僕らの絆日記 -健と裕人-

長月優

プロローグ「絆の軌跡」

「おかえり! 健兄ちゃん!」

 玄関の戸を開けると、声を弾ませた裕人が階段を駆け下りて来る。

 待ち焦がれた運命の人に巡り会えた。そんな安心しきった微笑みを浮かべていた。

 健は手提げかばんを裕人の足元に置いた。

「ただいま、裕人」

 優しくゆっくりと語りかけるように言葉を返した。心の底からの笑顔が出せる瞬間だった。

 健も裕人の気持ちを感じている。笑顔のまま、裕人の頭を左手でそっと二度でた。

 裕人は我慢できず、学校での出来事を話し出す。

「今日ね今日ね、体育の50メートル走で、クラス一番の記録を出したんだよ!」

「裕人すごいなぁ、どうやったら速く走れるのかなぁ」

「うんとねうんとね……」

 裕人は健の手提げかばんを手に取った。

 二人はいつものように肩を揺らしながら階段を昇って行った。玄関のガラスから差していた西日が作る、長く伸びた影たちが一足早く部屋に入っていく。二人の心が走り出したように見えた。


 健と裕人の部屋は一緒だった。健が中学に入るのを機に、部屋を分けようかと両親が提案したことはあった。しかし、裕人が涙を流しながら「一緒がいい」と懇願したのだ。その姿を見た健は、裕人の気持ちを快く受け入れた。

 健は教科書が入った、えんじ色のリュックサックを背中から下ろした。ずっしりと重そうな音がする。その間も裕人は話を続けている。

 健は聞いていることが多い。だが、それがとても好きだった。

 裕人の素直な瞳と従順な心。それを伝える表情。そのすべてが健を見つめていた。

 健は学生服を脱ぎ私服に着替える。体育の授業や新聞部の取材があった日などは、体操服姿で帰宅し、そのままの格好でいる。そうでない日は学生服で帰宅し、私服に着替えていた。それが健の中のルーティーンであり、弟の前で着替えることに抵抗はなかった。

 一方、裕人は学校のクラブ活動で陸上の練習が多く、体操服でいることが多かった。

 二人はソファーに並んで腰かけ、笑いながら、時にはじゃれ合いながら話を続けた。

「――健兄ちゃんにも見せたかったなぁ」

「あはは、見たかったなぁ……。あ、もうこんな時間だ、そろそろ宿題しよう」

「あ……うん。そうだね」

 健の真面目さに影響を受けて、裕人も早目に宿題をするようになってきた。

 以前は後回しにしていて、提出日前日になって慌てていた。健に助けを求めてばかりいた。健も責めることはしなかった。それが裕人の中の意識を変えたのだろうか。

 二人は隣り合うそれぞれの学習机に向かった。裕人の分からないところは、健がヒントを出すなど手助けをする。集中して1時間程取り組むのが、日課になりつつあった。

 鉛筆を滑らかに走らせる健。時々止まりながらも、懸命に考える裕人。色々な表情の横顔を、机上のライトが同じようにじっと照らしていた。


 勉強も終盤を迎える頃になると、両親も仕事から帰って来る。父は帰りが遅いことも多い。子どもたちが寝た後になることもある。母が遅いことはあまりないが、そういう時は健が夕食を作っている。

 今日は久しぶりに家族揃っての夕食だった。

「健、裕人。ご飯できたわよー」

 階下から聞こえてくる、聞き慣れた母の声。

 待ってましたと言わんばかりに、裕人が反応する。

「うん、分かった。すぐ行くよー」

 健は裕人の表情を横目で見ながら聞いていた。裕人も、ふと健を見る。

「健兄ちゃん、ご飯にしようよ!」

「うん。そうしようか」

「僕、もうお腹ペコペコだよー」

 そう言いながら、転がすように鉛筆を置く裕人。その純粋さを大切にするように、健は音を立てずに鉛筆を机上に置いた。二人とも立ち上がる。

 整頓されていたり、開いたままだったりする机上の教科書やノートたち。一緒に過ごした時間を懐かしむかのように、二人の背中を見送っていた。


「やった! カレーだ!!」

 台所へ入るなり小さく飛び跳ねる裕人。

「良かったね裕人」

 すでにテーブルの席に着いている父が言った。

 洗い物を終えたばかりの母も、振り返りながら優しい表情で見つめていた。

「さぁ、食べましょう」

 母の声で皆、席に着く。

 大林家では親子が向かい合って座る。お互いの顔がよく見えるからだ。

 テーブルには人数分のカレーと水、おかずが数品。その中央には大きなボウルに入ったサラダが置かれていた。

「いただきます!」

 全員の声が響く。

「健の好きなサラダいっぱい作ったから、たくさん食べてね」

 正面に座っている健に向かって、微笑む母。

「あ、うん。ありがと……母さん」

 視線を左下に落とし、少し照れたように健が答える。

「裕人も、お野菜少しずつでもいいから食べてね」

 母は左を見やって優しく言った。

「うん。頑張ってみるよ」

 裕人は小さい頃、野菜嫌いだったが少しずつ克服してきている。健の影響だろうか。

「裕人、昔より野菜食べられるようになってきたね」

 褒めるように父が言う。

「そうね、昔は嫌がって泣いてたわよね」

 懐かしむように母が言った。

「何だか恥ずかしいよー」

 右手を頭の後ろにやりながら、冗談交じりに裕人が言った。食卓がほんのり笑いに包まれる。

 裕人は照れくさそうにカレーのおかわりをつぎに行った。

 その様子を目で追いながら、しみじみと父が言った。

「裕人が嫌がって泣いたっていえば、お箸の持ち方の時もすごかったなぁ」

「そうだったわね。あの時は困っちゃったわよね」

 視線を少し上にやりながら母が言った。

「え? 何があったの?」

 身を乗り出しながら健が聞いた。

「健は……そうか、あの時は学校に行ってたかな」

 記憶を辿るように父が言った。

 席に着く裕人を見やって、父は話を続けた。


 健6歳、裕人3歳。

 健は小学校へ通い始めた。母はまだ育児に専念していた。

 珍しく父が休暇を取った日だった。

 父、母、裕人の3人で、昼食を囲んでいた。いつもは右手でお箸を持つ裕人が、左手で食事をしようとしていた。ご飯を口に運ぶ前に落としている。野菜は箸と器を行ったり来たりしている。一向に食事が進む様子ではなかった。

 見兼ねた母がそれとなく様子を伺った。

「裕人はいつも右手でお箸持ってなかったかなぁ」

「こっちなの!」

 裕人が少し強く言う。

 少し不思議に思いながらも、優しい口調で父が言った。

「右手の方が食べやすそうだよ、こっちに戻してごらん」

「やだ!!」

 涙混じりに裕人が言った。

「どうしたの? 裕人」

 心配そうに母が言った。

 裕人は答えない。

「やっぱり右手で持ってみようよ」

 父はそう言いながら、裕人の左手に優しく触れた。

 その瞬間、裕人の開いたままの瞳から、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。肩は小刻みに上下し、背中で速く大きく息をしている。

 心の内に溜まっていたものを解き放つかのように、裕人が叫んだ。

「にーにといっしょがいい!!」

 裕人はこの世の終わりを迎えたかのように、大きな声を上げて泣き崩れた。

 その様子を見ていた父と母の視線が合う。言葉はなかったが、ほぼ同時にうなずいた。

「ごめんね。にーにと一緒が良かったんだね」

 裕人の頭を何度も撫でながら母が言った。

「うん……」

 呼吸の合間に絞り出すような声で裕人が言った。

「それじゃ、左手でお箸の練習しよう」

 父はそう言うと裕人の肩を二度、そっと叩いた。

 背中を大きく揺らしながら、裕人はゆっくり深くうなずいた。


「――ということがあったんだよ」

 父は正面の壁を見つめながら言った。

 裕人はうつむいたまま顔を真っ赤にして、黙々とカレーを口に運んでいる。

 母は笑みを浮かべながら、優しく見守っていた。

 健はわずかな沈黙を破るように言った。

「そ、そうなんだ……」

 平静を装ったが、赤くなった顔と上ずった声は隠せなかった。

 健は嬉しかった。しかし、初めて感じた気持ちに心は戸惑っていた。

 健は横目で裕人の方を見やった。裕人は相変わらず真っ赤な顔で、カレーを口に運んでいる。

 健は裕人の左手のスプーンに目をやった。その光景に込められた意味を、父の話を思い返しながら感じていた。

 裕人はその視線に気づかなかったわけではなかった。しかし、声をかけられたところで、言葉にならないのも分かっていた。

 そんな二人の様子を見ていた父は優しく言った。

「仲が良いのは素敵なことだと思うけどな」

「うん……」

 健は少し安心した様子でうなずいた。

 裕人は少し遅れてうなずいた。今の裕人にはそれが精一杯だった。

 母はうなずきながら二人を見守っていた。

「そうね。母さんも二人がこれからも仲良くいてくれると嬉しいわ」

 すると、裕人も顔を上げ、ようやく安心した表情を見せた。その様子に、母も安心して言葉を続ける。

「さぁ、ご飯食べたら、お風呂入ってらっしゃい」

「はーい」

 健と裕人は声を合わせるかのように返事をした。すぐさま手を合わせる。

「ごちそうさまでした!」

 ほぼ同時に言い終えると、揃って立ち上がった。

 同じ方を向いて置かれた、皿の上のスプーン。そこに宿るふたつの心。同じ時間の中で、それぞれの想いを紡いでいた。


「お腹いっぱいだね」

 天色あまいろのハーフパンツを下ろしながら、裕人が言った。

「そうだね。裕人はおかわりしたからね」

 裏返して脱いだタイトな紺色のジーパンを戻しながら答える。

「健兄ちゃんもおかわりすれば良かったのにぃ」

 まくって脱いだ白い体操服の丸首から顔を出して言った。

「僕はあれでお腹いっぱいだよ……。だから、あんまり体大きくならないのかも……」

 脱いだシャツを軽くたたんでかごに入れてから、自分の体を見つめている。

「そ、そんなことないよ」

 脱いだ服を丸めてかごに入れながら、少し慌てて裕人が言った。

「もうすぐ中3になるのに、裕人と身長あんまり変わらないし……」

 裕人の横に立って、鏡に映る姿をしみじみと見つめている。

 鏡には小学5年生の裕人と数センチしか変わらない健の姿が映し出されていた。

「大丈夫だよ。保健の授業で、身長とか体には個人差があるっていってたよ」

「うん……ありがとう……」

 悲しそうな目で下着を見つめてから、そっと下ろした。

 裕人はその横顔に気がついたが、明るく振る舞うことしかできなかった。

「入ろう!」

 そう言うと、さっと下着を脱いで風呂のドアを開け、元気良く中に入っていく。

「……うん」

 続いて、少しだけ丸まった背中が浴室に消えていった。

 かごの中の丸められた服とほどよくたたまれた服。それは服に温もりを与えてくれたあるじたちの心模様。いつもそばにいて、お互いに心を温め合える存在。


 浴室に入ると、自分の体を洗ってから、お互いの背中を流し合った。ただいつもと違うのは、わずかに健の元気がないことである。

 向かい合って湯船に浸かると、ほんの少し沈黙があった。裕人が話をしようと思った瞬間、健が口を開いた。

「さっきの父さんの話って、本当……?」

 裕人は内心驚いたが、健の優しい表情を見たら嬉しくなった。正直に話そうと心に決めた。

「うん……、言ったことは覚えてないけど、健兄ちゃんみたいになりたいってずっと思ってるから……今も。だから左利きになりたかったんだよ」

 裕人の言葉を聞きながら、健の表情はもっと優しくなっていった。

「そっか、ありがとう……。嬉しいな。裕人が弟で良かった……。僕がちゃんとしてないといけないね」

「僕も健兄ちゃんがお兄ちゃんで良かった!」

 裕人は健が言い終わるのと同時に笑顔で答えると、すぐに言葉を続けた。

「でもね、悩んでたり困ってたりしてる健兄ちゃんでもいいんだよ。僕にできることがあったら何でも言ってね!」

 真っ直ぐな瞳で健を見つめている。それが裕人の良いところであり、大好きなところである。自分の心の葛藤も見抜かれたような気がした。

 健は無意識に左手で裕人の肩を抱き寄せると、耳元で「ありがとう」とささやいた。裕人も顔いっぱいの笑みで、「うん!」と元気な返事をしながら、自分の気持ちも伝えたくて健の背中を抱いていた。

 幸せが具現化したようなたくさんの湯気に包まれながら、お互いの存在と温もりを確かに感じていた。お湯に映った色々な大きさの笑顔たちが楽しそうに揺れていた。


 風呂から上がると、楽しそうに話をしながら交互に髪を乾かす。何気ない一緒の時間をお互いに感じていた。

 お揃いのパジャマは、同じ150サイズだった。紺の両サイドに太い白い線が入った綿の上下のパジャマは、裕人が「これがいい!」と希望したものだ。

 部屋に戻ると二人は、冷蔵庫から持って来たジュースをソファーに座って飲む。至福の時間でもある。

「あー、おいしいね」

 穏やかな表情で健の目を見る。

「そうだね、冷たくて気持ちいいね」

 優しい視線を向けて答える健。

 好きなゲームや本の話、欲しい物の話、学校の話。次々に話題が出てくる。神様がつまみ食いをしていると思えるくらい、楽しい時間はいつだって短い。

 飲み終えると、空いた容器を一緒に捨てに行くついでに歯を磨く。

 部屋に戻ると、健は壁の時計に目をやった。間もなく午後8時を指そうとしていた。

「僕、宿題が残ってるから、ちょっと勉強するね」

 そう言うと机に向かう。

「あ、僕も算数が残ってたっけ」

 思い出して少し慌てて机に向かう裕人。

 黙々と勉強する二人。20分くらい経ったところで、裕人が両腕を上に伸ばしながら声を上げる。

「終わったー! 健兄ちゃんとゲームしたいな」

「頑張ったね。もう少しで終わるから先にゲームしてなよ」

「うん!」

 裕人は棚にしまってある携帯型最新ゲーム機を取り出した。ソファーに腰掛け、はやる気持ちを抑えきれない手付きで電源を入れると、すぐに音量を消す。勉強をしている健に対する裕人なりの心遣いだ。

 ゲームが始まると顔をほころばせたまま、ゲームの世界に没入していく。

 それから20分くらいして、健の宿題が終わった。

「終わったー。遅くなってごめん、一緒に――」

 見つめた先の裕人は、うっすら笑顔が残るような可愛らしい表情で眠っていた。近づいてみると、かろうじて左手で支えられたゲーム機には、キャラクターの選択画面が映ったままだった。

 健はゲームを消し棚に戻すと、再び裕人を見下ろした。気持ち良さそうな寝息が聞こえてくる。不規則に飛び出したパジャマの裾を腰回りに入れていった。全部入れ終えると、背中と両膝を支えながら抱き上げた。

 寝息がはっきりと聞こえる。近くでその表情を見つめながら、改めて裕人の素直さを可愛いと感じていた。歩いて10歩もない二段ベッド。その下段にそっと裕人を寝かせる。

 その瞬間、裕人が薄っすらと目を開けた。寝ぼけまなこで何か伝えようとしている。

「んっ……け、ん兄、ちゃん……おしっこ」

「そっか、トイレ行っておいで。転ばないようにね」

「……うんっ……」

 眠そうに起き上ると、ふらふらしながら立ち上がった。

「健、兄ちゃんは、しない、の?」

「裕人の後でするよ」

 自分のことよりも健の心配をする裕人。左右にふらふら揺れながらトイレまで歩いていった。

 裕人が布団に入るのを見届けると、健もトイレに行き、目覚ましをかけて寝る準備をする。

「健兄ちゃん、おやすみ」

「おやすみ……裕人」

「健兄ちゃん、朝起こ……」

 裕人は言い終える前にすとんと眠りに落ちた。

「……裕人?」

 程無く裕人の寝息が耳に届いてきた。

「裕人……ありがとう」

 そう言うと枕横のリモコンで部屋の電気を消した。

 縦に並んだ二つの寝顔。損得のない純粋な愛情を受け渡しながら、心が真ん丸になっていくような感覚を互いに感じていた。幸せという言葉では到底足りない、だけど名付けようもないその感覚に満たされながら、眠りについた二人。それだけで強くなれる、笑っていられる。かけがえのない思いを乗せたまま夜は更けていく。


「健兄ちゃん、起きて健兄ちゃん! 朝だよ」

 はしごの二段目に乗り、健の肩を揺らして声をかけている。部屋に差し込む光が天井を明るくし始めていた。

「……ん、あ、あぁ……おはよう……ひろ、と」

 わずかな光でさえ、眩しく感じてしまう。目を細めながら体を起こす。時計を見ると目覚ましが鳴る10分前だった。

「おはよう! いい天気だよ!」

「本当だ……」

 朝にめっぽう弱い健は、できる限りの元気を出して答える。

 ぼうっとした意識でベッドのはしごを降りると、トイレや洗顔、身だしなみを整えるなど朝の支度を始めた。裕人はすでに支度を済ませ、健の支度が終わるのを待っていた。


「おはよう」

 同時に言いながら台所へ入ると、母も「おはよう」と返す。

 すでにテーブルには朝食が並べられていた。パンやサラダ、目玉焼きが目に入る。焼いた後の匂いも鼻腔に届いてきた。

「いただきます!」

 揃って言うと思い思いに食事を始める。

「おいしいね、健兄ちゃん!」

「うん、おいしいね」

 答えながら健は裕人の左手を目つめていた。昨日の出来事を思い返しながら、その余韻に浸っていた。

 朝食を食べ終え「ごちそうさま」を言い終えると、二人は部屋に戻り、登校準備を始める。


 お揃いのパジャマを脱ぎ、健は上下黒の学生服に着替える。私服登校の裕人は、紺のハーフパンツとお気に入りの白のシャツを選んで着替えた。

 着替えが終わると、それぞれえんじのリュックサック、黒のランドセルを背に玄関へと向かう。階段を降りる足音に、母親も台所から玄関へと出てきた。

 白のランニングシューズに白い靴下が包む足を差し込むと、その位置を整えた。健に憧れた裕人も同じ物がいいと親に懇願し、同じ靴を履いている。

「行って来ます!!」

 いつもの元気な声が玄関に響く。

「行ってらっしゃい」

 健が扉を開けると、裕人が続いた。

 二人は裕人の集団登校の集合場所まで一緒に行っている。二人とも小学生だった頃とは違い、そこで別れなければならない。

「健兄ちゃん、また後でね!」

 どうしても淋しい瞳は隠しきれない。

「うん、裕人も頑張ってね。今日もたくさん話聞かせてよ」

「うんっ、分かった!」

 裕人の淋しさを感じるからこそ、優しい言葉が素直に出てくる。

 手を振る裕人に手を振りながら、健は中学校へと歩いて行った。

 裕人は、えんじのリュックサックが壁に消えるまで、健の後ろ姿を見つめて手を振っていた。


 こんなに楽しい日々が、心おどる日々が健と裕人にとっては日常だった。そんな時間がそんな関係がいつまでも続いていくのだと、意識にのぼることもない毎日。一緒に生活する今が二人の世界のすべて。

 等身大の心で、お互いを大切に思う気持ち。ひとつひとつの思いが固く固く結ばれて、形作られる『絆』とその『軌跡』が描く物語。それは音も立てずただ静かに確実に紡がれていく。

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