06 別了

 その墓は、路傍の石を墓石代わりにしたため、余人には分からない。

 だが、その墓を掘り、作った重八には、それが墓だと分かる。


「……随分、間が空いちまったな」


 重八は馬から降りて、その墓の前にたたずむ。

 そう、重八は馬に乗る身分に――将となっていた。

 紅い頭巾に、無骨な鎧。

 そして――いよいよ、名を変えることになっていた。


「さよならを忘れていたよ」


 重八は柄にもないとぼやきながら、花を摘んで、墓に供えた。


「……あの時、焼餅をれてくれて、ありがとうな」


 おかげで腹がなった。

 あんなに美味い焼餅は、死んだお袋に作ってもらって以来だ。


 ……無言の語りかけはいつ果てるともなくつづくかと思われたが、最後には、の二人が迎えにやって来た。


「ここにいたのか」


「寺の方かと思った」


 の二人もまた、紅い頭巾をつけ、そして質素な鎧を身につけていた。 

 重八は振り返った。


「何だ、お前らか」


「何だはないだろう」


「明日は婚礼だぞ」


 賊は、養女を嫁に寄越した。

 将軍を討ち果たし、女や米穀を村々に返した重八に対し、賊は最初、難詰なんきつしてきた。

 しかし。


「国を建てるんだろ? なら、評判は大事だ」


 澄ました面で答えた重八に、賊は呆れ顔をした。

 が、翌日から救世主だの何だの言って、近在の郷村からの米や酒の貢ぎ物が相次ぎ、重八の正しさを認めざるを得なくなった。

 そのうち、重八の働きを「買い」だと思い……賊は重八を取り込もうと企んだのである。


「それで……名を決めたのか」


「ああ」


 再び墓に向き合い、重八という名はここに置いていくと呟いた。


強面こわもて生臭坊主なまぐさぼうずの名だが、冥土あの世で閻魔さまに使いな」


 お前たち童女と母親を地獄に行かせたら、おれが承知しないと言ってやれ、と笑った。


「もう……この世という地獄を、十二分に味わったからな」


 そしてその地獄はおれが終わらせてやる。

 しばしの瞑目。

 そして振り返る。


「行こう」


 重八の名を置いていった男。

 その男の門出が、が。

 今、始まろうとしている。


「それで、名は何と」


「教えてくれ、名を」


 が聞いた。

 馬上――悪相の男は力強く答えた。


朱重八しゅじゅうはち改め――」


 史上、最も過酷な状況から上がり、最も尊貴な地位へと駆け上がった男。

 「不殺」を掲げ、「養民」を唱え。

 ――徐達じょたつ――湯和とうわら名将を従え。

 の支配から、民草を救い、一大帝国を築き上げた男。


「――朱元璋しゅげんしょう


 太祖はじまり――朱元璋の、苛烈な、そして熾烈な戦いが、今、ここに始まる。


 ……元璋の背後で、小さく「別了さよなら」と声が響いた気がした。

 元璋もまた「別了さよなら」とうなずき、そして徐達や湯和らと――うららかな春の中、馬を進めていくのだった。




【了】

 


《参考資料》

壇上寛「明の太祖 朱元璋」(ちくま学芸文庫)

wikipedia

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さよならを忘れて - A spark neglected makes a mighty fire. - 四谷軒 @gyro

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