第7話

 その年の暮れ、大陸の南西から不吉な風が流れてきた。はやり病である。

 荀家じゅんけではただ一人、曹回そうかいがこの病にかかってしまった。

 高熱を出し、幾日も床へ伏せっている。医者にも診せたが、もともとの体力が弱いため、病に打ち勝つことができないのだろうと言われた。

 幼い頃から、邸の奥で大切に育てられてきた曹回に、体力などあろうはずがない。

 荀粲じゅんさんは昼夜つきっきりで、妻の看病をした。水でしぼった布を、火照った体にあてるが、すぐにぬるくなってしまう。それでも、熱にうなされる妻がかわいそうで、底冷えする夜中でも、何度も井戸から水を汲んできた。

「回、回……」

 呼びかけながら、彼女のやせた頬や手をなでる。嫁いできた時は白かった手が、日に焼け、水にさらされてすっかり傷んでしまった。

 部屋の中では、四六時中火鉢が焚かれ、生ぬるい空気が満ちている。曹回が伏せってから、香のかおりは絶え、今はただ青臭い薬のにおいばかりが不吉に漂っていた。

 曹回が身をよじり、何かにあらがうように声を出した。力の入らない腕が、体にかけられている上掛けを、払いのけようとする。

「どうした。暑いのか、重いのか」そう呼びかける声も、曹回の耳には届かぬらしい。

 曹回の魂が、どこかへさらわれてしまうような気がして、あまりのおそろしさに、荀粲の心の臓は止まってしまいそうだった。


恭公きょうこう殿の末娘は、たいそうな美人らしい」

「だが、知恵が足りないと聞いたぞ。そのために、嫁のもらい手がないと」

「まあ側室であれば、それでもいいんじゃないか」

 一年前のこと、春の浮ついた空気が漂う街中で、こんな会話を耳にした荀粲は、「ふん」と鼻を鳴らした。

「野豚のような奴らだ」

 しかしふと興味をそそられて、足のおもむくままに曹家そうけの邸を訪ねた。

 粗末な身なりの男が来たと、曹家の家人はあやしんだが、荀粲は得意の弁舌で相手を言いくるめ、押し入るように邸内へ入った。

 庭に見とれるふりをしながら、さらに奥まった内庭へ忍んでいくと、一陣の風が吹き、桃の花が散って荀粲の視界を覆った。鼻をくすぐられて思わずくしゃみをすると、東屋にいた娘が、驚き立ちすくんだ。

 桃の庭の中、まるで花の色と同化するような、あでやかな色の衣をまとった曹回がいた。

 彼女の姿を見た荀粲の脳裏に、ある伝説が自然によみがえった。

 道教の神仙の一人に、西王母せいおうぼという女神がいる。彼女は不老不死の仙桃せんとうの管理者で、桃の庭の中で暮らしているのだという。

 恍惚こうこつとなって、もの言うも忘れた荀粲を見て、曹回が鈴のような笑い声をたてた。


 荀粲は桃の庭から女神をさらい、不器用なりに彼女を慈しんできた。しかし無情にも曹回は病におかされ、今まさに命を落とさんとしている。

 荀粲は後悔をふり払うように立ち上がり、寝室の外へと飛び出した。

 寒空からしんしんと降り積もった雪の表面を、雲間からのぞく月の光が照らしている。

 月の大きなまなこの下で、荀粲はおもむろに衣を脱ぎだした。上衣を放り、帯をほどくと、肌着まですべて体からはがしてしまう。

 身にまとわりついていた死のぬくもりが離れて、凍てついた清浄な空気が肌にしみる。

 荀粲は氷のような石畳に踏み出すと、雪の中へ、ためらいもなく裸身を投げ出した。

 体が雪に沈む音が、にぶく響いた。

 雪の上へ倒れ、そのまま死んだように動かなくなるが、しばらくすると突然身を起こして、今度は背中から雪の中へ埋まった。

 青ずんだ空から、無数の雪の粒が、荀粲の方へ向かってくる。肌に吸いついた雪がゆっくりと溶けて、涙のように頬を濡らした。

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