第6話

 寝室に戻ると、ちょうど曹回そうかいが香を焚いているところであった。ほのかに甘さを含んだ、深い味わいのあるいい香りである。

 家事などはまるでできない曹回であったが、美的感覚に優れており、特別なことがなくとも、毎日美しく着飾り、部屋には花を配し、まめに香を焚いたりする。傅嘏ふかが感嘆した庭の趣向もまた、曹回が指示したものであった。

 曹回が嫁いできてから、邸の雰囲気は変わった。兄は何かと文句を言っているが、この邸を覆っていた、目に見えぬ悲壮感のようなものがうすれて、今は胸の奥をくすぐるような、あわい幸福感が漂っている。

 香から立ちのぼる煙を眺めながら、荀粲じゅんさんは頭をかいた。そして懐から小箱を取り出して、妻に声をかける。

蘭石らんせきをそこまで送ってきたんだが、帰りにいいものを見つけたんだ」

 ふしの目立つ手が小箱を開けるのを、曹回が近づいてきてのぞいた。

「まあ、きれい」

 中には、翡翠のかんざしが入っていた。手に取ってみると、玉に燭台の灯りが映りこみ、深い慈愛の色が浮かぶ。その色に見入っていると、荀粲がそれを曹回の手から取って、やさしい手つきで、彼女の髪へ挿した。

「よく似合っているよ。その衣にもぴったりだ」

 曹回はかんざしに手をふれながら、なめらかに揺れる衣の袖を持ちあげた。この衣も、荀粲からの贈りものである。荀粲は己の身なりにはまるでかまわないが、妻にはたびたび、美しい衣や装飾品を贈った。

「気に入らなかったか」

 妻の表情がどこか浮かないように思えた。

「いいえ、とても嬉しいわ。ありがとう。私も何か、お返しができればいいのだけど」

「俺は何もいらない。お前がいてくれれば、それだけで幸せだ」

 愛嬌を浮かべる夫に頷きながら、曹回の表情に一瞬、影がのぞいて消えた。


 翌朝のこと。表から人の声が聞こえて、荀粲はうすく目を開いた。するといつもなら、一番に目に入ってくるはずの、美しいかんばせがない。広い寝台には、荀粲一人きりであった。

 ふしぎに思って身を起こすと、庭の方から、何やら騒々しい声が聞こえてくる。荀粲は椅子にかけておいた衣を引っかけて、表へ出た。

「奥様、危のうございます。私どもがやりますから、どうかお部屋にお戻り下さいませ」

 見れば井戸の辺りで、曹回と使用人がもみあっている。

「何をやってるんだ」

 荀粲が声をかけると、それに驚いた曹回の手から、水の入った桶がすべり落ちた。

 重い桶は、吸いこまれるように、井戸の中へ落ちていく。あわてた曹回は、それを捕まえようと、井戸の上へ身を乗り出した。

「おい」

 荀粲が大きな声を出して、曹回を支える。

 曹回は「水が」とぼんやり呟いて、井戸の奥を見つめた。

「危ないことをするな」

 思わず声を荒げた荀粲に、曹回は口をつぐんだ。

 いつものように着飾っているが、結い髪はところどころほつれ、額には汗が浮かんでいる。つかんだ手を開いてみれば、つるべを引き寄せたのか、やわらかい皮が裂けていた。

「どうしたのだ」

「奥様が、家事をなさりたいとおっしゃられて。お止めしたんですが」

 困り果てた様子で、使用人が訴える。

「家のことはしなくていいと、言っただろう」

 すると曹回は、荀粲の手をさりげなくふりほどいた。

「妻になったのですもの。これぐらいさせて下さい」

 そう、かたくなに言う。なぜ突然そんなことを言い出したのかとたずねても、曹回はただ、「家事がしたいの」と言って譲らない。

「好きにすればいい」

 ついに根負けした荀粲が、放るように言うと、曹回は「はい」と答えた。

 その日から、曹回は妻らしく早起きし、家のことをするようになった。しかし包丁を持つ手もあやしく、火のそばへ立たせればやけどをする。洗った衣はくしゃくしゃになり、掃除をすればかえって埃が立つ。

 いっそ何もしないでいてくれた方がいいと、家人たちは影で言いあった。そんな周囲のぼやきをよそに、本人は満足そうに、家事に勤しんでいるように見えた。

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