富士山麓エスケイプRTA

悠井すみれ

第1話

 あ、これブラック企業ってやつだ。


 私がそう気づいたのは、マラソンを開始してから小一時間経ってからだった。頭上には青空。見渡す限りの深緑の山々。自然豊かで美しく、電波は届かず商店はおろか民家もない。人里離れた山奥で、三週間。まだ、その初日。新入社員の心を折って社畜に仕立て上げるっていう、アレだ。


 たぶん、私はとても鈍い。そうと気付く機会はいっぱいあった。今時、四月一日いっぴから合宿で研修だとか。その行き先がバスに何時間も揺られて──つまり公共交通機関がない──森深い富士山の麓だとか。

 ひとりひとり、皆の前に出ての自己紹介では、喉が痛くなるほど声を張り上げても小さいって怒られて。これ仕事に関係あるんですか、って呟いた男子はヤクザみたいな講師に泣きじゃくるまで詰められてた。大人が人前で怒られて泣くなんて、初めて見たかも。


 鈍いっていうか──麻痺してたのかも? 苦労して内定ゲットして、それでブラックでしたー、なんて。受け入れたくなくて。でも、広大な大自然を前に、ちっぽけな人間の自己防衛本能なんて脆かった、とか? うん、だからちょっと訂正しよう。


 これやっぱブラックだわ。


 私の前を走る同期の、艶やかなポニーテールが、揺れて──滲む。堪え切れずにこぼれた涙によって。私、こんなとこで何やってるんだろう。親とかお祝いしてくれたのになあ。退職しようにも研修が終わるまでは逃げられない。働く気のない──なくなった──会社の社訓を唱えて社歌を歌うなんてどんな拷問? なんて時間の浪費。新卒カードの無駄遣い。気付いてしまうと涙が止まらない。体力と気力を消耗すると分かっていても、泣き叫ばないとやっていられなかった。


 その後も心身への拷問めいたと、修行僧もかくやの質素かつ不味いご飯で涙も枯れ果てた私を待っていたのは、黄色っぽく変色した薄っぺらな布団だった。きっと、数多の無知で愚かな新卒生の汗と涙を吸って来たんだろう。


      * * *


 せめてもの慰めは、ポニーテールの美人さんと同室だったこと。ハンドソープとしか思えないで私の髪はがびがびだけど、彼女のはしっとりと艶やかなまま。研修でも怒られた場面は少なかったみたい。綺麗なデキる子でも、ブラックに入っちゃうこともあるんだなあ。


「えっ、と……大変だった、ね?」


 引き攣った声と笑顔で、美人さんの同期に話しかけてみる。助け合えたら──は、図々しいかもしれないけど、仲良くなれたら心の支えになるかもしれない。


「早く寝よ。体力回復しないと」

「う、うん。そうだね……」


 でも、彼女はさっさと布団にもぐっちゃった。まだ夜の十時、修学旅行ならこれからが女子会の時間だっただろうけど。確かに寝ないと持ちそうにない。明日は六時からご飯前にランニングだっていうし。


 寝坊なんてしたら、それこそ泣くまで怒鳴られるだろう、って。一日で骨身に叩き込まれた。疲れのお陰で、変な臭いの布団でも一瞬で眠りに落ちることができたんだけど──


「起きて。早く」

「え、もう朝……?」


 彼女の声と、揺さぶられる感覚で、私は目を覚ました。寝惚けた目を瞬かせてみても、辺りは真っ暗。起床時間にはまだ早いのになんで、って首を傾げると、闇の中でも彼女の目は輝いていた。


「逃げよう」

「え?」


 完全に覚醒しているらしい彼女についていけなくて、間の抜けた声を上げる。


「逃げる、って。でも、あの」


 車で何時間もかけてきたのに。警察はもちろん、民家だって近くにはないのに。スマホとお財布は取り上げられてないけど、それは使うアテがないからであって。徒歩で何時間もかけて下山する、の? 真っ暗な中を、ふたりだけで?


「日が経つと気力体力を消耗しちゃう。やるなら早い方が良い」


 正しい。私だって無理って思ってたとこではある。でも、とりあえず研修が終わってからのつもりだった。初日の夜に脱走なんて、判断が早くない?


「でも、会社──」

「一秒でも早く退社した方が将来のため」


 うん、確かに。それだけ再就職も早くなるだろうしね。また就活なんて嫌だけど!  それに、懸念はそれだけじゃない。


「見つかったら、どんな目に──」

「一緒に来ないなら、悪いけど縛る。言いつけられたら、困るから」

「……行きます!」


 慌てて──声は殺して──叫ぶと、彼女は嬉しそうに笑った。この子でもひとりは怖いのかも、ってちょっと思って、それで、私も嬉しかった。


      * * *


 怖い講師に怒鳴られながらじゃなくて、ふたりで手を繋いで急ぐ夜の道は楽しかった。月と星と、たまにともすスマホのライトだけの、危うい行軍でも。真っ黒な空が少しずつ薄い青と燃えるような赤に染まって、山の稜線をくっきりと浮かび上がらせるのはとても綺麗。一日の最初に目を射る太陽の光も、とてもとても眩しくて頼もしい。そんな思いを分かち合える相手がいることが、何にもまして嬉しくて。──そして、通りすがった車に乗せてもらった時の安堵と言ったら!


 親や、いわゆる退職代行業者を挟んで、ブラック会社からサヨナラするのは比較的あっさりしたものだった。本社にも出勤しないで、研修初日に脱走なんて、なかなかの記録じゃないかと思う。次は──これをネタとして面白がってくれるところがあると良いんだけど。


 あの地獄の研修は──たった一日で脱落した訳で、語れるほどのものじゃない。良い経験だったって笑えるほど、私はまだ寛容になれはしない。ただ、彼女と出会えたことについてだけは、感謝しても良いと思う。一瞬とはいえ同期になれて、同じ部屋を割り当てられた幸運については。


 その偶然と幸運──それに、彼女の勇気とあの時の私の勢いのお陰で、一生ものの友人に出会えたんだから。

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