【㊗本屋大賞】「デビュー前夜」Vol.1  『同志少女よ、敵を撃て』逢坂冬馬インタビュー

カクヨム運営公式

逢坂冬馬氏インタビュー WEB小説はもっと愉快になる!


――『同志少女よ、敵を撃て』、アガサ・クリスティー賞満票デビューからキノベス1位、直木賞候補、そして本屋大賞ノミネートと、怒涛の快進撃続きですね。

逢坂さんは、会社員を続けながら十数年にわたって投稿生活を続けていらしたとのことですが、WEB小説サイトとしてカクヨムを選んでくださっていたのは、なにか理由があったのでしょうか?


逢坂冬馬(以下、逢坂);小説家になろうは、最大王者だけあって、アクセス数もすごいけど、カクヨムのほうがフォントがかっこよくて、洗練されている感じがしたんですよね。

ユーザーのコメントのあり方をみても、基本的に☆をつけるときはその作品を評価しているとき。そういう運営の姿勢をみて、あんまりネット受けするものじゃない地味な作品でも、カクヨムは許容してくれる場なのではないかという印象を抱いていました。

基本的に、WEB小説サイトは、カクヨムしか使ってないですね。


――実際に何作も、カクヨム上で小説を発表してくださって(※現在はいずれも非公開)、 「こんな傑作が無料で読めるなんて、ネット小説ってすごい!」等々、熱心な応援コメントもたくさんついていました。


逢坂;『同志少女~』は、独ソ戦という素材やテーマからして、そもそもネットには向いていないということは自分でも分かっていたんです。

それでも、カクヨム上で、たくさんの☆をつけていただいて、PVも自分の作品のなかでは過去一番多かったんじゃないかな。本当によく読み込んで、熱い感想を書き送ってくださった方もたくさんいらっしゃいました。特集の公式レビューがついたのも『同志少女~』が初めてで、大変励みになりましたし、すごく嬉しかったですね。


最初は、「あまりにも世界観がWEB小説の主流とちがうから、誰も読んでくれないのではないか、でもそれでもいいや」と思っていましたけど、実際には、意外と見てくれている人がいた。ネットユーザーのなかには、潜在的にこういう作品を読みたい人が、けっこうたくさんいるんだな、と思ったんです。


――公募用の小説を書きながら、それをカクヨム上で公開してみようと思われたのには、なにかきっかけがあったのでしょうか?


逢坂;早川書房の新人賞に的を絞って応募を繰り返していたのですが、その間、誰にも見せないで、ひとりコツコツ書いていました。そもそもネットに投稿するということは考えていなかった。投稿サイト発のWEB小説が書籍化されて活況を呈しているという話は耳にしていたものの、一般文芸の作風とはかなり異なるものが多く、自分が目指している方向とはちょっと違うな、と。


でも、版元の新人賞には評価シートとかそういう仕組みが何もないですから、何年も投稿生活を続けるうちに、本当に、自分はいったい何をやっているんだろう……という感じになってきてしまって。壁にずっと石を投げているようなものですからね。


それで、ランキングなんか載らなくてもいい、ただ置いておくだけでもいいから、試しに何か反応がかえってくるか、とにかくやってみようと思いたったんです。それが、2016年くらいの時期ですね。


――その思惑が見事に当たった、と。


逢坂;はい。ただ、WEB小説のいいところであり、同時に悩ましいところでもあるのは、反響の大きさや感想がもろに見えてしまうことだと思うんですよ。それに励まされるのはいいことだし、PVが増えたことを自分の喜びにするのは結構なことだけれども、あまりそれに左右されすぎないほうが、個人的にはおススメです。


PVが期待していたより伸び悩んだとしても、たった一人、作者よりも自作を理解してくれているのではないかという熱烈な読者がつくこととかって、ままあると思うんです。そういうちょっとした経験をもとに、WEBでダメなら公募用に切り替えて、小説を一から新たに組み立て直してみよう、といったモチベーションを得ることはいくらでもできる。


『同志少女~』も、カクヨムコンにエントリーして書籍化されるコースに乗るようなものではないことは自分でも分かっていましたから、カクヨムには期間限定公開とあらかじめうたっておき、照準はあくまでもアガサ・クリスティー賞に定めていました。


――なるほど。WEB上でご自身の作品を見つけて読んでもらいやすくするために、なにか工夫されていたことはありますか?


逢坂;カクヨムは作品のキャッチコピーを自分で決められますよね。小説家になろうのタイトルがなんであんなに長くなってしまうのかというと、自分の作品の売りを、全部タイトルで説明しなくちゃいけないというのもあるんじゃないかと思っていて。その点、カクヨムはタイトルとは別にキャッチコピーで惹きをつくることができる。


僕の場合は、ネットユーザーにフレンドリーな感じをだすよりは、敢えてWEB小説っぽくないものを提示するように心がけました。そのほうが、分かる人には分かってもらえるんじゃないかと。


――ちなみにカクヨム投稿当時、『同志少女~』のキャッチコピーは、「独ソ戦。人類史上最大の絶滅戦争に身を投じた女性たちの群像」。たしかに相当異彩を放つタイトルとキャッチコピーだったかもしれませんね!


逢坂;あの作品をカクヨムに出したのには、実は2つほど狙いがありました。ネット小説の主流とはだいぶ違うから、カクヨム上ではミスマッチな作品として顧みられなかったとしても、それでもなお気に入ったという人は書籍化されたら買ってくれるかもしれないし、逆に、ネットで読んだからもういいや、という人は、もともと本を買って読む習慣はない層だから、プラスにはなってもマイナスになることはないだろう、と判断したのがひとつ。


 もうひとつは、カクヨムって、各エピソードのPVが数値で可視化されてますよね。1話から始まって、見せ場にくるとそこだけぐっとPVが上がったりする。

これはWEB小説の特徴でもあると思うし、読者ユーザーさんがどうやって匂いをかぎ分けてそこだけ読んでいるのか分からないんだけど、『同志少女~』の前に2作ほど長編を投稿していて、そういう傾向があることは肌感としてつかんでいたんです。だから、作品の構成や設計がうまくいっているかどうかを試してみたかった、というのがありました。


――第一章では、ドイツ軍に村を焼かれ、目の前で母親を銃殺され、戦うか死ぬかの二者択一を迫られる主人公セラフィマの、極限まで張り詰めた描写が続きます。

一転して、第二章では、陶器のお人形のような凄腕の美少女シャルロッタ、カザフの無口な天才狙撃手アヤら、同年代の少女兵士が登場して徐々に関係性を築いていく様子が丁寧に描かれ、だいぶ雰囲気も変わりますよね。


逢坂;当然、こういった手法には賛否両論あると思います。戦記ものって、これまでずっと幅の狭いジャンルで、読者は圧倒的に男性、しかも年齢層も高いといわれてきた。でも今回は戦争とジェンダーというのが大テーマとしてあるし、現代的な時勢も考えて書かれているので、もっと幅広い人に読んでもらいたいという気持ちがあったんです。若者、女性、ふだん戦争ものは読まないけどこの作品なら読んでみたいというような層の読者の反応を得られるかどうか、そこに勝負がかかっている。


そのためには、ポップなキャラだての人物を登場させて読みやすくしてから、そのあとに地獄のような展開を出し、この落差に意味合いが生じる、というようにしたかった。

序章、一章ときて、第二章でシャルロッタが登場し、主人公のセラフィマと取っ組み合いを始めるシーンでPVがぐっとのびれば、自分の思惑は成功しているはず、という目論みがありました。


――おぉ、カクヨム上でのPV数を、そんなふうにロジカルに物語の組み立てに生かしてくださっていたとは! 実際に、数字はどう出ましたか?


逢坂;やってみたら案の定、まさにぐっとはねて、予想通りの反応でした。

幅広く読まれるためにはそうしたほうがいいと思ったし、実際世に出してみたら、こうして思いがけない反響を得ることができた。この方向で間違っていない、と商業出版する前に、自分で確信を得られたのは収穫でしたね。


――本作には、同志側・敵側ともに、出自の異なった人物が入れ替わり立ち替わり登場しますが、なぜこのときこの場で戦わなければならないのか、各人各様の切実な理由が深掘りされているんですよね。

それぞれのキャラクター自体はポップなんですが、そこにしっかりとした行動原理がそなわっているから、すんなり腑におちて、物語にぐんぐん引き込まれてしまうんです。このリーダビリティの高さがとにかく凄い。


逢坂;素材が難しい以上は、読みやすくあるべきだと考えています。あまり技巧をこらさず、わかりやすくて整っているほうが今回のテーマにはふさわしい。リーダビリティに関しては、展開をひたすらドラマチックにして、文章自体は平易にするというのを心がけていました。


――読んでいるあいだじゅう、スコープの先に自分の身体が搦めとられて、鋭い視線に刺しこまれ、執拗な殺意がまとわりついてくる緊張を感じていました。耳元では銃声が鼓膜をつんざき、硝煙と腐臭が鼻をつく。この五感に訴えかけ、臨場感あふれる表現にあたっては、映像的な素養もさぞかし必要なのではないかとお察しします。


逢坂;映像的な表現という意味では、カメラをどこに置いて何を映しているのかを常に意識しながら書く、という点は心がけていました。そうすることで、視点がぶれずにすみますし、今なにを書くべきなのかというのが非常にクリアになってくる。


とはいえ、既存の戦争映画って、かなり劇的に誇張されているので、実は執筆上はあまり参考にならなかったりもする。そこはもう、地道に戦史の記述にあたったり、あとは想像するしかありませんでした。


例えば遺体が雪原に散らばっているときに何が起きるんだろう、と思ったときに、温度差がすごいから、もうもうと蒸気があがるはずだな、って。映像の世界にそういう表現は出てこなかったので確かに苦労はしましたが、そういった戦闘シーンの臨場感を評価していただけたのはありがたいことでした。


――巻末には参考文献もたくさん列挙されていて、おそらく相当な史料の読み込みの土台のうえに着想されたと思うのですが、その史実を自家薬籠中のものとして、物語の必然性に落とし込んでいらっしゃる。


逢坂;戦史的なものを記述するパートと登場人物に密着するパートは、明確に分けて、切り替えながら書くようにしていました。

戦史的な記述はスケールが大きいので、それを飛ばしてしまうと、なにをやっているのか、どうしてクルスクやケーニヒスベルクに進撃しなければらなかったのかが分からなくなってしまう。読者のための説明パートは置いておきつつ、それは地球儀からものごとを俯瞰で眺めているようなスケールで捉えていました。だから書籍版で地図を掲載できたことはありがたかったですね。


逆に、登場人物に寄り添うパートでは、カメラを登場人物の横に置く。スターリングラード突入のシーンがその最たるものですが、頭の中では、人工衛星からみたマップのようにしてぐーっとドイツA軍集団がカフカスに攻め込んでいくところにフォーカスする。それを支えるためにB軍集団がスターリングラードに向かう。第六軍がそっちに突入する。A軍集団が燃料不足によって進撃を食い止められたことで、ここで後を絶たれたらドイツ軍は壊滅してしまう。ソ連からすれば、スターリングラードが陥落すれば、せっかく食い止めたA軍集団に補給線を提供してしまう。


そこでこのスターリングラードが焦点と化し、今まさにセラフィマらが、ソ連側の増援に向かおうとしていた、という前段の記述を受けて、レンズがぐーっと拡大して、ヴォルガ川のボートにカメラが突っこんでいき、主人公の視点と切り替わる。

こういうふうに自由にカメラを切り替えることによって、戦史的な部分と主人公の物語パートが交互にでてくる。これは意図してやったことです。


――そんなふうに主人公たちが命を賭して戦った甲斐もむなしく、戦後は一転、戦地から帰還した男たちと、銃後を支えた貞淑な妻たちばかりがもてはやされ、耳あたりのよい”美しい事実”だけが祖国の物語として共有されていく。

セラフィマら女性兵士がふたたび直面することになる底なしの絶望と一縷の希望は、物語のラストで、アレクシエーヴィッチによる『戦争は女の顔をしていない』の採話へとつながっていきます。

これまで”なかったもの”とされ、自らの戦争体験を完全黙秘しなければならなかった従軍女性兵たちのオーラルヒストリーは、本書の迫真性とも密接に関わりあっているのではないでしょうか。


逢坂;世の東西を問わず、戦争から帰ってきて何かを語る人たちは、実は特権的な立場の人が多いんですよね。特に各国の将軍たちの回顧録は、大抵の場合、最初から最後まで自慢ばかりしている。軍人が一般向けに回顧録を出すと、ほぼ100%そうなるんです。なんでかって、後世に恥ずかしくない人間だと思われたい、という自意識以外に、回顧録を出す理由なんてほぼないわけですから(笑)。


実際、そういうものは確かに一般受けしやすいんだけれども、前提にひとつ罠があって、それって、戦争に行って、生きて帰ってきているからこそ、語れているわけですよね。でも戦争って、死んでいくものたちのほうにこそ本質があって、死者の声はフィクションでしか語れないんじゃないか、と。特別な立場から自分を美化しようとするんじゃなくて、どうしようもない状態から戦争に行ってボロボロになって帰ってくる、あるいは帰ってこられない体験って、いったいどういうものだったのか。


『戦争は女の顔をしていない』のほかにもいろいろ、たとえば『兵士というもの』という、英米軍が収容所内で捕虜にしたドイツ兵同士の会話をこっそり盗聴していた記録なんかも残っているのですが、そういうオーラルヒストリーの史料に数多くあたることで、死んでいった仲間たちを見送った名もなき兵士ひとりひとりのありようを多量に摂取できたことは、やはりよかった点です。


そうしていくと逆説的に、特権的な語りがいかに虚飾に満ちたものかということも見えてくる。とはいえ、本書でもヒロイックなものとして戦争を描きすぎてしまったかもしれないという反省は今でもあって、そこは作者として、不安なところです。


――光のあたらないところに人知れず埋もれているものに目をこらして、声なき声にじっと耳をそばだてようとする逢坂さんの作家としての強い覚悟や祈りのようなものを感じます。

最後に、カクヨムで執筆活動に励んでいるユーザーさんに、なにかメッセージをいただけますか。


逢坂;そうですね……私も新人ですから、エラそうなことは決して言えないのですが、結果を出そうとして何かを苦しんで創るんじゃなくて、自分が本当に楽しいと思えるかどうか、そういう基準で書いていくのがコツな気がします。


WEB小説のいいところは、誰が何を書いていても、規約に反しない限りは怒られないところ。なにせもともとは趣味の世界なわけですから、究極、自分さえよければ、なんでもいいわけです。世の中の主流に向かって収斂していく今の現象は、こう言ってはなんだけど、少しもったいないな、と思います。ラノベの新人賞とかも、応募要項では”面白ければなんでもあり”とうたっているけど、実際にはどうしても、売れ線に似た作品が集まりやすいじゃないですか。


その点、アガサ・クリスティ賞は、上限800枚の”広義のミステリ”って、あまりにも懐が深い(笑)。もともと一読者として早川書房の本が大好きで、そこに自分も連なりたい、そこから本を出させてもらいたいという強烈な憧れがあったんです。


たしかに自分はただラッキーだったのかもしれないけれども、カクヨムのように、これだけ書きたい人がいて、読みたい人がいる環境って、出版不況が長く叫ばれているなかで、ものすごくレアだと思うんですよね。だったらもっと、書くほうも読むほうも、幅があればいいのに、とは思います。そういう姿勢でいろんな人がいろんなものを――みんなが本当に書きたいもの、読みたいものを――追求していくというムーブメントが盛り上がったら、結果としてWEB小説という世界は、もっと愉快なものになるんじゃないでしょうか。


――流行に惑わされず、自分の書きたいものを楽しんで書く。大いなる励ましのお言葉ですね。

今日は本当にありがとうございました!


取材・文 カクヨム編集部/写真提供 早川書房 (c)Hiroshi Hayakawa



逢坂冬馬(あいさか・とうま)

1985年生まれ。明治学院大学国際学部国際学科卒業。 『同志少女よ、敵を撃て』で第11回アガサ・クリスティー賞を選考委員全員が5点満点で得票しデビュー。発売直後から大増刷がかかるなど、鮮烈なデビュー作は書店員や読者のあいだで熱狂の渦を巻き起こし、話題をさらっている。



『同志少女よ、敵を撃て』

<あらすじ>

独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?


2021年11月 早川書房刊

定価(本体1900円+税)

ISBN:978-4-15-210064-1

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