音漏れが分からないであろう音楽鑑賞中の乗客
電車内で音楽鑑賞していると、わたしはあることに気付いた。ふと顔を上げると、一人のおばあちゃんが怒っている。一体、何があったんだろう。わたしは気になって、一旦流れていた音楽を消すことにした。
「あたしゃあ88年も生きてきたが……随分と冷たくなったなぁ、世の中ぁ!」
えっ……それって、どういうこと?
マジで何があったの?
わたしが知らない間に、この電車では何かが起こっていたのだ。おばあちゃんの話は、まだ続くらしい。何か言いたそうな顔をしたままだ。
「勝手なのばっかだから優先席が作られたっちゅーのに、これじゃあ何のために優先席ができたのか……分かんないなぁ!」
優先席……あっ!
わたしが座っている場所は、そういえば優先席だった。わたしは座れるならどこでも良かったので、今朝は迷わずに空いている席に座った。優先席かどうかなんて、全く考えていなかった。
おばあちゃんは、誰にも席を譲ってもらえなくて怒っちゃったんだね……。
おばあちゃんが怒ると、わたしと趣味が合いそうな男性が立ち上がった。そのタトゥーが目立つ男性は、これまで読んでいたらしい音楽雑誌を片手で持ちながら、おばあちゃんにペコペコ頭を下げている。そして、その人は違う車両へと移ってしまった。
「さ、座りな。あたしゃ足腰を鍛えるから、ずーっと立ったままで大丈夫だ! だからぁ、誰もあたしに譲るなよ!」
……あれっ?
おばあちゃん、どうしたの?
自分が席に座りたかったんじゃないの?
そんな風にわたしが疑問に思っていると、おばあちゃんの隣に立っていた人が動いた。それで、わたしは分かった。おばあちゃんは自分のためではなく、側にいた妊婦さんのために席を譲って欲しかったのだ、と。そして、わたしは自分が今まで音漏れしていたことにも、やっと気が付いた。
わたし、すごいバカじゃん。
鈍いにも程があるよ……。
わたしは自分が情けなくなって、そのまま音楽鑑賞に戻ることなく、俯いて座っていた。
「……あっ……」
電車を降りて少しホッとしていたけれど、またドキッとすることがあった。あの妊婦さんが、わたしと同じ駅で降りたからだ。
「あっ、あの!」
「は、はいっ!」
妊婦さんを見つけて、わたしは思わず声を掛けてしまった。
「さっきは席を譲らなくて、ごめんなさい!」
頭を下げたって、もう遅いのに。いくら謝罪したって、今更なことなのに。どうしてわたしは、こんなことをしたのだろう。本当にバカだ。
「わざわざ、ありがとうございます」
「……?」
妊婦さんは微笑みながら、こんなわたしにお礼を言ってきた。わたしが戸惑っていると、妊婦さんは会釈して先に進んでいった。
「ふーん。あのときの音漏れは、君だったのか」
「へ?」
声が聞こえてきたので、後ろを振り向く。
「電車にいたときは、気付かなかったぜ」
「ええっ!」
そこにいたのは、わたしと同じ大学に通っている同期の男子だった。
「おはよう」
「お、おはよ……」
「しっかし、朝から色々あったよな~」
「み、見てたんだよね……今まで……」
「見てたよ。君だけじゃなくって、ばあちゃんも妊婦さんもタトゥーあんちゃんも喋っているカップルも化粧していた人もヨダレの奴もな」
「そ、そっかぁ……」
最悪。まさか好きな人に、あんなところを見られてしまうとは……。失態を見せて失恋するなんて……まだ告白もしていないのに……。
「かっけぇな、あのばあちゃん」
「そ、そうだね……わたしなんかと違って」
「は? きちんと謝ったんだから、君も良かったぜ。どうせ、もう二度とあんなことしないって、すぐ反省したんだろ?」
「えっ……」
嘘……。
わたし、褒められちゃった。
嫌われなかったんだ。
「何してんだよ、早く行こうぜ」
「う、うん!」
好きな人と歩く道は、いつもより何だかキラキラしていた。
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