君のヒロインになりたかった

御角

君のヒロインになりたかった

 朝、いつものように窓から差し込む日の光で目が覚める、はずだった。

「ことみ! 気がついたの!? 気がついたのね!」

「おお、ことみ! よかった、本当によかった……」

 重いまぶたを上げると、いつも怒ってばかりの母と、仏頂面ぶっちょうづらでほとんど話さない父が、なんと目の前で号泣していた。寝起きで痛む頭に、その泣き声が響く。

 体を起こそうとするが、眠たさのせいか全然動かない。というより、体に力が入らない。何故なぜ二人が泣いているのか、それを聞こうとしても上手く声が出せない。そもそも、ここは私の部屋ではない。これは……夢? いや、金縛かなしばりだろうか。

「無理するな! お前1週間も寝てたんだぞ。今はまず休んで体を治せ」

 1週間も? 流石にロングスリーパーの私でもそこまで熟睡は出来ない。覚えている限りの記憶をどうにか辿ろうとするが、頭がズキズキと痛むばかりで何も思い出せなかった。

「お父さん、お母さん、私、何で、1週間も……?」

 かすれた声でなんとかしゃべろうと努力するが、空気はのどかすかに震わせるばかりで、むなしく通り過ぎていく。

「覚えていないの? あなた、右折してくるトラックにかれたのよ……」

 そう言われても、思い出せないものは思い出せない。ようやく少し首が動くようになった私は、困った表情で周囲を見回す。白いベッド、点滴、ナースコールのボタン。どうやらここは病室のようだった。

 手すりのついた独特な扉をぼんやり眺めていると、不意にそれはガラガラと音を立てて開かれ、人が3人ほど駆け込んできた。皆、涙を流しながら、口々に心配の言葉やお見舞いの品を差し出してくる。

 思い出した。この子達は大学の同級生だ。ノートを見せて貰ったり、カフェで一緒に勉強したり、色々とお世話になっていた。まさか、自分のためにここまで泣いてくれるとは。そう思うと、感謝の言葉を十分に伝えられない今の自分がなんだか情けなかった。

「よかった……。ことみが死んじゃったら私、本当にどうしようって」

「事故ったって聞いた時は私も、もう頭真っ白だったもん。でも生きてて本っ当によかった!」

「本当にね。いくらことみが寝坊助ねぼすけだからって、起きるの遅すぎだよ、もう!」

 3人は泣きじゃくりながら、次々に文句を言う。でも今はその小言が何だか温かかった。

 ふと、横を見ると、友達や両親とは別に、知らない男の人が立っていた。黙ってじっとこちらを見つめている。白衣を着ていないため医者ではないはずだが……知り合いだろうか? 思い切って話しかけようと意を決した瞬間、医者と看護師があわてて病室になだれ込んできた。


「逆行性健忘、つまり記憶 喪失そうしつの可能性がありますね」

 男の人や友達が出ていった後、医師は私と両親に向かって淡々と言い放った。

「でも、私達のことは覚えていたじゃない。友達だって」

 母の疑問に父も同意を示していた。

「ことみさんは確かに、全て忘れてしまっているわけではありません。記憶喪失の中でも軽い方です。ただ、事故前の一ヶ月ほどの記憶が混濁こんだくしているようで……」

 医師の言葉は本当だ。私は友達と試験勉強をしていたことは覚えている。でも、既に終えているはずの試験や、夏休みに入ってからのこと、その 諸々もろもろは全くと言っていいほど記憶にない。

「つまり7月中の記憶がないってことですか?」

「ええ、今はちょうど8月の頭ですから、まぁそういうことになります」

 父の確認に、医師は深くうなずきながら答えた。

 両親は相当ショックを受けているようだ。

「心中お察しします。記憶が戻るかはまだなんとも言えませんが……とにかく、一刻も早く退院できるよう最善を尽くしますので」

 よろしくお願いします、と頭を下げ、両親は医師と固い握手を交わした。


 朝、いつものように窓から差し込む日の光で目覚める。昨日よりも体は軽い。

 爽やかな朝の空気を大きく吸い込み、そっと目を開けると、昨日病室にいた男の人がじっと私の顔をのぞきこんでいた。目と目が、合う。

「わっ」

 思わず飛び起きると、彼は慌てて謝罪してきた。

「ごめん、起こすつもりはなかったんだけど……」

「いえ、それよりも、えっと……あなた、誰、ですか?」

 彼は少し驚いた後、苦虫をつぶしたような顔をして、落ち込んでいた。

「そっか……記憶喪失なんだっけ」

「はい……残念ながら」

 私が冗談っぽく笑うと、彼も苦笑いで返してきた。その顔を、前にもどこかで……。

「痛っ」

「だ、大丈夫? まだ病み上がりなんだから無茶しちゃ駄目だよ」

 私は、オロオロする彼を少し可愛いと思ってしまった。急に二人きりのこの状況が恥ずかしくなってしまう。

「あ、じゃあ自己紹介するね。僕は広田ジュンっていいます。えっと、ことみちゃん……あ、佐川さんとは同じゼミだったんだけど、本格的に話したのは7月が初めてで」

 ゼミ、そういえばかなりサボっていたような気もする。それで確か怒られて……。

「教授に君を見張るように頼まれたんだ。レポートをちゃんと書かせろって」

 そうだ、サボった分レポートを書かされたんだ。今までサボってきた私一人じゃとても出来ないようなレポート……。

「もしかして、それ手伝ってくれた?」

 私が恐る恐る聞くと、彼は目を輝かせ喜んだ。

「そう! そうなんだよ! それで7月中はずっと二人でレポート三昧ざんまいで……。あ、そろそろ帰らなきゃ。ごめん、また明日の朝来るね!」

 じゃあ、と彼は一方的に別れを告げ病室を去った。入れ替わるように母がお見舞いに来る。

 本当は、もっと話していたかった。彼といるとなんだか記憶が戻るような気がするのだ。実際、彼のことも少し思い出した。

 そうだ、両親は彼のことを知っているのだろうか? 窓の方を向いて林檎りんごを手に取る母にたずねる。

「ねえ、お母さんはジュン君って知ってる? 広田、ジュン君」

 母の林檎をく手が一瞬止まる。が、すぐにナイフをまた動かし始めた。

「さぁ、知らないわねぇ……」

 もしかしたら、彼氏とか、そんなロマンチックなことを考えていた私はがっくりと肩を落とした。まぁ1ヶ月一緒に勉強したくらいじゃ知らなくて当然か。私は渋々しぶしぶ納得した。


 それから何度も、ジュンは私の病室にやって来た。私のレポートがいつもギリギリで苦労したこと、参考 文献ぶんけんを二人で探しに行ったこと、最後の方には、ジュンの助けなしでもちゃんとレポートを書けるようになっていたこと、そして、無事最後まで提出できた後に打ち上げを一緒にしたこと……。彼は来る度にいろんな思い出を私に教えてくれた。ジュンが来るのは、決まって二人きりになれる朝。私にとってこの時間は、入院中の唯一ゆいいつの楽しみとも言えるものだった。


 入院7日目、私はもう二度と使わないであろうベッドの上で大きく伸びをした。リハビリは順調で、私は目覚めてからわずか1週間で退院できるまでに回復した。

 今日は入院最終日。退院したらまず彼に、ジュンにお礼を言いたい。レポートだけでなく入院中の話し相手までしてくれたのだから、お茶くらいおごるのは当然だろう。決して会うための口実ではない、決して。ああ、早くこないかな。会いたい。彼に早く元気な姿を見せたい。

 ガラガラッ

 病室のドアが開く。

「ジュン君!?」

 しかし、そこにいたのは黒いスーツに身を包んだ知らない夫婦だった。後ろには私の両親も、同じように黒いスーツを身につけたたずんでいる。

「あなたが、ことみさん……ジュンが、うちの息子がお世話になりました」

 そう言い女の人が頭を下げた。

「頭を上げてください……! うちの娘こそ、それはそれはもう本当にお世話になって……本当に、何と言っていいのか……申し訳ありません」

 両親は目に涙をめ必死に土下座している。その様子を見て夫婦もくずれ落ち、泣きわめく。人目もはばからず、4人の大人が号泣する様子に、私はただ困惑することしかできなかった。

 頭が割れるように痛い。まだ何か忘れているのか、私は。もっと重要で、大切で、残酷ざんこくな思い出……。

「今日で、退院なさると聞きました。よかったら、息子の葬式そうしきに、参列していただけませんか?」

 目を真っ赤にらした女の人が私の手を握る。そうだ、あの日も、彼は私の手を……。

「——勿論もちろんです。私のせいで、彼は亡くなったんですから」

 私は彼の母の手を強く握り返した。


 全て、思い出した。あの日、打ち上げが終わって帰路きろに着く時、私はかなりっ払っていた。一緒に飲んだ彼もフラフラで、何もないのに、二人で歩きながら大笑いした。

 だから、横断歩道を渡る時、私は左からせまるトラックに気がつくことができなかった。

「危ない!!」

 ライトで視界が真っ白になる頃には、もう手遅れだった。死ぬ。直感的にそう思った。

 気がついた時には後ろに引っ張られて、脳に衝撃が走った。目の前が鮮烈な赤に染まる。地面にその体が打ちつけられた時、私はようやく、彼が私の手を引いてかばってくれたことに気がついた。

 ブレーキ音が、深夜の道路にこだまする。ぐちゃぐちゃになった彼と目が合った時、彼は安心したような、未練が残るような、そんなおも持ちで静かに微笑ほほえんだ。私が最後に見た彼の顔は、血にまみれた苦笑いだった。


 もしあの時、トラックに気がついていたら、お酒を飲み過ぎていなければ、ジュンは今も私のとなりにいたのだろうか。あの時ちゃんと告白していれば、彼は未練を残さずに済んだのだろうか。

 いくら問いかけても答えるものは誰もいない。もっと話をしたかった。もっと二人で、いろんな経験を積んで、協力して、お互いを知って、それから……。


「私、やっぱりあなたがいないと何にも出来ないや。迷惑かけてごめんね……ごめん」

 遺影のジュンは私が知るどんな彼よりもまぶしい笑顔だった。生きているうちに、知りたかった。

 きっと彼は、私が謝ることを嫌うだろう。助けたくて助けたと平気でのたまってしまうのだろう。だから、泣いて謝るのはもうやめにした。

 今まで本当にありがとう。大好き、私のヒーロー。来世では、次こそは必ず、あなたの彼女ヒロインになってみせるから。

 私は静かに手を合わせた。

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