手の甲に独特なタトゥーが特徴の男
「なぁーんで誰も! この人に席を譲らないんだっ?」
ぼくが乗っている電車の中で、おばあさんが怒り出した。それでハッとして、ぼくは読んでいたロックの雑誌を閉じた。そうだ、ここは優先席なんだから譲らなくてはならないんだ。それなら、ぼくが……!
「あたしゃあ88年も生きてきたが……随分と冷たくなったなぁ、世の中ぁ!」
ぼくは立ち上がろうとしたけれど、おばあさんの言葉が続いたのでストップ。それにしても元気で長生きだなぁ……なんて感心していたら、また怒声が聞こえてきた。
「勝手なのばっかだから優先席が作られたっちゅーのに、これじゃあ何のために優先席ができたのか……分かんないなぁ!」
「す、すみません、この席どうぞ……」
立ち上がったのは良いけれど、そのときぼくは悩んだ。なぜなら、どっちに席を譲るべきか分からなかったからだ。88歳のおばあさんの隣に、妊婦さんがいる。一体ぼくは、どうすれば良いのだろう。おばあさんは、妊婦さんを席に座らせたいみたいだけど……。
分からない。
分からないなら、ぼくは……!
「次は……」
よし、いよいよ電車を降りられる。
ぼくは優先席を譲った直後、逃げるように隣の車両に移った。それでも何だか落ち着かなくて、早く電車内からいなくなりたかった。
車両を移った後に振り向いたら、あの優先席は妊婦さんが座ることになったようだ。おばあさんは立ったまま。しかし、おばあさんが席を譲られないのは……なぜ?
それでも、ぼくがいなくなってからも、おばあさんは元気そうに何かを話していた。そして、ぼくは自分が注目されていることも知った。
「ふぅ……」
ぼくは、まだまだな人間だ。小さいころはよく意地悪されて、厄介なことは押し付けられて、仲間外れにされてばかりで……。
でもロックが好きになってからは、本当の友達ができた。派手な格好もするようになったし、タトゥーにも手を出して、いじめられっ子だった幼少期とは違う扱い方をされるようになった。あの弱いぼくが、よく人から怖がられることになるなんて……。
でも、ぼくは本当に強くなったのか?
それで本当に生きやすくなったのか?
そんなことを考えてばかりな日々。仲間と共に楽しいことは増えたけれど、やっぱり変だと思う。
さっき逃げてしまったことが何よりの証拠だ。強そうな見た目なのに、情けない。もっと変わりたいよ、こんな自分は嫌いだ。
「あの、すみません!」
「……?」
電車を降りて歩いていると、ぼくはあの妊婦さんと再会した。まさか、また会うなんて……。
「さっきは席を譲っていただき、ありがとうございました!」
「い、いえ……そんな……」
「お礼を言えて、本当に良かったです。失礼しました」
「は、はい……」
妊婦さんは電車で見たときとは正反対の、明るい表情だった。もしかしたら変わらなくて良い部分もあるのかな、と妊婦さんの背中を見ながら、ぼくは思った。そして少し元気が出た。
ある朝の電車内での出来事 卯野ましろ @unm46
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