第5話

 ようやく客間に通された傅嘏ふかは、ふくれづらであぐらをかく荀粲じゅんさんに向きあう。

「一体どうしたんだ。まるで女狐に化かされているようではないか」

かいのことを悪く言うのか」

 声を荒げる荀粲に、あわてて「奥方のことを言いたいんじゃない。君の様子がおかしいと言ってるんだ」とつけ足す。

「お前に心配されるようなことは、何もない。俺は正気だ」

 傅嘏からしたら、とても正気には見えない。

「その、うまくいっているのか。奥方は、もうこの家に慣れたのか」

 言葉を濁しながらたずねると、荀粲はいぶかしげな視線を寄こす。

「つまらん噂を聞いてきたのか」

「知っているのか」

「兄上が毎日、小言を言っている」

 世間体を気にする荀顗じゅんぎのことだ。荀家の嫁にふさわしくないと、眉間にしわを寄せているに違いない。

「世間の俗物が、かすんだ目で何を見、濁った口で何を言おうが、ぎょくの輝きをおとしめることはできん」

「たしかに奥方は美しい方だと思うが、妻には容色以外にもっと、大事なものがあるんじゃないのか」

「兄にも、お前にもわからんだろうよ。じゅに侵されてしまった目には、彼女の輝きはわからんのだ」

 儒とは儒教じゅきょうのことである。この時代、知者は優れた儒者であることを求められた。しかし荀粲は、兄弟の中で一人だけ、道教どうきょうの始祖である老子ろうし荘子そうしの、老荘思想ろうそうしそうを好んでいた。

「道教の伝承によると、世界の創造神は女神だ。伝承の真偽はともかくとしても、人は皆女から産まれるのだから、世界は女から産まれると言ってもいい。まず儒には、この壮大な視点が欠けている。まつりごとをするのは男、戦をするのは男。男が常に優位であり、女は奴隷のような扱いだ。政や戦というのは、人間の活動として下位にあたる。もっと根本的な、食うこと寝ること、さらにつきつめれば繁殖すること。これらの活動の方が上位であり、尊ばれるべきだ。そしてそれらを司るのは女だ。儒は道に対し、真理というものをおろそかにしている。人の魂を、理屈で縛りつけようとする。

 女は健康で、休みなく働き、豚のように子を産み続ければいい。容色の良し悪しなどどうでもいいと、そう言った孔子こうしを俺は軽蔑するね。汗水たらして働けばいいのは、男の方だよ。女は女神だ。美しく、魂の純潔があればそれでいい。それこそが一番大事なことなんだ」

 荀粲は声に熱をこめて、このように語った。

 傅嘏は圧倒されるように彼の話を聞いていたが、次第に笑いがこみ上げ、それを咳でごまかしながら、黙って荀粲の話すに任せた。

「何か言い返さないのか」

 拍子抜けした荀粲が、傅嘏の顔をうかがう。

「君が幸せだということは、よくわかったよ。今日は君に勝ちを譲ろう」

 こう傅嘏がからかうと、荀粲は表情を崩して、乱れた頭をかいた。

「私も人の噂は、つまらんものだと思っている。君は君の女神を、大事にするんだな」

「わかっているさ」

 そうして傅嘏は、のろけにあてられたと言って、長居もせずに帰っていった。

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