大きな声で会話に夢中なカップル
「どうしよう。やっちゃったよ、あたし……」
「やっちゃったのはボクの方だよ……」
あたしは今朝、旦那と電車内で話していた(しかも、なかなか大きな声だったと思う)ら、すぐそこにいた妊婦さんの隣に立っていたおばあちゃんに叱られた。
「なぁーんで誰も! この人に席を譲らないんだっ?」
「あたしゃあ88年も生きてきたが……随分と冷たくなったなぁ、世の中ぁ!」
「勝手なのばっかだから優先席が作られたっちゅーのに、これじゃあ何のために優先席ができたのか……分かんないなぁ!」
「さ、座りな。あたしゃ足腰を鍛えるから、ずーっと立ったままで大丈夫だ! だからぁ、誰もあたしに譲るなよ!」
あのときの、一部始終が今でも自分の頭の中から離れない。おばあちゃんの台詞全てが、電車から降りた後も忘れられない。
「……あたし、きっとバチが当たるよ……」
「だ、大丈夫だよ! こうして反省しているんだしさぁ!」
「いやいや、絶対にバチが当たるって。あたしは自分と同じ状況の人に、あんなことしちゃったんだからさ……」
「そんな……」
あたしも実は今、妊婦なのだ。それなのに、他の妊婦さんを困らせるなんて……。
「天罰で……流産でもするんだろうね、あたし。まあ、こんな薄情者の母親から産まれたい赤ちゃんなんて……いるはずないもんね……」
「や、やめなよ! そういうこと言うのは、良くないって!」
「だってさぁ……」
目から涙が流れているあたしを慰めてくれる旦那も、何だか泣きそうだ。あーあ。あたし何やってんだろうね。妊婦さんに気付けない、おばあさんに怒られる、そして旦那を悲しませる……。こんな人間が、母親になれるわけないんだよ。妊娠なんて、するんじゃなかったね。
「ちょ、ちょっと! そこのお二人!」
……ん?
あたしたちのこと?
メソメソしながら、あたしが振り返った先にいたのは……。
「ゲッ!」
誰かに呼ばれたと思い、ボクら夫婦が後ろを向くと……。
「さ、さっきの、おばあちゃんよ……」
思わず嫌そうな顔をしてしまったボクと、驚きのあまり流れていた涙が止まった奥さん。そんなボクらを、さっき電車で叫んでいた、あのおばあちゃんがじっと見ている。
ボ、ボク他にも何かしたのかな?
どうしよう、逃げちゃいたい。
でも……。
「すみませんでしたっ!」
「えっ?」
「あなたも妊婦さんだとは知らず、あんなことを言って……申し訳ございません!」
「……」
予想していなかった展開に、奥さんもボクもポカンとしている。あんなに怒っていたおばあちゃんが、ボクら夫婦に頭を下げているなんて……。
「電車を降りるとき、奥さんのマタニティマークに気付いてねぇ……。あたしゃあ、大バカだったよ! あんな偉そうに怒鳴っといて、結局は妊婦さんに優しくなかったねぇ……」
わざわざ電車を降りて、奥さんに謝ってくれるなんて……。このおばあちゃんは、本当に優しい人だった。
「そ、そんな……。大声で喋っていた、あたしらが悪くて……。ごめんなさい」
「そうです。ボクが喋っていないで、あの妊婦さんに気付いて席を譲るべきだったんです。叱られて当然です。すみませんでした」
ボクら夫婦は、おばあちゃんに頭を下げた。すると、
「んまぁ~! こんなクソババアに謝ってくれるんかいっ! 優しい子たちだねぇ~っ!」
おばあちゃんは感激して泣き出してしまった。
「ちょっ、おばあちゃん……!」
「泣かないでください!」
オロオロしているボクらの目の前で、おばあちゃんはハンカチで涙を拭っている。泣いてはいるけれど、おばあちゃんは笑顔だ。
「ああ! どうか元気な赤ちゃんが生まれますように! このクソババアが怒鳴ったせいで、悲しいことになりませんように! こんなに優しい夫婦が、ずっと幸せでありますようにっ!」
「あ、ありがとうございます……」
奥さんとボクは揃って、わざわざ拝んでくれているおばあちゃんに感謝した。
「……思わぬ展開だったわね……」
「ああ、ビックリマンボウだよ……」
あのおばあさんと別れた今、ボクらは産婦人科へと向かっている。色々あったけれど、良い経験になったことは確かだと思う。
「でも、あたし……もう流産するかもなんて言わないね」
「そうだよ。頑張ろう」
「うん」
「ボクが支えるから」
「ありがとう」
ボクら夫婦の元に、無事に赤ちゃんが生まれるのは、まだ少し先のことだ。
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