サメといれずみ美少年
武州人也
南国の思い出
僕は卒業旅行で、友人二人とともに東南アジアの某島を訪れた。目的はダイビングである。沖縄や八丈島で何度かダイビングをしたことはあるが、海外は初めてだ。
ウエットスーツを着て、シュノーケルにゴーグル、グローブ、フィンを身に着けた。空は抜けるような青さで、海は日の光を反射してきらきら輝いている。
自分の身を海に投じる。陸地というホームグラウンドから海中というアウェイグラウンドへと踏み込む。それはまさに非日常の扉を開けた瞬間だった。
澄んだ海に、南国風のカラフルな魚がちょろちょろ泳いでいる。まさに楽園だった。僕は魚についてそれほど詳しくない。ウミヘビやヒョウモンダコ、オニダルマオコゼやガンガゼなどの危険な生き物については一通り頭に入れているが、それぐらいだ。
僕はサンゴの群落を避けながら、少しずつ深いところへと進んでいった。ふと上を見ると、サヨリのような細長い銀色の魚が群れを成して泳いでいる。あれを刺身にして食ったらうまそうだな……なんて思っていると、その群れがぱーっと散っていった。
群れを散らしたのは、流線型のスレンダーな体をくねらせて突進してきたサメであった。こいつは……確かツマグロというやつだ。全てのヒレの先端が黒く縁どられているのが特徴的なサメで、性格はおとなしい。
サメというと怖いイメージがつきまとうが、小ぶりでおとなしいツマグロはさして脅威にはなりえない。今見えているツマグロも、おそらく一メートルを少し超える程度だろう。日本の水族館でもよく見られるサメだが、こうして野生のものと遭遇すると、言葉にしがたい感動を覚える。
ツマグロに感動して気をとられていた僕は、ふと前方から、何か妙な水の揺れを感じた。次の瞬間、突然右方のサンゴの影から、ごつい顔をした茶色い魚が突進してきた。
「わっ!」
驚いた僕を尻目に、魚は左側に抜けていった。あんな立派な体格の魚がぶつかってきたら大変だ。僕は大いに肝を冷やした。
この直後、もっと肝を冷やすようなことになるとは知らずに。
僕の方に向かってきたのは、あの茶色い魚だけではなかった。カラフルな小魚たちが、僕の両側を高速で通り抜け、泳ぎ去っていく。まるで何かから逃げるように。
そして、その後ろから現れたものを見た僕の全身に、ぴりりと緊張が走った。
四角い鼻先、高い背びれ、黒い背に白い腹……見たこともないぐらい大きなサメだった。そいつが体をくねらせながら、ぬっと姿を現したのだ。
僕でも知っている……このサメはイタチザメだ。しかもかなり大きい。おそらく四メートルクラスだ。さっき見たツマグロとは比べ物にならないほど大きく、そして逞しい体をしている。八丈島で見たシロワニも立派な体格をしていたが、目の前のイタチザメはそれ以上だ。
さっきのツマグロも、八丈島のシロワニも、性格はおとなしい方だ。こちらから不用意に近づいて触るようなことがなければ、ほとんど安全なサメといってよい。しかしイタチザメは気の抜けたような顔つきに反して、目についたものに何でも食らいつく貪欲さをもっている。当然人間も餌と判断されて襲われる危険があり、「ジョーズ」のホホジロザメと並んで危険なサメだ。
イタチザメは僕の周りを、ゆっくりとした泳ぎでぐるぐる回り始めた。これは非常にまずい。一部のサメは獲物の周りを旋回した後、突然食らいついてくると聞いたことがある。とにかく早く逃げなければ……そう思うが、不用意に動き出すとかえってイタチザメを刺激してしまう可能性がある。
いつの間にか、友人二人は視界から消えていた。どうやらはぐれてしまったようだ。だだっ広い海の中に男一人、そして周囲を大きなイタチザメがぐるぐると回っている。
まずい。まずい。どうしたらいいかわからない。僕はこの場から逃げ出そうと足を動かし、ゆっくりとその場を動いたが、イタチザメもまたゆっくりと距離を縮めてくる。どうにか離れてくれ……そう願ったが、イタチザメはストーカーのようにしつこく付きまとってくる。
そんな焦燥に駆られる僕の視界にもう一つ、明らかに海のものではない影が入り込んできた。
その影は、人のものであった。背が低いことやウエットスーツを着ていない海パン姿であることから、二人の友人のどちらともちがう。見ると、それは十代前半ぐらいの少年であった。華奢な体つきの少年は、勇敢にもイタチザメに近寄っていった。
少年はそのままサメの頭部に近づいて、鼻先を平手で押した。何度か鼻先を押されたイタチザメは、やがて不愉快だといった風に反転し、泳ぎ去っていった。
少年はこっちに向かっておいでをしていた。気づけば僕は岸からずいぶんと離れていた。このままでは流されたりして危険なので、僕はおとなしく少年の導きに従った。
「
岸にあがった僕に、少年が尋ねてきた。彼はどうやら英語が話せるようだ。
僕は「
僕は思わず、息を飲んだ。僕を助けてくれたのは、言いようもないほど美しい少年だった。愛らしいつぶらな瞳に長いまつ毛、健康的な褐色肌、海水に濡れた黒いポニーテール、そして頬から腕や胴体に走る赤い幾何学模様の入れ墨が、僕の目を釘付けにして離さなかった。そのほっそりとしてしなやかな肉体は、まるで先ほど見たツマグロを思い起こさせる。
美少年はほっそりとした体を反らして、大きく伸びをした。美しい褐色の皮膚が伸びるのに合わせて、脇腹の赤い入れ墨も一緒に引っ張られて伸ばされている。何とも不思議な模様だが、ただ不思議というだけでなく、彫りこまれた赤い幾何学模様の異様さが、この少年の美しさをより引き立たせているように見えた。
「君は地元の人?」
「そう、漁師の息子なんだ」
少年の案内で、僕はさっき潜った岸にまで歩いていた。その間、少年のことが気になった僕は、彼に色々訪ねていた。少年は素潜り漁を営む家に生まれ、先ほどは素潜りの訓練中だったという。サメに出くわしたときの対処は父から教わったらしい。
ともすれば少女のように見えなくもない彼は海パン一つしか身に着けておらず、大胆に上半身を露出させている。そんな彼の体を見ることには少しばかり気おくれを覚えたが、僕の両目は「彼の姿を網膜に焼きつけたい」という欲求にすっかり負けてしまっていた。
「お兄さん知ってる? サメは鼻を触られると嫌がって逃げるんだよ」
これは後で知ったことなのだが、サメの鼻先にはロレンチーニ器官という感覚器官があるそうだ。生物の筋肉が発する微弱な電流を感知する器官だそうだが、この器官はなかなかデリケートなようで、鼻先を触られ続けると感覚が麻痺して攻撃性を失ってしまうらしい。少年の家は先祖代々、経験則でサメへの対処法を学んだのだろう。
やがて、僕の視線の先に二人の男が見えた。僕の友人たちだ。こっちに向かって手を振っている。
傍らを見ると、少年はいなくなっていた。途端に寂しくなった僕は、後ろを振り返って少年の姿を探し求めた。が、まるで妖精がかき消えてしまったかのように、彼の姿はどこにもなかった。
「お前大丈夫だったか?」
「どこ行ってた?」
二人は心配半分いら立ち半分に声をかけてきた。サメのことを話題に出さなかったことで、あの大きなイタチザメを見たのは僕とあの少年だけだったことが分かった。
僕はうわのそらで、生返事しかできなかった。二人の言葉はそのまま耳から耳へと通過してしまっている。僕が考えていたのは、「あの少年ともっと一緒にいたかった」ということだった。しかしそれはもう望むべくもない。
中天を過ぎた太陽は、僕を嘲るかのようにさんさんと照りつけていた。
あれからもう五年、新型ウイルスのせいで海外へは行けていないし、日夜仕事に忙殺されてダイビングどころではない。が、ときおりふとした拍子に、あのエキゾチックな美少年の姿がまぶたの裏に映る。体に幾何学模様を彫りこまれた異国の美少年は、何年経とうと僕の心を鷲掴んで離さない。
今でも夜に彼のことを思い出しては、独り寝の布団の中で憂愁に胸を騒がす。僕と彼の歩む道は決して交わらない。そのことを想って、僕は火照った頬に涙の筋を作る。
サメといれずみ美少年 武州人也 @hagachi-hm
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