第2話

 由乃の帰る時間にはまだ間があった。家の中は薄暗くしんとしている。リビングとキッチンの他に、一階には史朗の居室として割り当てられた和室が一つ、洗面所、風呂場、トイレ。

 ハウスキーピングをしてくれというものだから、たくさんの荷物が散らかったほこりだらけの家を想像していたけれど、思いの外ものは少なく整然としていた。

 それでも史朗は日々掃除をした。床や窓ガラスを拭き、シンク、ガス台、バスタブやトイレを磨いた。

「毎日しなくてもいいよ」

 由乃は、そう言ったけれど他にすることもない。それに史朗は、決まったことを決められた通りにこなせると、落ち着くのだった。

 二階には一部屋だけがあって由乃が寝起きしている。同居を始めて一ヵ月、史朗がその部屋に入ったことは、まだない。

 史朗が物音に目を覚ますと、リビングとキッチンから灯りが漏れていた。すっかり日は暮れている。自室でうたた寝してしまったことに気がつき、体を起こす。毛布がかけられていた。

「起きた? 用意できてるよ」

 史朗がリビングに入ると由乃が言った。テーブルの上には、しっかり春キャベツの入ったアサリの酒蒸し、ママからもらったもつ煮、ノビルの味噌和えが器に盛られて並べられ、真ん中に花瓶に活けられた真っ赤なバラの花束が華やいでいた。

「ありがとね」

 由乃の若やいだ声に史朗は顔を赤くする。

「ごめん。俺がやるつもりだったのに」

「別にいいよ。ビール出して、早く飲もう」

 由乃の浮かれた調子が、史朗をうれしくさせる。

 史朗は、冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルタブを急いで起こすと、由乃の対面に座り、互いのコップに注いだ。由乃が期待を込めてこちらを見る。史朗は少し考え、由乃の期待に応えられるような気の利いたことは言えないとあきらめ「還暦に」と言って杯を合わせた。互いに一息で空けたコップに、史朗はすぐにビールを注ぐ。

「バラの花束だなんて」

 由乃がビールに口をつけ、うっとりと言った。

「柄じゃないんだけど」

「ううん、うれしい」

 由乃ならば、バラの花束と同等の値段で買える大吟醸の酒の方を喜ぶかもしれない、という思いがあったから、史朗は目の前で無邪気に喜ぶ由乃を見て、自分の振る舞いが間違っていなかったことに安心した。

 アサリを一つつまむ。ほのかにキャベツの甘みがある。おいしい。

「あれ、これ……」

「分かる? 最後に少しだけバターを落としたんだ。アサリバター」

 三杯目のビールを干して空になったコップを、由乃がもてあそぶように振ってみせるので、史朗はビールを注ごうとした。由乃は笑顔で首を振る。

「お酒、燗して」

 言われるままに史朗は立ち上がってキッチンに行き、酒を注いだ二合徳利を電子レンジに入れた。二分でぬる燗が出来上がる。簡単なものだ。由乃を見ると両肘をついた手にあごをのせ、バラを眺めるような姿勢で目を閉じている。

「疲れてる?」

 史朗が聞くとそれには答えず「よかった、シロに来てもらって」と言った。

「きれいな家で快適に過ごせるし、何もしなくても食事は出てくるし」

 目を閉じたまま言う。史朗は由乃の前に猪口を置いて燗にした酒を注ぎ、自分のコップにはビールを注いだ。

「俺も助かってる。今、収入無いし」

「でも、ずっとこのままでいいと思ってないでしょ」

「さあ、どうだろ」

 そんなふうに言われると、何か考えていたように振る舞わなければいけないような気がしてくる。まだ一ヵ月。何かをを考えるには早過ぎる。

「ここにいると時間が経たないような気がしてた」

 由乃が「ふふ」と声を立てて目を開けた。

「本当は何も考えてないでしょ」

「場当たり的な行動をしていれば結局一番自然に、物事が収まるべきところに収まる……ような気がする」

 史朗が、個人の意志みたいなものを邪魔に思うようになったのは、ずい分と若い頃だった。

 幼い頃は、小突き合い程度で済む男同士の本能的な競争は長ずるにつれ、暴力が使われることも増えてくる。それでも大人になれば、拳が振るわれるケースは極まれになるので、すっかりなくなったものだと思っていた。

 それが水面下で、形を変えて続いていたことを知った時、そんなものからは、さっさとリタイアしようと決めた。男は粗野で野卑で乱暴だ。

「やっぱりよかった、シロで」

 由乃が手酌で、酒の最後の一滴までをていねいに猪口へ落とした。史朗に向かって空の徳利を振る。史朗は立ち上がって空の徳利を手にキッチンへ立った。

「私の元旦那のこと、聞いたことあるでしょ」

 リビングから由乃が言った。

 史朗はキッチンに立ったまま自分のコップにビールを注いだ。

「彼、四十だったんだけど、ずい分と若い子に入れあげちゃって」

 由乃は両肘をついた手にあごをのせ、バラを眺めている。

「ばかみたいよね、心中なんて」

 由乃は猪口を持ち上げ、空になっていることに気がつき、そのまま置いた。

「高額の保険に入ってたからね……ああ、もう三十年も前のどうでもいい話」

 由乃がこちらを向いて笑ってみせた。

「そっか」史朗は言った。

 それはとりあえず相槌をうたなければ、という気持ちから出た言葉だった。

 初めて聞くことだった。「わに屋」のママも知っていることなのだろうか。長いつき合いだから、きっと知っているはずだ。

 遠い昔のどうでもいい出来事。

 由乃の言葉をその通りに受け取るべきだろうか、史朗は思った。のろのろと二合徳利に酒を注ぐ。史朗にとって自殺とか不倫とか、そうしたものは遠い異国で起きている紛争のように、世間に確かにあるらしいことだけれど、現実感を欠くものだった。

 由乃が立ち上がってキッチンに入ってきた。

 自分はどう振る舞うのが正しいか。

 とりあえず史朗は、酒を注いだ徳利を電子レンジに入れた。タイマーを二分にセットする。

「お酒、もういいや。眠くなっちゃった」

 由乃は史朗の手を引いた。キッチンから廊下へと連れ出す。

「来て」

 由乃は史朗の手を引いたまま階段を上り始めた。

 史朗が十年ぶりの女の肌に触れた時、階下の電子レンジが小さな音を鳴らした。


 今日も史朗は午前六時に起きた。

 ステンレス製の作業台でコーヒーミルのハンドルを回す。豆の挽かれる鈍い音がして薄暗いキッチンにコーヒーの匂いが立つ。

 コーヒー豆を挽き終えると史朗は、厚く切った食パンにナイフでバツ印に切れ込みを入れた。トースターで少し温め一旦取り出すと、たっぷりバターをぬってから、戻してタイマーを七分にセットする。

 二階で引き戸を開け閉てする音がした。由乃が階段を下りてくる。いつもの時間に起きたらしい。

 史朗はペーパーフィルターをドリッパーにセットして、細挽きにした豆を二杯分そこに入れた。

「おはよう、シロ」

 一階の洗面所で顔を洗った由乃がリビングに入って来た。無造作にひとつくくりにした短い髪の後れ毛が、濡れて首筋にはりついている。対面式のキッチンカウンターに着いた由乃に、史朗はコーヒーを手渡した。

「ありがと」

 由乃は両手で受け取ってひと口すする。

 史朗は焼き上がったトーストを皿にのせ、ひとつまみの塩をふってはちみつを回しかけ、カウンターに置いた。由乃はすぐにちぎって口にはこぶ。小気味よい音が薄暗いリビングに響く。

「トーストもコーヒーもおいしいよ」

 由乃は両肘をついて、両手で持ったコーヒーカップに口をつけ、上目遣いに史朗を見る。

「毎朝作ってたから」

 史朗は由乃と向かい合って、キッチンに立ったままコーヒーを飲んだ。

 朝食を終えると由乃は二階の自室に戻り、身支度を整えてすぐに下りてきた。ほとんど化粧もしない由乃の身支度は毎朝早かった。

 通勤用のショルダーバッグを肩にかけたまま、由乃は薄暗い玄関の上がり框に腰かけた。史朗はスニーカーのひもを結ぶ由乃の筋張った手の甲と、白く縁取られたつむじを見下ろした。勤め先の図書館まで歩いて十分。由乃はいつもジーンズにスニーカーのラフな格好で、その十分を歩く。

 由乃は立ち上がって振り向くと少しだけ伸び上がり、その装いのないくちびるを軽く史朗に重ねた。

「いってきます」

 由乃がドアを開けると、五月の光が差し込んで一瞬玄関が明るくなった。

「見送るよ」史朗も三和土に降りてサンダルをつっかける。

 どうしたの? という顔で由乃が見上げた。

「わに屋」の脇道から橋のたもとへ出ると、由乃はつないでいた手を離した。

「じゃあ」と言って小さな川にかかる人道橋を渡る。野川がゆるゆると流れる。

 切り通しまで真っ直ぐに伸びる道に、小さくなる由乃の後ろ姿がいつまでも見えていた。朝のゆるい風に雑木林の木々がわずかに揺れている。

 その風景をしばらく眺めるうちに、ああ……と史朗は思う。

 崖線の急斜面は宅地造成に不向きだから、それでこの辺りの開発から取り残されて、雑木林が残っているのだ。青々とした葉を茂らせ、大きく枝を伸ばしていても、雑木林はその急斜面に、芝居の書き割りのように薄っぺらく連なっているだけなのだった。

 切り通しを上りきったところで由乃が振り返り、大きく手を振った。史朗も手を振り返す。交差点を右に折れて、由乃の姿が見えなくなると、急に史朗は心細い気持ちになった。

「お見送り?」

 振り返ると「わに屋」のママが立っていた。ジャージ姿で、朝のウォーキングの帰りだという。額に汗が浮いていた。

「ほほえましいわあ、若いっていいわね」

「いえ、若くありませんけど」

 そうだったわね、とママは笑って首にかけたタオルで額の汗をぬぐった。

 五月に入ってから初夏の陽気が続いていた。今日も暑くなりそうだ。青空を見上げて史朗は思う。

 膝の屈伸を始めたママを眺めながら、史朗は由乃のことを聞いてみようかと思った。でも、どんな聞き方をすればよいだろう?

「毎日お見送りしてるの?」

 ママの方が声をかけてきた。

「いえ、今日はたまたま」

 ママは地面にぺたりと座って足を真っ直ぐに伸ばした。前屈して自分のつま先をつかもうと苦労している。

「背中、押しましょうか」

「ええ、お願い」

 史朗はママの背中に両手をあてて、少しずつ力を込めた。あれだけ苦労していたのに、ママの体はすんなりと前屈した。

「やわらかいですね」

「毎日トレーニングしてるから」

 史朗が手を離しても、ママは前屈した姿勢を保っている。一分ほどその姿勢を保った後、顔を上げ、大きく息を吐いた。その顔は紅潮している。

「夕べのお祝いはどうだった?」

「ごちそうさまでした。おいしかったです」

「お楽しみだったでしょう?」

「えっ? ええ」

「うちまで声が聞こえたわよ」

 史朗は顔を真っ赤にして口を開けた。

 言うべき言葉を探したけれど、何も出てこない。

「冗談よ。何、いい齢して」

 ママが大きく口を開けて笑った。

 史朗はすっかり肩の力が抜けて、聞こうと思ったことなど、どうでもよくなってしまった。そして、ふと思いついたことを聞いてみた。

「『わに屋』って、どういう意味なんですか?」

 ママは座ったまま足を広げ、今度は自分の足の間に向かって前屈を始めた。

「私の名字『和爾わに』っていうの。知らなかった?」

 ああ……と史朗は思う。

 いつまで由乃の家にいられるのか、それは分からない。けれど由乃は自分を受け入れてくれている、ように思える、今は。先のことを考えても仕方がないのだ。自然に収まるべきところに収まるだろう。

 家に帰ったら、まずコーヒーカップと皿を洗おう。

 それから二階の由乃の部屋を掃除して、窓ガラスも拭こう。

 ひと仕事終えたら、昼からビールを飲んでもいいかもしれない。

 ママからもらったつまみも、まだある。

 磨き上げた窓ガラスに映り込む青空を眺めたら、きっと気持ちがいいだろう。



(了)

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春の小川 @sakamono

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