春の小川

@sakamono

第1話

 片側二車線の幹線道路は渋滞一歩手前の混み具合で、停留所でバスを降りた史朗は歩道を歩くうち、自分の乗ってきたバスに追いついてしまう。ちょうど左に折れる路地に差しかかるところで、奥に由乃の働く図書館が見えた。この三月で定年になった由乃は、嘱託として週四日、元の職場でまだ働いている。

 そんなに働かなくても、と史朗は思う。

 三十年前に旦那の浮気で離婚して、慰謝料と持ち家をもらったと、由乃から聞いたことがあった。二人で購入した新居は当時築十年で、今では資産価値もないから固定資産税も大したことないの、と由乃は笑った。

 三十年も昔のことだから、今ではもう、笑って話せることなのだろう。

 その時の慰謝料は、かなり高額で手をつけずに貯蓄してある、という話は酒場の馴染み客の間で肴にされる他愛のない噂話で、史朗が由乃から直接聞いたことではなかった。

 路地を過ぎ、信号のある大きな交差点を左に折れると道は切り通しになり、左右の崖が次第に高くなる。道幅は狭くなり交通量もいく分少なくなる。崖の上に建ち並ぶ、分譲住宅を右手に見ながら史朗は坂を下った。坂の終わりで崖が途切れると左右へ伸びた崖線に雑木林が連なり、目の前に住宅の密集した平たい風景が広がる。

 途端に強く風が吹く。

 雑木林の木々が枝をしならせ、新緑の中にくすんだ色の葉裏を見せる。崖線に沿って流れる野川の川辺に、一様に高く伸びた草も風になびく。小さな川にかかる人道橋のたもとに、史朗のなじみの「わに屋」が見えた。その裏手が由乃の家だった。

 由乃とは度々「わに屋」で顔を合わせた。カウンターが五席だけの狭くて煤けた、傾きかけた木造平屋の小さな家屋が、店主の住居を兼ねた飲み屋だった。

「ハウスキーピングしてくれればいいから」

 カウンターの端の席から由乃は史朗に言った。まだ寒さの残る三月半ばのことだった。

「来月から仕事ないって、言ってたよね」

 由乃は手元の二合徳利を店主に向かって軽く振り「ママ」と呼びかけた。燗酒の追加を注文する。

 そういえば少し前、三月で契約が切れた後の仕事がまだ決まっていない、と話したことがあった。史朗は三十五の歳からもう十年、システムの開発に携わる派遣社員として、短期の仕事をぽつりぽつりとこなしていた。時に数ヵ月仕事の途切れることもあったけれど、家庭もこれといった道楽もない史朗にとって、そんな働き方の収入で生活には十分だった。十分であればそれ以上を望むべくもない。

 木枯らしのような風が、磨り硝子の入った入り口の引き戸をかたかたと鳴らした。天井からぶら下がる薄暗い蛍光灯が、かすかに揺れた気がした。

 底を布巾で拭きながらママがカウンター越しに、由乃の前へ二合徳利を置く。由乃はすぐに手酌で一杯を干した。

「なんか肌ざみしくて、最近」

 ママが洗い物の手を止めて、つと顔を上げた。微笑みながら由乃の顔を見る。

「酔ったの? 由乃ちゃん」

「さあ、どうだろ」

 由乃はこちらに顔を向けるように左手で頬杖をつき、右手で猪口に酒を注ぐ。由乃と反対側の端の席で史朗はビールを飲んでいた。由乃の様子をぼんやりと眺める。

住み込みの食事付きなら、家賃も食費もかからなくなるから、それもいいかもしれない。

「考えてみてよ、シロ」

 由乃は徳利を置くと、頬杖をついたまま史朗に視線を寄越した。史朗はひさしぶりにまじまじと人の顔を見た。だいぶ飲んでいるはずの由乃の目元は、それにもかかわらず、やわらかなほろ酔い加減で、酔うとあどけない顔つきになるのだな、と思う。

 風がまた入り口の引き戸をかたかたと鳴らして、寒くもないのに思わず史朗は身震いした。

 シロというのが、由乃が子供の頃に拾った犬の名前だということは後に知った。茶色い毛をした雑種の中型犬で、由乃の家で十二年生きたそうだ。

 思えばあの夜から呼び捨てにされている。無論それは史朗にとって、心地のよいことだった。もう長いこと、誰かに親しく呼びかけられることもなかったから。

 橋の上で立ち止まり、史朗は左肩にかけた買い物バッグを背負い直した。見下ろした野川は、川面に青空を映して、ほとんど流れているように見えない。深さは子どもの膝ほどしかない。水源にほど近いこの辺りでは野川は幅の狭い小さな川で、平らな土地をゆるゆると流れる。

 史朗が生まれ育った、ここからずっと西の山あいの町では、川は細く激しく流れた。全体が深い山の中にある町の空は狭く、峡谷を流れる川はごつごつした岩ばかりの川原で、そうした風景を見慣れた史朗の目に、ここから眺める平たい風景は新鮮に映った。橋を渡ると違った時間が流れている気がした。五月になって、暖かくなり始めてからは休日になると、川で遊ぶ子どもたちや家族連れのはしゃぐ声が、家の中にまで聞こえるようになった。

 傾きかけた日に、雑木林の長い影が川辺へと伸びる。平日の遅い午後、今はその川辺に人影も見えない。土の川辺には人通りに踏み固められた跡が、白く細い道となり川と並んでどこまでも伸びる。この小さな川はどこにたどり着くのだろう。

「あら、素敵」

 声をかけられ顔を上げると、「わに屋」のママが竹ぼうきを片手に、店の前に立っていた。ちょうど店から出てきたところらしかった。

「どうしたの、それ」

 左肩に買い物バッグをかけた史朗の右手には真っ赤なバラの花束が握られている。

「今日、還暦のお祝いをするつもりで」

「由乃ちゃんの?」

「ちゃんちゃんこはやめて、って言うから」

 ママは下を向いて声を立てずに笑った。

「ちょっと待ってて」

 そう言って店に入ると、しばらくして紙袋を手に出てきた。

「もつ煮とノビルの味噌和え。セリは湯がいて冷凍しといたものだから」

 おひたしにでもして、と言いながら紙袋の口を開いて見せる。中には大小三つのタッパが入っていた。

「私も由乃ちゃんに還暦祝ってもらったし。お持たせだけど」

 セリとノビルは、先週由乃と史朗が摘んできたものだった。

 由乃は仕事が休みの日、よく一人で散歩に出た。

「意識して歩かないと足が弱るから」

 由乃は度々そう言った。

 散歩は、野川沿いの遊歩道を三十分ほど上流に向かって歩き、また戻ってくる。いつも決まった道だった。先週は「野草摘みしよう」と由乃に連れ出され、史朗は由乃の、いつもの散歩コースを一緒に歩いたのだった。

「すみません、わがまま聞いてもらって」

 セリ、ノビル、フキやクレソン、史朗には雑草としか思えないものも含め、由乃はそれらを「わに屋」へ持ち込んだ。おひたし、天ぷら、油炒め、その夜の「わに屋」のつまみは由乃の摘んだ野草になったのだった。

「いいのよ、毎年のことだし。春先から今頃まで……」

 騒々しい音に会話が途切れた。

 右手から低く飛んできた軽飛行機が、この先にある飛行場に着陸するところだった。ゆっくりと高度を下げる飛行機を見上げながら、史朗はふと思いついて聞いてみた。

「野川はこの先でどうなるんですか?」

 ママは次第に低く、見えなくなる飛行機の後ろ姿を見送りながら答えた。

「多摩川と合流するのよ。知らなかった?」

 夕暮れが近づいている。遠く響くエンジンの音は、いつまでも鳴り止まなかった。

 家に戻ると史朗は、風呂場でバケツに水を溜め、バラの花束を入れた。生花のことなどよく知らないけれど、とりあえずこうしておけばよいのだろう。後のことは由乃に聞けばいい。

 史朗はキッチンで、買ってきたものの整理を始めた。週に二度、バスで十五分のJRの駅前まで史朗は買い出しに行く。家の周りに食品や日用雑貨の店はない。駅から少し離れると、東京も西の郊外は意外と不便だった。その不便さにもすっかり慣れた。習慣になれば苦にもならない。逆に不合理であっても一度ついた習慣を変えることの方が、史朗は不得手だった。


 今日も史朗は午前六時に起きた。

 由乃のためにコーヒーを淹れ、簡単な朝食を作り、仕事へと送り出す。掃除、洗濯を済ませると本を読み、野川沿いの遊歩道を散歩した。本は由乃が図書館で、いくらでも借りてきてくれた。

 料理の本もずい分と読んだ。料理など、ろくにしたことはなかったけれど、本に書かれた分量や調理の仕方をきっちり守れば、手際や見てくれはともかく、それなりの味に仕上がる。史朗にはそうした几帳面なところがあって、手先も器用な方だったから、短い間に料理もだいぶ上達した。さして食にこだわりのない由乃を、満足させるには十分だった。

 コーヒーの淹れ方は由乃に教わった。それまでインスタントコーヒーばかりを飲んでいた史朗は、由乃に教わって初めてコーヒーを淹れることになった。コーヒー豆を見るのも初めてだった。

 信じられない、というふうに由乃は目を丸くした。

「機会がなかったから仕方ない」

 答える史朗に、由乃はくつくつと笑った。

「そうだね。世の中知らないことの方がずっと多いのだものね」

 由乃は度々こうした鷹揚な受け答えをした。だから史朗は安心してしまう。他人に対する自分の振る舞いを、いちいち気にせずに済んだから。

「こだわりはないけど、蒸らしだけしっかりやって」

 そう言って由乃は、史朗にコーヒーの淹れ方を手ほどきした。

 由乃につき合う形だった散歩も、すっかり史朗の習慣になった。枯草ばかりの野川の川辺に、春先の緑が芽吹き始める頃からだった。

「シロは断ることをしないのね」

 野川沿いの遊歩道を上流に向かって歩きながら由乃が言った。

「同居のこともそうだったし」

 よく晴れてはいても、たまに吹く風は北風で、薄手の長袖シャツ一枚で出てきた由乃は、自分の体を抱くように何度も両腕をさすった。

「断らないと思ったから話を持ちかけたんだけど」

「そうした方が角も立たないし、いいかなって」

「あまり、我が強くないみたい」

「さあ、どうだろ」

 他人と張り合うために生きているわけじゃない、と思ったらいろいろなことがどうでもよくなっただけだった。

「世渡り、大変でしょう」

「意外と大丈夫」

 主張のない人間に世間は優しい。

「由乃の方は? 俺なんかを家に入れて」

「シロはハウスキーパーだし。だけど……」

 由乃は、くすんと鼻を鳴らした。

「この先に、大きな霊園があるの、知ってる?」

 由乃が急に話を変えたので、史朗は怪訝に思いながらも、この辺りでそんな案内板を見た記憶があったから「たぶん」と答えた。

「お墓、買ってあるんだ」

 由乃は丈高く伸びたハルジオンを一本手折って、くるくると回した。

「貧乏になるよ、それ」

 史朗の言葉に由乃は笑いながら言った。

「お墓って、自分で入ることはできないのよね」

「普通に考えれば、そうだね」

 由乃は何を言いだしたのだろう。

「私のお骨、どうにかしてくれるかな」

「構わないけど、俺の方が先かもしれないし」

「そんなことしたら、一生許さないから」

 そう言った由乃は、自分の言い方を変に思ったのか「短い老い先だけど」と、照れた顔で付け加えた。


 史朗は水を張ったボウルに買ってきたアサリを入れ、砂抜きをした。店で目についた春キャベツと一緒に、酒蒸しを作ろうと買ったものだった。

 還暦祝いにごちそうを、と今朝話したけれど、酒を飲む時に由乃はあまり食べない。アサリの酒蒸しとママからもらったつまみがあれば、十分のはずだった。

 シンクから顔を上げると対面式のキッチンからは、カウンター越しにリビングと、小さな庭に面した掃き出し窓が見える。窓の外には濡れ縁があって、軒が深く切ってあるので、リビングには日が差さず薄暗い。三十年前に家を買う時、由乃は濡れ縁から眺める小さな庭が、いたく気に入ったということだった。

 その割には、熱心に庭いじりをする様子もなく、庭はそっけない。今年の冬、由乃が気まぐれに作ったという鳥のエサ台が傾いでいる。

 由乃と同居をしなければ、野草を食べることなど生涯なかった、と史朗は思う。まだ春の浅かった頃は、散歩をしながらフキノトウも摘んだ。フキノトウはフキ味噌となって、その夜の酒肴になった。由乃はフキ味噌をなめながら、ずい分と遅くまで酒を飲んでいた。いつまで飲んでいたのか、先に寝てしまった史朗は知らなかった。

「歩いていると、いろんなことを考えるよ」

 散歩の度に由乃は言った。先週の野草摘みの時も、そう言ったものだから「どんなことを?」と史朗は聞いた。由乃は空を見上げ、少し考える仕草をした。

「入っている保険の、もっとお得なプランを検討したり、とか」

 由乃は川面に目をやって、また少し考える仕草をした。

「ヒトの脳って、どんな仕組みなんだろう、とか」

 何か深く思索をしているわけではないのらしい。史朗は「そっか」とだけ言った。

 小さな水の流れる音が耳につき、史朗も川面に目をやった。川底に段差があるらしく、ほとんど流れのない川の、そこだけに瀬ができているのだった。

「そうだ、シロ」

 由乃は言いながら遊歩道をはずれ脇の草むらへ入り、しゃがみ込んでその辺りの草を引き抜き始めた。きっと食べられる野草なのだろう。

「私の保険の受取人になってくれないかな」

「いいよ、別に」

「即答? そう言うと思ったけど」

 由乃は引き抜いた野草を「これ、ノビルだから」と、史朗に見せる。史朗も由乃の隣にしゃがんで、由乃の引き抜いているものと同じ形の葉を探した。



(続く)

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