浮かべては実に楽しそうな顔で道を闊歩する。高校生がこんな場所にいたらマズイのは知っていてもそれを咎める人が周りにいないので、私もおとなたちの中へ潜り込む。ここはとびきり息がしやすい。夜行性の私は、夜がくるとそれまでの気だるさが嘘のように体が軽くなる。

 調子に乗ってゲームをしていたら約束の時間ギリギリになっていた。急いで出れば外はまだ浅い夜で、まだまだみんな元気いっぱいだ。

 強いネオンが道を照らす賑やかさからちょっと外れた場所へ足早に入る。虫がたかるコンビニの灯りだけがとても明るい。コンビニの中では若いカップルが日用品コーナーでイチャイチャしているだけで人気がなかった。お泊りデートでもするんだろうなぁとぼんやり考えながら待っていると、周囲を警戒する三十過ぎのおじさんが夜を背にして現れた。スーツを着ている。仕事帰りでこんなところに来ちゃうなんて、本当に不良ですね。

「こんばんは! はじめまして、アイナです」

 私はおじさんに微笑みを向けた。すると彼はホッと安堵して笑った。コンビニの灯りで青白い顎をしているけど汚くない。仕事帰りのくたびれた感じを除けば普段からきちんと清潔にしている、もしくは奥さんにきれいにしてもらっているだろうから印象は悪くない。

 君がアイナちゃん? かわいいね。

 そう言って彼は辺りを見回した。人通りの少ない道だけど、この時間帯は酔いつぶれたカップルや人目を忍ぼうとする人たちが横行する。ほかのみんなも同じような目的で集まってるから余裕がなさそうだった。このおじさんもそう。

 私は彼の本名も聞かずに、腕を取って「早く行こ!」と無邪気に誘う。彼は気後れしつつもまっすぐホテルに向かった。休憩三時間で四一〇〇円。室内に入ると彼は静かに私を堪能した。


 帰り際、私の腕についていた小さなガーゼを見て彼は「どうしたの、それ」と訊いてきた。別に何もないよ、献血しただけ。そう言って私はガーゼをベリっと剥がした。

 青あざが広がっていて、なんだか私にふさわしい汚れた色だなと思う。そんな汚い腕を彼は優しくさすり「じゃあね」と柔らかな笑みをこぼしながら二万円を握らせて私から離れた。背を向けてくたびれた様子で夜道に消えていくおじさんの顔を私は忘れていく。三時間もしないうちに終わったので覚えていられるはずがない。

 もと来た道を戻る。大きく伸びをしてあくびをしながら駅まで行く。時折、ガラの悪い男たちに絡まれるも全部無視して駅構内の女子トイレに入る。ほとぼりが冷めたらまた外に出る。

 二十二時。春の夜風が冷たくて、火照った私の体を冷ましていく。喉がかわいたから自販機でコーラを買い、ごくごく飲みながらホームまで向かい、人々の中へ溶け込んだ。

 電車に乗って二十分の距離に私の家がある。パパが死んでからはママと二人暮らしの団地住まい。隣の生活音が筒抜けな壁なので、ときたま流れてくる男の怒号を聞くこともある。駅からまっすぐ歩いて四辻をいくつか抜けた先にある団地を見上げると、どうやら今日もお隣さんが元気な様子だった。ふざけんじゃねぇと、しきりに喚いている。私は回れ右をし、駅の方面へ戻ることにした。

 まぁ家に帰ってもママは仕事でいないから帰りが遅くなろうと怒られはしないんだけど、予定がなく夜道をぶらつくのも退屈だ。私はスマートフォンのアプリを起動させて物色した。

 マッチングアプリ。本人登録しなくても問題ないので年齢を偽って今年の初めに登録したら思いのほかたくさんの人からメッセージが来た。本人写真も登録してないのに。女と分かればなんでもいいんだなと鼻で笑いながら、私は彼らと遊ぶようになった。会ってから本当の年齢を明かせば彼らは挙動不審になり、お金を渡してくる。お小遣いだよと言って私に値段をつける。ご飯を食べるだけな人もいれば、ホテルに直行な人まで様々。たまに罪悪感で震えている人もいた。反面、楽しんでいる人もいた。一方、私の興奮はすぐに冷めるし、あまり楽しくない。昔見た昆虫の交尾の映像ばかり思い出している。

 そして必ずこう思う。

 パパとママはどういう気持ちで私を作ったのかな。この人たちみたいに寂しくて、でもどうしようもなくて自分の心を殺して生活して、息ができなくなって、そうして出会って窮屈な穴に体の一部を突っ込んでまた息ができなくなってしまったのか。どんどん自分の首を絞めながらもその場しのぎの優しい時間を楽しんでいたんだろうか。

 そんなことを考えていると吐き気がし、すぐに思考を捨てた。

 急な誘いでも断る人はいないので、指定された場所まで歩いていく。

 そこは寂しい公園で屋根付きベンチと砂場しかなく、街灯はパカパカと弱々しい光を放っていた。消えそうな灯り。もがくように最後の力を振り絞っている。あ、消えた。

 その瞬間、背後から突然何かに抱きつかれた。

 やぁ、君がアイナちゃんだね。

 見た目の特徴を伝えていたからか、すぐにアイナだと分かったのだろう。男の低い声と荒々しい吐息が生臭くて鼻が曲がりそうだ。こんな暗がりで不意に抱きつかれたら、さすがの私も驚いて硬直してしまう。咄嗟に腕や足をジタバタさせて身動みじろぎするも解放されることはなく、むしろ強い力で押さえつけられた。無理やり屋根付きベンチまで移動させられ、組み敷かれてしまう。

 あぁ、あの光のようだ。今の私はあの光のようにもがいている。

 動くなと懇願され、そのまま体のあちこちをまさぐってくる。それがあまりにも不快で、虫が這っているようなおぞましさを覚えた。さっきまであのホテルで触れられていた場所なのに、なんでこうも違うんだろう。あぁ、ダメだ。涙が出てくる。声が出せないのも情けない。

 でも……もういっか。最初からそれが目的だったじゃん。今まで会ってきた人たちは紳士的だったんだなとぼんやり思い出していると、唐突にまばゆい灯りが私たちを照らした。

「おい!」

 声を荒らげる若い男の声。私の背後にいる人ではなく、灯りを向ける人のよう。勇敢に走ってくるその人の姿を見て、背後の男は私からするりとすり抜けて逃げた。

「待て! 逃げんな!」

 威嚇の声が公園内にこだますも虚しく響くだけ。私はベンチに座り直して乱れた服を整えた。手が震えている。

「──君、大丈夫?」

 スマートフォンの電灯を消し、彼は優しげな声音で言った。私は頷くしかできない。

「こんなところに一人でいたら危ないよ。警察に届けよう? 僕、付き添うから。お母さんにも連絡して」

 だんだん夜の闇に目が慣れてくると、その人の顔が窺える。私よりもわずかに年上そうな男。キュッとした小顔で髪の毛の色素が黒ではなく微妙に薄い。サラサラとした前髪から覗く目は眠たそうなタレ目で、私を怪訝そうに見つめている。

「立てる?」

 そう言って彼は私の腕を掴んだ。献血の青あざが隠れた瞬間、私はそのまま彼の胸に飛び込んだ。

「怖かった……」

 小さな子供みたいに鼻をすすりながら顔を上げて言うと、彼は困ったように両手を上げたままでいた。なんだか怪しむような目つきで私を見ている。私の涙が本物だと分かったら険しい眉間を緩めてため息をついた。

 落ち着いたら警察に行こう。いや、警察はダメ。じゃあお母さんに連絡。それもやだ。この応酬に、彼はふぅと呆れた息を落とす。

「迷惑かけるから?」

「ううん。あの人は悪くないから。ほら、さっきの男」

 私の答えに彼は「は?」とたちまち声音を険しくさせる。

「何? あいつ、彼氏なの?」

「ちがうけど」

 私は目をこすった。だいぶ落ち着いてきたもののぼかした表現しかできないので、彼は顔をしかめて頭を掻いた。

「じゃあなんだろ? 君が呼び出したってこと? そしたら思いのほか強引に迫られて怖かったみたいな? 出会い系?」

 そう、それ。答えると彼はますます大きなため息をついた。なんだよと、苛立ちを向ける。

「そういうの良くないよ。遊び半分でやってるんだろうけどさ、ああやって怖い目に遭うんだから。もう分かったろ、二度とやるなよ」

 手のひらを返したような厳しい言葉に脳天から打ちのめされる。

 なんだよ、あんたに何が分かるっていうの。私がどんな思いでこんなことやってるか、あんたは一切知らないくせに。

 私は彼から離れた。すると彼は説教するように目くじらを立てた。

「おい、反省してるのか」

「うるさいな! 通りすがりのあんたには関係ない。もういいって言ってんじゃん。私はどのみち汚れてんだから、別にいいんだよ」

 言葉にして吐き出したら息が詰まった。

 あぁ、苦しい。苦しいな、本当に。あの光みたいにいっそのこと息の根を止めてしまえたらいいのに。跡形もなく私を消せたらどんなにいいだろう。


 二年前、パパが死んだ。ファミリーレストランの店長をしていたパパはいつも忙しくて大変そうだったけど家族思いで、仕事から帰ってきたら真っ先に私を抱きしめてくれた。家族と出かける時はいつもママと手をつないでいて仲が良かった。そんな両親が私は大好きで自慢でもあった。

 ママよりも十六個上のパパは落ち着きがあって優しくて、いたずらをしても怒らないし、よく抱っこしてくれた。ママとはまるで友達みたいに仲が良くて、勉強を教えてくれるほどの賢さはないけど一緒に苦手な掛け算を解いてくれた。ママは料理が上手で得意料理はミートソースパスタ。真っ赤なソースは甘酸っぱくて、パパも私もよくおかわりをしていた。

 パパの仕事がお休みの日は私も学校を休んで、ママも仕事を休んで遊園地や旅行にでかけた。平日昼間の遊園地は並ばなくてもアトラクションに乗れることができ、行列に並ぶという概念を知らずに育ったので高校生になった今、日曜日の遊園地デートがかなり苦痛だ。

 絵に描いたような幸せ家族。決して裕福ではなく家もやっと借りられた団地の一室で寝室は一つしかないけど幸せだった。

 それが唐突に強制終了したのは中学三年になったばかりの春のこと。

 風邪をこじらせて、それでも仕事に出ようとしたパパはその日、遺体となって私たちの前に帰ってきた。熱のせいで意識朦朧のまま車を運転したことで事故を起こしたらしい。幸い巻き込んだ人はいなかったものの電柱にぶつかって一人きりで死んでしまった。

 あまりにも突然だったので私はママが泣く横で呆然としていた。嘘だ。パパが死ぬわけない。昨日の夜中、私が勉強しているのをえらいねって言って頭を撫でてくれたのに、あっけなく死んじゃうはずがない。ママはしばらく立つこともできずにパパの冷たい体を抱いて泣いていた。パパの体はかなり傷んでおり、ところどころ赤黒く変色していた。頭も割れていた。そうだ、これはパパじゃない。誰か違う人なんだ。私はそう思うことでこの現実から逃げることにした。

 その日から私の人生がガラリと変わった。人生を語るほどの年月を生きてないけど、十五年の人生で父親が死ぬということはかなりショッキングな事件だった。ママは昼の仕事を辞めて夜働くようになり、私は学校に行くのが億劫になった。あれだけ大好きだったパパのこともだんだん嫌いになっていった。

 パパ、どうして私とママを置いていったの。いろんなものを残して消えちゃうの。大きな愛情を与えるだけ与えて無責任に死んでしまうなんて。

 あぁ、嫌な思い出になっていくのが嫌だ。私は頭の中の幸せ家族を小銃で撃ち抜いた。ドゴンと音を立てて弾け飛ぶ思い出を軽蔑し、目の前で説教を垂れる男をにらみつける。

 しきりにお母さんに連絡しろって言ってくるけど、両親のうちこういう対応をするのが全部母親の仕事だとでも思っているのだろうか。確かに私はパパがいないし、ママだけだから間違いじゃないんだけど、こうやって頭ごなしに決めつけてくるだけで不快指数が上がっていく。

「あとでお母さんに連絡するから。それでいいでしょ。今日はもう帰るから」

「こういうのはすぐに届けないとダメだ」

「でも私のお母さん、今仕事でいないから意味ないよ」

「こんな時間に仕事?」

 男は不機嫌に問い返す。想像力が足りないのだろうか。

「夜の仕事。うちのお母さん、水商売してんの」

「はー……親が親なら子も子だな」

 彼は心底呆れた声で言った。面と向かって飛び出す暴言がいっそ清々しくて笑えてくる。

「あはは。まぁ、そんなわけだから」

 私は男を一瞥し、公園から出ようとした。しかし彼は追いかけてきた。

「じゃあ、今日も夜は一人なんだろ」

「そうだけど?」

 言葉の意図が見えず、私はつい振り返って答える。彼は気まずげな眉毛のままぶっきらぼうに言った。

「とりあえず家まで送るから」

「はー?」

 私は呆気にとられて声を上げた。

「なんなの、あんた。結局あんたもあの男と同じで私のこと狙ってる?」

「そこまで飢えてない」

 男は心底不快そうな声で吐き捨てた。それがあまりにも露骨だったので私は拍子抜けしつつ甲高く笑う。

「えー? でも十七歳の女の子をこんな時間に捕まえといてさ、何も感じないわけないでしょ? 私、かわいいほうだしモテるんだけどな」

「低俗な十七歳らしい思考だね。世も末だな」

 私の幼稚な色仕掛けをクールに跳ね返してくる。でもね、世の中のおじさんたちはこんな私を求めてくるんだよね、残念ながら。あんたもそのうちそういうおじさんになるんだよ、と私は心の内で毒づいた。

「じゃあなんなの? 何が目的?」

 彼が私に構う理由が分からない。体や金が目的ではなく、その場限りの癒やしやら快楽のためでなく私なんかに構う理由は何?

 待っていると彼はわずかに言葉を濁した。うーんと考えて答えを出す。

「正義感かな。女の子を夜道で放置するのは許せない」

「ふーん。でもさ、その正義感って場合によっては変質者と変わらないからね。こっちが求めてないのに強引に迫ってさ、気色悪いだけだから」

 私は納得しなかった。そのおかげで溜まっていた鬱憤を言葉に乗せて吐き出すと、彼は目を瞬かせて怯んだ。

「そんな言い方……まぁ、そうかもしれない」

 意外とあっさり引いていく。なんだよ、つまんないの。低俗な十七歳に論破されて情けないな。

「お兄さん、いくつなの? 大学生?」

「二十一歳。大学四年」

 彼は素直に答えた。その年齢を聞いて、今度は私が怯む。眉間にしわを寄せ、目を細めて彼を見る。

「えー、じゃあお兄さんは緑王りょくおう大学に通ってたりする? ここの近所だよね」

「うん」

 そう言って彼はポケットから何かを取り出した。私に近づき、手に出した何かを差し出してくる。学生証だった。緑王大学人文学部、加賀かが唯人ゆいと──そう書いてある。

「別にあんたの身元を知りたいわけじゃないんだけど」

「なんだ、疑われてるみたいだし身分証明すればいいのかと思ったのに」

「じゃあ免許証とかマイナンバーも出しなよ。そしたら信じてあげる」

 冗談で言っただけなのに、真面目な加賀は背負っていたデイパックから免許証とマイナンバーカードを引っ張り出して私に見せてくれた。顔写真入りのそれにはすべて加賀唯人と書かれている。性別、男。誕生日は八月二十一日。

 いらない情報が無駄に脳内へ記憶され、私はため息をついた。

「分かったよ。もういい」

「じゃあ、警察に行こう」

「それはやだ」

 なんでそんなに警察に連れて行きたいのさ。正義感もここまでくると病気だな。

 私はカードを眺めながら、おもむろにスマートフォンで写真を撮った。彼の身分証明証をスマートフォンに記録させる。カシャッとかわいたシャッター音がした瞬間、加賀はようやく焦りを見せた。

「何やってんの」

「何って、加賀さんの個人情報を握ってる」

「それを悪用したら訴えるからな」

「悪用ねぇ……じゃあさ、警察に行くの諦めてくれたら何もしない。データも消す。それでどう?」

 この交換条件は冴えていると自分でも思った。本当はいつか使えるときのために取っておこうと思っただけだが、今この瞬間に使わずしていつ使う。この相談に加賀は鼻の穴を膨らませて困惑した。

「なんでそんなに警察に行きたくないんだよ」

「やましいことしてるからに決まってんでしょ。あの男のほかにもいろんなおじさんと一緒に寝たし、お金ももらってる。私が通報したらおじさんたちがかわいそう。あんた、おじさんたちの生活のすべてを奪うことできるの?」

 まったくそんなことも想像できずに正義感を振りかざしているのだろうか。目で見たものをそのまま真っ直ぐ捉えて、その奥に様々な感情や生活があることをどうして分からないんだろう。

 私はあのおじさんたちを守る義務はないけど、目の前の男の浅はかさをバカにしたいがために心にもないことをペラペラ喋った。これに対し加賀は腕を組んで笑った。

「はい、言質取った。まったく、ろくでもないことしてるなぁ……」

 意味が分からず首をかしげていると、彼の顔からそれまでの正義感が消え去った。持っていたデイパックからスマートフォンを出して録音ボタンを止める。その豹変ぶりに私は目を瞬かせた。

「え、何?」

「あとで話をひっくり返されても困るからね。君がどれだけ悪いことをしてるのか知りたかったんだ。どうやら訳ありみたいだし」

 私の手には加賀の個人情報が、加賀の手には私が雄弁と語った悪事の数々がそれぞれ収められている。なんとなく私の方が不利に思えた。

 一方で加賀は力を抜いて、身分証明証をデイパックの中に仕舞いながら言う。

「確かに君が危ない目に遭ってたから助けたかった。それは本心。でも君の態度が気になったから。しかも僕まで不審者にされちゃ堪んないし、自衛のため」

 流れるような説明に私はポカンとした。頭の回転がいい男に接するのが初めてで、苛立ちよりも興味が湧いてしまう。

「正義のヒーローが悪い顔しちゃダメじゃん」

 咄嗟に出た言葉はなんとも間抜けだった。恥ずかしくなって口を閉じると、加賀はそうだねと肩をすくめた。

「君が襲われてるのを見て、気づいたら体が動いてたんだけどさ、同時に頭の中で『こういうことをしたら僕も正義のヒーローになれるかもしれない』って思ったんだ。でももうその時点で僕はヒーローにはなれない」

 加賀の言葉はもやっとした硝子のようだった。やはり意図が見えないので私は首をかしげる。そして出てきた言葉はきっと的外れなものだった。

「ヒーローショーのバイトでもすれば? 見知らぬ女助けるより向いてるよ」

「それも楽しそうだな」

 加賀はふふっと品良く笑った。さっきまで私に振り回されて怒っていた人と同一人物とは思えないくらい軽やかな笑い方をする。

「小説を書いてるんだよ。でも僕、主人公の気持ちが分からないんだよね。だから僕が主人公になってみて誰かを助ける。そういう経験をしないといけなくて」

 加賀は照れもせずにそう言った。至って真面目な目で言うから私は笑うしかなかった。

「じゃあ、私はヒロインなの?」

「そう。ちょうどいいなって、多分そう思った」

 さっきから「多分」やら「かもしれない」やら自分のことなのにはっきりしないな。私は寒気がし、青あざをさすった。

 人は皆、身に起こる物事を論理的に考えながら行動しているとは限らない。そういう人種が大多数であり、私のクラスの連中もほとんどがそう。ママもそう。何も考えず自分の中にある正義感や世界観だけを信じて生きてそう。きっと加賀も同じなんだろう。

「自分のことの半分も知らないみたいだね。感覚だけで生きてるんだ」

 いろいろ考えた結果、そんな言葉が飛び出した。加賀は目を開き、今度は照れたように口の端を伸ばした。

「まぁね。自分が何者かなんてちっともわかってない。だからこういう物語を書きたいと思っても自分自身が空っぽだから深みのあるものは書けないし、だから見たものや経験したことをそのまま捉えて書くしかない」

 要するに想像力が足りないんだろう。小説書きにとっては致命傷なんじゃない?

「それさ、殺人事件ものを書くとしたら人殺さなきゃいけないんじゃないの?」

 私は笑いながら言った。すると加賀はわずかに眉をしかめて笑った。

「そうだな」

 彼は苦しそうに笑う。あぁ、そうか。この人ももがいてるんだな。私とはまったく違うもの──自分自身の薄っぺらさに気づいて失望している。かわいそうだなと直感的に思う。考えているのもバカバカしくなってきたので、私はスマートフォンを掲げて加賀に見せた。

「じゃあもういいよね。お互いにボロ出したんだから」

「あぁ、もういいよ。僕も消すから」

 私たちは目の前でお互いの弱みを消去した。あーあ、本当につまらないな。

「じゃあ……助けてくれてありがと」

 淡々と取り繕うように言えば、加賀は目を丸くした。

「へぇぇ。お礼が言える子なんだ、君」

「心からのお礼じゃないけどね。生意気で淫乱な十七歳だと思った?」

「うん。頭の軽い低俗な十七歳だと思ってた」

 そのフレーズ、気に入ってるな。私は冷めた目で加賀を見上げた。

「でも君は低俗じゃないな。思ったより頭がいいし、物言いもバカじゃない。なんだかバカなフリをしているように見える」

 言い方は嫌味っぽくも加賀の言葉は鋭い。私は青あざをさすり、意味もなく真っ暗な砂場を見つめた。

「私に何があったか知りたい?」

「知りたいね。小説の参考にしたい」

 その即答に私は盛大にぶはっと噴き出す。すると不思議なくらい息がしやすくて調子が狂った。

 ゆっくりと二年前のことを思い出す。

 パパの葬儀の日、私は自分の出生に隠された秘密を知った。

 ──おまえ、二番目の子なんだよ。知ってた?

 そう吐き捨てるその人は私の知らない人だけどパパの息子。私よりも五つ上のあいつは突然現れて私を否定した。おまえが生まれなければよかったのになと、せせら笑う兄の口元だけがはっきりと目に焼き付いている。

 両親の愛は世間では許されないもの、不倫から始まった。いくつもの人を傷つけながら私を作った。どうせならすべて墓まで持っていけばいいのに二人の秘密はあっけなく私にバレてしまった。同時に私が信じて生きてきたものはすべて仮初であり、薄氷の上に立つような危うさのある幸福でしかないということも知った。

 世に根付く倫理観のおかげで、私はこの事実を生理的に受け付けられなかった。

 二人はどういう気持ちで私を作ったのだろう。きっと何も考えてなかったんだろうな、こうなることを。嘘をついてベタベタ優しくしていたパパの顔を思い出すだけで吐き気がする。「愛凪あいな」と甘ったるく呼ぶママの声を聞くだけで逃げたくなる。

 この体に流れる血を抜いてしまえたらいいのに。この細胞も汚くて気持ち悪い。息をするのも億劫で何度も死にたかった。大好きだったバドミントンを辞めた。私という存在を誰にも認識してほしくなかったから学校にも行けない。

 そんな私をママはとても心配していた。心から心配して私の好きなものを作って食べさせようとした。それもまたなんだか気持ち悪いもののように見えてしまい激しく拒んだ。行きたくもない低レベルな高校に通うことになった。そこでできた頭の悪い彼氏から教えられた男女の営みってやつを知ってからはちょっとだけ考え方が変わった。きちんとパパとママのことを考えるようになり、二人が当時どういう気持ちでいたのかを想像する。そのためにいろんな人と出会う。

 私も加賀と同じく、経験しないと両親の気持ちを考えることができない。私が生まれた意味を愛っていう不確かなもので片付けるんじゃなく、どうしてそうなったのかを自分の目や体で確かめたかった。でも、まだ見つけられていない。

 長い長い話をしたあとは喉が渇いてしまい、残していたコーラを口に含んだ。すでに気が抜けていてただただ甘ったるくなっており、それを無理やり喉に流し込む。

「これ、参考になる?」

 笑いながら訊くと、加賀は真剣な顔で私を見つめた。

 あぁ、その目知ってる。葬式の時に散々見たもの。かわいそうなものを見る目、あるいはおぞましいものを見る目、もしくは汚いものを見る目。私はあの日、人間じゃないものに変わった。私もまた自分自身が汚い何かに変わるのを感じたので、その反応は正しいと思う。

「参考になる」

 やがて加賀は慌てて答えた。聞いてはいけないものを聞いたという気まずさを漂わせている。真面目そうな彼は悲観的に唸り、私をチラリと見て「ごめん」とつぶやいた。

「なんで謝るの」

「興味本位で聞くことじゃないなと思って」

「しっかりしなよ、あんた小説家志望でしょ。ネタにしてやろうと燃える場面じゃないの?」

 私の軽い口調に加賀は小さく笑った。その意味はよく分からないので放置し、砂場の砂をかき集めた。さっきから話しながら山を作っている。爪に砂が食い込んでもお構い無しで砂を固めてはどんどん大きな山を作っていく。

 加賀は砂場のへりに座って私を眺めていた。改めて考えるとこの状況、意味不明で笑えてくるな。喉の奥で笑い、それから私は「ねぇ、加賀さん」としんみり話しかけた。

「それくらいで怯んじゃダメだよ。私よりも不幸な子はまだたくさんいるんだからさ。ほら、うちの兄さんみたいな」

「君も同じくらい不幸だよ」

「いやいや、兄さんのほうがかわいそうでしょ。自分のパパを奪われて、あっちもなんだか苦労してたみたいだし? 葬式の時にそんなこと言ってたよ」

 兄さんだけが葬儀に来たのはママが呼んだからだ。自分を捨てた父親の無様な姿を見に来て、彼は当然泣きもせずそれまで募らせていた恨みを吐き出して帰っていった。当然だと思う。

「あんだけ恨みごとをたっぷり溜め込んでさ、私が生きてるだけで疎ましいって顔してた」

「そのお兄さんってさ、緑王大学なの?」

 突然のその問いに私は思わず笑った。

「うん。でもパパが死んだせいで全部諦めなきゃいけなくなったんだ。パパの保険金でも足りなくて、中退してフリーターやってるらしいよ。ママが学費出すって言ったけど拒否られた」

「そう……」

 加賀はあからさまに気落ちした声で返事した。そんなかわいそうな彼に私は明るげな声を投げる。

「おとなって本当に勝手だなって思うし、私もそんなおとなになるんだろうなって思うと寒気がするよ。ゾッとする。そんなものを抱えながら生きてくの」

「君が背負うことはないだろ。それこそおとなの勝手だって、全部おとなのせいにすればいいのに」

 加賀の言葉は無責任だった。でも、その無責任さが私にもあれば良かったのになと地味に悔しくなる。私は「あぁ」と声を漏らし、山のてっぺんを平らにしようとペチペチ叩いた。

「そうだねぇ……全部おとなのせい。私が生まれたのも、私の前に兄さんが生まれてることも」

 言葉にすると胸の奥に閉まっていた憎悪を思い出した。真っ黒な塊だ。そいつはニヤリと笑って私の中で蠢き出す。

 私はあの日、人間以下の何かになった。今までの私は人間だと思って生きていたけど、あの優しい兄がいかに私が卑しい存在なのかを教えてくれたから自分が偽物であると早めに気がつけた。

 本物になるにはどうしたらいいんだろう。どうやったら私は「不倫してできた子供」から脱することができるだろう。そう考えたら一つの結論にたどり着いた。

「そうだ、加賀さん。手っ取り早く私がヒロインで加賀さんがヒーローになれる方法があるよ」

 気がついたら言葉が口から飛び出していた。加賀は「何?」と興味深げな様子で前のめりになる。私はすくっと立ち上がると山の上に足を落とした。ぐしゃりと山が潰れる。

「兄さんを殺すの」

 そうすれば私は本物になれるのだと、ある日急に思いついた愚策を二年ぶりに吐き出せば、加賀は「何それ」と小さくつぶやいた。

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