その後、あの人たちは……。

ヨダレを垂らしながら眠る男子高生

 オレは今、電車に揺られながら寝たフリをしている。なぜなら今朝オレは、うっかり優先席に座ってしまったからだ。

 電車内で立っているのが億劫に感じたオレ。乗車するなり空席を探した。そしてキョロキョロした結果、見つけて座ったのは優先席だった。それに気付いたのは座った直後で、オレは後悔した。いつもは避けている「絶対に譲らなくてはならない席」に座ってしまうなんて……おれは何てことをしたのか、と。

 朝から面倒臭いことに巻き込まれたくなくて、下車するまで寝たフリをすることにしたオレ。わざわざヨダレまで垂らして完璧だ。しかし下車する前に、忘れずにタオルで拭こう。これなら席を必要としている人が自分の近くに来ても、堂々と気付かないでいられる。オレは席を譲らずに済むのだ……なんて思っていたのだが甘かった。


「なぁーんで誰も! この人に席を譲らないんだっ?」


 電車内に響いた、あまりにも大きな声。その怒声が耳に入ると、ついついオレはビクッと反応してしまった。バチッと目を開くと、すぐに声の主を知った。

 おお、あのばーさんか。

 それにしても、でっけぇ声だなー……。

 元気だけど、かなり迷惑だろうよ……あ。

 そのばーさんの側にいる女の人を見て、オレは「うわ、やっべ!」と思い、ばーさんがキレた理由を理解した。


「あたしゃあ88年も生きてきたが……随分と冷たくなったなぁ、世の中ぁ!」


 ばーさんの叫び声は続く。それにしても88歳とは。長生きだし元気だなぁ、なんて感心していると「勝手なのばっかだから優先席が作られたっちゅーのに、これじゃあ何のために優先席ができたのか……分かんないなぁ!」グサッ。


「さ、座りな。あたしゃ足腰を鍛えるから、ずーっと立ったままで大丈夫だ! だからぁ、誰もあたしに譲るなよ!」


 ばーさん、体も元気かよ……。

 オレは下を向きながら、激ヤバ……いや激タフばーさんにショックを受けた。

 通学中、オレは電車でずっと座っていられたけれど、何だか疲れてしまった。これなら立っていた方がマシだったかもしれない。ずるいことをした罰だろうか。

 うーん……。

 もう、この件については考えたくない。

 頭が痛くなる。

 ……よし、忘れるか!

 授業のことでも考え……あー……。

 今日は朝から英語だったぜ、つらい。




「つまり……Aの意見は『電車やバスに優先席はあるべき』ということで、Bの意見は『必要な人に席を譲るというルールがあるならば、わざわざ優先席を用意しなくても良いのでは?』ということだ」


 しかもオレにとってタイムリーな内容の英文を取り扱うとはな……。こういう風に英語の授業で、たまに道徳みたいになるの何なんだろうか。

 もうオレは呪われてしまったのかもしれない。あのばーさんの能力か? いや、いくらタフだからって、そこまでは……。


「Bは全ての席が優先席であるべき、と言っているんだろうね。確かに優先席じゃないからって譲らない、なんてことになったら大変だしなぁ」


 先生……目の前にいるオレは今朝、優先席に座っても譲ろうとしなかったクズなんすよ~。


「君は、この件について何て思う?」

「えっ」


 一番前の席のオレに、先生が話を振ってきた。あーあ、もうオレ逃げらんねーんだな。


「オレ……今朝、優先席で寝たフリしたんすよ」

「え!」


 先生は驚いている。目を合わせなくても、声だけで分かる。


「どうしてかっつーと、電車で立っているの億劫だったからっす。席を譲るのが嫌で、寝たフリしました。わざわざヨダレまで垂らして。うっかり優先席に座っちゃったんすよオレ。で、寝たフリしていたら、自称88歳のばーさんが何で席を譲らないんだ~って妊婦さんのために怒鳴って。まあ席譲んなかった人、オレ以外にもいたんすよね。で、最終的には何か手にタトゥーした怖そうな男の人が席を譲っていました。その人は席を譲ったら、すぐ別の車両に行っちゃったんすけど。でもオレは下向いているだけで、移動もしなかったっす。いやあマジで図太いっすよね、オレ。良いことした人がその場から離れちゃったのに、ずるいオレは下車するまでずーっと席に座っていられたなんて……すっげぇ胸糞悪いっすね~」


 アハハ……なんて笑って話を終わらせたが、教室はシーンとしている。ついヤケクソで語ってしまったが、これは失敗だ。スベった。最悪。自業自得だ「良い勉強になったじゃないか」……え?


「君は、きちんと反省できる人間なのだな! それは素晴らしいと思うぞ!」


 全く予想もしていなかった、先生からの言葉。俯いていたオレは思わず顔を上げる。すると静かだった教室はパチパチパチ……と音が響いた。

 おいおい、みんな良いのかよ。

 こんなクズのオレに拍手するなんて……。




 はーあ。

 やっと英語の授業が終わった……。

 何だか朝から疲れるよ今日は……あっ!


「先生!」

「おお!」


 先生に抱えられていた宿題のプリントが、ズルルッと二の腕から抜けてきた。


「せ、セーフ……」

「ありがとう、助かったよ」


 間に合った……。

 床に落ちる前に、オレはプリントをキャッチすることができた。しかも束は崩れていない。オレは安堵している先生にプリントを渡した。


「はい、どーぞ」

「何だ。やっぱり優しいじゃないか、君」

「えっ」


 プリントを受け取った先生は、オレに笑顔を向けている。オレが目を丸くしていると、先生は頭を下げて教室を出た。

 オレ、優しかったんだ……。

 もしかしたらオレは、自分が思っているほど嫌な人間ではないのかもしれない。

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ある朝の電車内での出来事 卯野ましろ @unm46

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