これが私の日記

雨 杜和(あめ とわ)

雪の日、わずかな希望と、その日の日記



 薄暗がりに、ベッドから起き上がる。


 ユズは深い眠りのなかにいた。

 軽くイビキをかき眉間にシワを寄せて。そのあまりに無防備な姿は、どこか滑稽こっけいでさえある。


 唇をなかば開いて眠る姿を、私は愛おしく感じるのだろうか?

 わからない……。


 先ほどまで私の肌を這っていた唇が、今はただ夜の闇に二酸化炭素を吐きだすだけの器官になり果てている。


 普段のユズはそっけなく、むしろ乱暴だが、ベッドのなかでは違う。


 その繊細な唇は、まるでなにかを確かめるかのように、身体中を這っていく。

 手順が決まった馴れた動きに、私の身体は機械的に絶頂へと導かれる。


「あっ……」

「ここ?」

「ユズ……」

「ほら、言ってごらん。ここ?」

「い…じわる、ね」

「いい子だ。もっと?」

「ねえ、今日は何をしていたの?」と、声は身体とは別の言葉をかける。


 ユズは目を細め、その言葉を吟味する。

 小首を傾げ、不思議そうな表情になり、「なにも」と言って、手を這わせる。

 機嫌がよければ、そこに「いつも通り」と付け加える。


 今、ユズは眠っている。


 窓のカーテンは開いていた。

 カーテンの向こう側から街頭の灯りが部屋に差し込み、ユズの顔半分だけを暗いオレンジ色で照らしている。


 ベッドから軋む音が消え、気だるい疲れのなかで、静かに深い眠りにもぐっていく。


 夜は辛い。


 私は眠ろうと努力してみた。

 しかし、一向に眠りは訪れない。


 ユズの整った横顔を眺めながら、今は他人であることに不思議な感覚を感じる。


「ユズ」と、小さく声をかける。


 目を覚まさない。

 一度眠ると、めったなことでは起きない深く濃い睡眠だ。

 こうした関係が9年続いた。


 私は日記を手に取る。ふたりの関係を書き綴った日記。


 今年、ユズは38歳になる。

 出会ったときは29歳、私は31歳だった。


 明日は私の誕生日。

 40歳になる。


 そのことを意識しないではおれない。


 ベッドの上で半身を起こす。


 カーテンを開けた向こう側では雪が降っていた。

 窓に映る景色は別世界で、暖かいベッドルームから見るそれは非現実的なほど美しい。


 夜は深く、窓の折戸を風が叩く音がする。

 今宵は風が強い。

 街灯のオレンジ色に、白くおおきなボタン雪が浮かんでいる。


 シーツをめくり、ベッドから床に足を下ろす。

 眠れる気がしない。


 時計は午前0時をさしていた。

 明日は休日だが、でも、ここにいても惰性のようで、そんな怠惰な自分が嫌になる。


 パジャマ代わりのシャツを脱いでセーターとスカートに着替え、ダウンコートを手に持つ。


 マンションの3階から階段で玄関に向かう。

 自動ドアが開いた瞬間に雪が吹き込んできた。


 しかめた顔がガラスドアに映っている。


 どうするの?

 行くの?


 自問しながら、濡れたコンクリートの道を進む。

 この時間の吉祥寺は人通りが少ない。


 道路は凍ったところもあり、滑りやすい。

 透明傘に雪が積もっていくのを眺めていると、すっと足を取られた。

 転びそうになって、思わず街路樹に手をついた。


 落葉樹の湿った木肌で手のひらを傷つける。

 ついてないなぁ。


「ついてない。でも、もう9年だよね」


 思わず声にだしていた。と、背後から低い声が聞こえた。


「なにが9年だ」

「ユズ。どうして」

「おお、寒っ」

「寝てたんじゃないの」

「寝てたよ、ぐっすり。ほら、だから見ろよ」


 カシミアのコートをはだけると中身はパジャマ姿だった。その寝乱れた姿は愛嬌があって……、ずっと少年だったみたいな顔を無視できない。ユズの右手が伸びて肩に触れた。まるで、私がここにいるのを確かめているような仕草だ。


「午前0時にどこへ行くつもり」

「どこって、どこへも。ただ、なんとなく、明日は誕生日で、40歳なんだと思ったら、なんとなく」

「バカか」


 その声は優しい。

 いつもそうだ。終わりにしようと思うたびに、絶妙なタイミングで追いかけてくる。

 私たちはそのまま言葉もなく歩いていく。

 雪は降り続いている。


 吐いた息が街頭の下で煙る。

 ユズは仕事で有能と言われている。実際に有能であり、どんな難題に出くわしても冷静にそつなくこなす手腕は頼もしい。


 自分だけのスタイルがあり、それは、リーガルの履き古した靴だったり、お気に入りの店のオーダースーツだったりする。


 私は自分を女だと思う。


 しかし、ユズは違う。

 自分を男だと認識している。徹底的に男に寄せることで、性転換手術もいとわなかった。


 私は純粋なレズビアンだ。普段はビアンって言うけど。


 それをはじめて意識したのは高校生時代。

 男の子たちが不潔に見えてしかたなかった。思春期特有の潔癖さで、彼らを異星人のように扱った。


『あそこをゴミが歩いている』と、3階の校舎窓から覗きながら、思わず本音を言ったとき、隣にいた友人のシオリは少しとまどった表情を浮かべていた。

『だって、あれ、健斗けんとじゃない』

『健斗だからって、なに』

『イケメンだし、勉強はできるし、足も速いって、完全な王子さまよ』

『そう、かな』

『あら、逆に好きなんじゃないの?』


 ぜんぜん……、と言おうとして言葉をのむ。

 私は曖昧あいまいにうなずく。気持ち悪くて仕方がなかったのは、思春期特有の潔癖さだと、その当時は思っていた。


『シオリは、どうなの? 健斗のこと』と、話題を変えた。


 ちょっとうつむいたシオリの仕草は、ゾクっとするほど愛おしいもので、私は思わず両手で唇を抑えた。


 触れてみたい。

 絶望的な気持ちで、私は自分の欲望を隠す。無駄にはしゃぎ無駄に笑う。


『健斗を好きな女子は多いわよ』

『そうなんだ』

『だから、今、聞いた話は黙っとくわ』


 同級生のように誰かを好きとか、キスしたとか、そういうことに萌えなかった。私の萌えは、それを話す彼女たちに対してであって、自分でもちょっとおかしいと思い始めていた。だから、そのことを知られまいと必死に感情を抑えた。


 高校時代。私は6人の仲間とつるんでいた。

 彼女たちの中でも、とくに、シオリが好きで、彼女の体温を感じると胸が高鳴ってどうしようもなかった。


 恋バナをしながら、なにかの拍子に肌が触れるとドキドキした。そんな自分を持て余していた。


『それに、あいつ。あんたのことが好きだよ』

『あいつって誰』

『健斗のことよ。ほら、こっちを見てる』


 そう言った彼女の顔は、少しだけ悔しそうだった。健斗はこの高校のアイドル的存在の男子だったから。


『ゴミはゴミよ』

『わかんないなぁ』


 私は他の女の子たちと違うと気づいていた。男子に興味が持てなかった、持てないどころか嫌悪感さえ覚えた。

 なぜ、そうなのか。

 他人と違うことを意識して葛藤もした。


 男を好きになるべきだと自分を追い込んで、病んだこともある。


 ユズはちがう。


「俺はね、本当は男なんだ。間違って女に生まれてしまった。この身体がいとわしい。毎月、生理になるたびに死にたくなる」


 ユズが手術をすると言ったとき、私は反対した。

 怖かったのだ。

 彼女の外見が男になっても、まだ、彼女を愛せるだろうか。この関係が変化することに怯えていた。


 ユズは私を異性として愛し、私は彼を女性として愛している。


 手術後の後遺症に悩むユズを、精神的にも肉体的にも必死に支えたけど、その理由は自分でもわからない。


 この関係に満足しているとも言えるし、してないとも言える。それは曖昧あいまいで、いつも私を悩ませる。


「これでいいの?」

「また、いつもの悩みか」

「ええ、そうね。不安なの。このまま年を経ていくことに。それは、私が女しか愛せないからだろうか」

「バカだな。お前はバカだよ」


 雪が降っていた。

 ユズは私の肩を抱くと、いつものように優しくとろけるようなキスをした。


「誕生日、おめでとう」

「ユズ」


 シャッターの降りた商店街。


 もうこの時間に営業はしていはずなのに、カフェから音が漏れてくる。

 それは『TAKE FIVE』という、古いジャズの曲だった。


 サラリーマン風の酔っ払いがふらふらとカフェから出て来た。

 いったんは通り過ぎてから、こちらを振り返り、「ヒューヒュー」と言って、親指を立てた。


「今日はね」と、ユズが男に声をかけた。

「この子の誕生日なんだよ」

「そりゃ、祝うべきだな」

「そうだよ。祝うべきだろ」

「まったく、見せつけんなよ。こっちは古女房のところへ帰らにゃならん」

「奥さんと幸せに」


 男は「ははは」と笑うと。

「あんた達もな。まだ、新婚かい。誕生日、おめでとう。きれいな姉ちゃん」


 その酔っ払いの声はどこか哀愁があった。

 私は彼を見てほほ笑んだ。


「ありがと」と、二人で陽気に叫んでいた。

「あんたたちも、はよ、帰りな。寒さで酔いが冷めるぜ」

「帰ろう、ここは寒い」


 渦を巻くように強く降り出した雪は、世間から私達を隠す。

 こうやって、隠れるように、これからも生きていくのだろうか。


「それでいいの?」


 私は聞く。

 ユズが、ほほ笑む。


「いいとか悪いとか、そんなことを考えちゃいけない。俺たちはここにいる。それだけでいいんじゃないか。俺は、それだけでいいと思っている」


 雪が夜の街に降り続いていた。

 今日は誕生日。40歳になった。これが私の日記。毎日、過ぎていくことを書いている。


    ー完ー

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