桃花源郷

斎藤流軌

第1話

 あいにくの雨に、じゅん家の家人たちは大騒ぎで、婚礼の支度にかかっている。

景倩けいせん殿、私も何か手伝おう」

 見かねた傅嘏ふかあざな蘭石らんせき)が、新郎の兄に声をかけた。

 荀顗じゅんぎ(字・景倩)は、涼やかな目元に焦りを浮かべながら、苦々しげに頷いた。

「客人にこんなことを頼んで、面目ない。日を改めようと言ったのだが、あの強情者が承知しなくてね」

 強情者とは、新郎の荀粲じゅんさん(字・奉倩ほうせん)のことだ。彼は自分でこうと決めたら、人の意見には耳を貸さない男である。

「そういえば奉倩は、身支度中ですか」

 邸内を荀顗と駆けまわるが、荀粲の姿を見かけない。たずねると、荀顗はいっとう重い荷物を、傅嘏の腕へ落とした。

「迎えに行った」

「花嫁を迎えに行くのは、夕刻でしょう」

「そうだろう? それが普通だと、君も思うよな」

 荀顗は憤りを抑えきれなくなったのか、声高になってまくし立てる。

こんというものは、単に男と女を結びつけるものではない。家と家を結び、一族の繁栄のために行う重要な契約だ。ゆえに、婚礼の正しいあり方というものが、〝六礼りくれい〟として古くから伝えられている。仲人を通じて両家の調和をとること、占いにより慎重に事を進めることなど、六礼に示されている事柄はどれも、正しい婚姻において重要なものだ。最近はこのような形式が軽視される傾向にあるが、我が家は荀子から五百年続く家柄。我が家が手本を示して、まだ生まれたばかりのこの国の、筋というものを作ってゆかねば」

 四百年続いてきた漢王朝が、ついに幕を下ろし、最後の帝である献帝が、臣下の曹丕そうひ禅譲ぜんじょうしたのが、今より十五年前のこと。漢代末期から世は大きく震え、人々の価値観も変容しつつある。荀顗の憂いも、もっともであった。

「だというのに、あいつはまったく、自分の立場というものがわかっていない。恭公きょうこう殿の娘が美人だという噂を聞くやいなや、その顔を見に邸に忍びこみ、あげくすっかり惚れこんで、妻に迎えるなどと勝手なことを言いだした。荀家の面目は丸つぶれだ」

 荀顗は奥の部屋へたどり着くと、いらだちそのままに重い荷を床へ放った。

「こんな婚が、うまくいくわけがない」

 そう言いはなった時、表の方から、人のざわめく声が聞こえてきた。

 二人が表に出て行くと、花嫁飾りをした小さな馬車が、いきおいよく庭に飛びこんで来たところだった。

 車を引く馬に跨がっているのは、他ならぬ新郎の荀粲である。

 真紅の衣装をまとい、整えた髪の上に冠をかぶっている。ふだんのだらしない姿からは想像できない、凜々しい花婿姿であった。

「おい粲、どういうつもりだ」

「兄上、ちょうどいい。手伝ってくれ」

 駆けつけた兄の方へ傘を投げると、荀粲は車の戸を開いて、中へやさしく声をかけた。

 荀粲の呼び声に応じて、内から白くほっそりとした手がのびてきた。荀粲がその手を引き寄せると、小さな悲鳴をあげた新婦が、彼の腕の中へ飛びこんだ。

 真紅の華やかな衣装が揺れ、焚きつけられた香のかんばしいかおりが広がって、周囲に集まった人々の鼻腔をくすぐる。まるで、天女が空から落ちてきた瞬間のようであった。

「そら、どいたどいた」

 新婦を抱きかかえると、荀粲はぬかるみを踏むのもかまわず、母屋へと走りこむ。

 傘をさした荀顗が、あわててそれを追いかけた。

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