佐藤日記

エプソン

佐藤日記

『読むな!!!!』


 春訪れを感じる柔らかな日差しが降り注ぐフリーマーケットの一角。仕事の息抜きとばかりに外出していた青年の視界に気色の悪い本が映った。

 見た目は少し値が張りそうなハードカバーだ。しっかりとした佇まいで中央には『DIARY』の文字が入っている。日記帳であることは分かったが、ただ一点において異質な箇所があった。


 何だこれ?


DIARYの文字の下に筆ペンで書いたような荒々しい字で『読むな!!!!』と書いてあるのだ。それも何度も上から書いたのか若干文字が分厚い。白の表紙は他に汚れが無いだけに、余計に異質さが強調されていた。


 気色が悪っ!


 しかしながらそう思う反面、何故か日記に惹かれる自分がいる。全く持って意味が分からなかったが、本を眺めているだけで荒んだ心が沸き立ってくるようだった。


「これ触れても大丈夫ですか?」

「あ、はい。問題ないですよ」


 店番をしていた女性に一言断りを入れ日記帳を手に取る。ずっしりとしているがページ数は思っていたほど多くは無さそうだ。

 そのままひっくり返して裏を見る。すると右下隅には『佐藤』の文字。表紙の勢いのある字とは対照的で非常に達筆だ。


 佐藤。

 元の持ち主の名前だろうか。まさか自分と同じ名前だとは……。


 しかしながら別に不思議なことではない。佐藤は全国で一番多く、日本の約180万人以上の人間の苗字が佐藤なのだ。しかしこれを見て何も思わないほど、仕事に精神を打ちのめされているわけではない。


 『読むな』って書くぐらいなら名前書くなよな。しかも苗字で。


 見れば見るほど元の持ち主の愚かさに失笑してしまう。

 だが、この行動が良くないと気付いた時には遅かった。きっと周囲の人間には商品を嘲笑っているように見えたことだろう。

 咄嗟に空いた手で口元を隠したが、店員の女性には気付かれたようだった。


「……これください」

「50円です」


 気まずい雰囲気から逃れるために自然と馬鹿な言葉が口から飛び出てしまう。

 面白いと思って手に取ったものの、冷静に考えれば使用済みの日記など無用の長物だ。例え残りページが残っていようと、こんな気色の悪い文言が記載された日記を誰が使うだろうか。しかも中身を全く確認していないときている。愚行中の愚行を犯してしまった。


「はい」

「おつり50円です。ありがとうございました!」


 だが、時既に遅し。

 酷く真面目な思考とは異なり、体は純粋な好奇心に正直だった。

 お釣りの五十円玉を手に取った時には自分のことが分からなくなっていた。


 自分で作った流れのせいだとはいえ、何でこんなもん買っちまったんだろ。


 傍目には洋書に見える日記を抱えながらとぼとぼと自社へと戻る。そして、買ったばかりの日記を思い切り鞄に叩き込んだ。折角休日出勤をしているというのに、自身のあまりの馬鹿さ加減にそれからは仕事が手に付かなかった。


「あ……」


 夜。

 社畜である佐藤の唯一の味方である自宅の布団の中で、ふと佐藤は日記の存在を思い出した。購入したはいいものの1ページも読んでいなかったのだ。


 別に明日でも良いか。衝動買いしたもんだし。


 心の中で言い訳を並べて読まない姿勢を取り続ける。

 枕を顔に押し付け必死に抵抗したのも束の間、結局溢れ出る意欲に負け会社鞄の元へと行くと、目的のそれを取り出した。


「ざっくり見るだけだ。そしたら寝る」


 わざと声に出し自身に言い聞かせる。

 そしてわざわざ椅子に座り机の上に本を置くと、ゆっくりと表紙を捲った。

 最初に目についた文章は思っていた内容はかけ離れたものだった。


『3月28日。初めて訪れた町の古本屋でこの日記を見つけた。最初は買う予定はなかったが不思議と魅了されてしまい、気付いた時には購入していた。何でこんなものを買ってしまったのだろう。分からない。が、妙に惹かれている。何故だろう?』


 何だこれは。

 古本屋? また更に前に持ち主が居たのか?


 次のページを捲ろうとしたが紙同士がくっついているのか開かなかった。どうにか続きを見ようと奮闘するがどうしても剥がれない。


 っ――無理そうだな。明日また考えるか。


 仕事で疲れていたこともあり素直に諦める。そして近くにあった付箋を1枚手に取ると、栞代わりにページに挟み床につくことにした。

 次の日。佐藤は目覚めるなりすぐさま日記の元へと向かった。無性に続きが気になり、いてもたってもいられなくなったのだ。前日次のページが捲れなかったことすら忘れて。


「開くぞ……!」


 くっついていた次のページは朝になると嘘のように簡単に開いた。だが、その次のページと前のページは開かなくなっていた。挟んだはずの付箋すら消えていた。


 この本の仕掛けなどどうでもいい!

 そんなことより内容だ。


『3月29日。酷く体が衰弱しているのが分かる。近頃の働き過ぎた反動が来ているのだろうか。体調が悪いのなら仕方ない。今日は寝るとするか。休日だというのに非常に残念だ。――はて日記は何処にやっただろうか』


 佐藤は目的のページを読み終えると、糸が切れた人形のように布団に戻った。

 そして次の日。会社に行く準備をすることなく佐藤は今日も日記を開いた。二日酔いの朝のように鋭い痛みが走る頭を抑えながら。


『3月30日。酷い頭痛がする。そのせいで動く気力が全く沸かない。明日も同じ体調だったら病院に行くとしよう。だが日記は見なければ』


 佐藤は会社に欠勤のメールを送った後、自分も病院に行くかどうか迷ったものの眠ることにした。身体が言うことをきかず、頭痛とのダブルパンチがやる気を奪っていった。


『3月31日。とうとう立てなくなった。どうしてこうなったのだろうか。あの日記を買って以降ずっとそうだ。もしかしたら呪いの日記だったのだろうか。その証拠に世界が激しく回っている状況下でも日記だけは見るのを止められない。僕に一体何が起きているんだ……』


 朝に日記を確認した途端、訳が分からなくなった。


 なんだこれなんだこれなんだこれなんだこれなんだこ──!


 この日記の人間と同じ症状が続いている。辛いなんていう感覚はとうに通り越して呂律も回らなくなっている。気合でスマホを手に取るも救急車の番号さえ思い出せない。


 日記の人物はどうなってしまうんだ。

 同じであればこれは。


 眠りにつくのが怖かった。

 眠っている最中に何度も吐いてしまったのか、掛け布団から異臭がした。しかし匂いなど最早気にする余裕が無い程いつの間にか追い詰められていた。

 何となく分かっているのは日記に生気を吸われているということのみだ。他人の日記を見るという快楽の代わりに日記に捕食されているように思えた。前の持ち主が述べているような呪いかどうかは不明だが、良くないものであることは確かだ。


 おれは──おれはしぬのか。こんなことで。こんなもので。


『しがつついたち。ぼくはどうやらもうだめらしい。こんなことならにっきなどかうべきではなかった。だがただではしなない。こんなにっきにまけてなるものか。ぼくはぼくのいしでこいつにいっしむくいてやる。おなじようなぎせいをださないために。――佐藤』


 日記はここで終わっていた。

 読み終えた佐藤は奇声にも似た呻き声を上げながら全力で人差し指を嚙み切った。

 そして日記の表紙に向かってただ一言書き殴った。


『読むな!!!!!』

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